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闇と光 199/12

 悪はなぜ、どのような過程で存在するようになったのか、人間の問題を深く考えようとするときに、だれしもそのことを一度や二度は考えたことがあるだろう。
 しかし、聖書はその問題についてはごくわずか、象徴的な表現で述べているだけである。 人類の祖先とされているアダムとエバが禁じられた木の実を食べたからだという表現である。しかし、このような物語で納得する人はごく少ないと思われる。
 さらに、主イエスも、この世になぜ悪があるのかという問に対して毒麦のたとえという象徴的な表現で答えている。

イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国(*)は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
僕たちが主人のところに来て言った。『ご主人様、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

(*)この箇所における天の国とは、死後の世界のことを意味するのではない。天とは、神のことを言い換えた言葉で、国とは王の支配という意味。それゆえ、「天の国」とは、「神の(王としての)御支配」という意味になる。神がこの地上を王としてどのように御支配なさっているかということを示すたとえだということになる。

 ここでも、なぜ毒麦があるのか、なぜ、そんな有害な種を蒔いていく者がいるのかなどといったことは全く触れていない。
 しかし、聖書がはっきりと告げていることがある。それは、それらの悪は最終的には、神によって裁かれ、滅ぼされるということである。
 そして、ほかの箇所では、悪がいかにしてその力を失うのか、どのようにしたら私たちは悪の支配から免れることができるのかということを繰り返し告げている。
 聖書の一番最初にも、私たちの世界や人間の心の状態が暗示されている。

初めに、神は天地を創造された。
地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け・・、(創世記一章より)

 このように、最初の状態はいかなる秩序もない混乱と、闇があったということから、聖書は始まっている。たしかに周囲の社会を見ても、いたる所に闇があり、混乱が満ちています。教育の世界、政治、経済、科学技術、家庭などなどどの部分をとっても、混乱と暗い状況が浮かび上がってくる。一見はなやかなスポーツの世界でも、その最大の祭典である、オリンピックにもさまざまの闇の部分があることが、報道されている。
 新聞とは多くの場合、そうした社会の混乱と闇を伝えている。そして社会とは人間一人一人によって構成されているのであって、社会の状況はそのまま、一人一人の人間のなかに、混乱と闇が深く宿っているということになる。
 この創世記の最初の記述は、そのようなあらゆる混乱と闇のただ中に光が注がれるという事実を直接的に述べている。
 神がひとたび「光あれ!」と言われるなら、いかなる混乱と闇があっても、そこに光が臨むという真理を聖書は巻頭に宣言しているのである。
 この世の悪とか、闇がどのようにして生じたのか、なぜ存在するのか、等などの哲学的問題を私たちの頭でいくら考えても結局は、納得のいく説明などはできないのであって、そこに光はやっては来ない。
 ただ神の言葉を待ち望むこと、神の御手が働くことを信じて歩むとき、神は、必要なところに「光あれ!」と言われ、そこに光は宿る。
 私自身の過去を振り返っても、この世界や宇宙を真実な唯一の神が創造し、見守っておられることを知らなかったときには、まさしく混乱と闇が心にあった。その解決のためにいろいろの書物を読んでも、一時的にそうしたものへの光を感じることはあっても、ふたたび混乱と闇が忍び寄ってくるという状態であったのを思いだす。
 しかし、あるときからそれまで全く考えたこともなかった神がおられ、私たちを導いておられることを知った。そして心の最大の問題の解決の道を指し示してくれた。
 それは、神が迷える羊であった私に、「光あれ!」と言われ、私の心にそれまで全くなかった光で照らして下さったからであるとわかった。
 キリストは闇のなかに輝く光となるためにこの地上に来て下さった。心に闇を感じる人、この世の闇に心ふさがれる思いになっている人は、静まってキリストのもとに行こう。そこからどんな闇にも打ち勝つ光が注がれるのだから。
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