文字サイズ大きくするボタン文字サイズ中「標準に戻す」ボタン      

真のキリスト教 2000-2   -010-1

イギリスの有名な聖書注解者の書にふと見いだした言葉。
真のキリスト教はつねに危険のただなかにある。(Real Christianity is always in peril.)
 たしかにキリストご自身がそうであった。パウロも同様であった。そして長いキリスト教の歴史のなかで新しいところにキリストの福音が伝わっていくときには、いつも死の危険が隣り合わせていたほどであった。
 しかし現代において、キリストを信じるアメリカ、ヨーロッパそして私たち日本のキリスト者たちの多くはこのような危険のただなかにいるだろうか。
 このことは、生活のなかに祈りがあるかと深く結びついている。祈りがない生活とは、人間的な考えによっている生活であり、それはなんら危険とか犠牲を伴わない安全な生活だということになる。
 私たちが神の御旨に従っていこうとすれば、祈りがなくしては前進できない。この道をとったらどうなるかわからない時に、私たちは自然と祈らずにはいられなくなる。
 その意味で絶えず祈りをせずにいられない生活であるかどうかによって、私たちは何らかの困難のある道を見つめているかどうかを自ら知ることができると言えよう。
 前号で紹介したボンヘッファーの著書にもつぎのように記されているのが、ずっと以前に読んだときにも心に残っていたので、それを引用する。

 キリスト者にとって彼がほかのキリスト者との交わりのなかで生きることを許されているということは決して当たり前のことではない。イエス・キリストは敵のただ中で生活された。最後に弟子たちも皆、イエスをすてて逃げてしまった。十字架の上で彼は悪人や嘲笑する人々たちに取り囲まれて一人であった。だからキリスト者たちも、修道院の孤独な生活のなかに引きこもるのでなく、敵のただ中にあって生活するのである。そこにキリスト者たちは、その課題と働きの場を持つのである。(「共に生きる生活」より)
 
 このように、語ったあとで、ボンヘッファーは、つぎのマルチン・ルターの言葉をあげている。
 「あなたの敵のただ中に神の支配がある。そこでそのことに耐えることができない者は、キリストの支配を願わず、友人たちのただ中にいようとし、バラとユリの中に座っていようとし、悪人とともにいることを願わず、敬虔な人たちと共にいようとする者である。 ああ、あなた方、神をけがし、キリストを裏切る者たちよ!もし、キリストがそのようになさったとしたら、いったい誰が救われたであろうか。」
 ルターにしばしば見られる激しい調子のこの言葉には、彼自身がそのように敵のただなかに生きたという、自分自身の経験が背後に感じられる。
 私たちも現在の生活に安住するのでなく、本当に救いを受けた者として少しでもより困難な道を、祈りをもって歩んでいくようにと招かれている。
 主イエスが「狭き門から入れ。命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。」と言われたことはそうしたことをも意味すると言えよう。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。