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初めに神は天地を創造された。 2000-3

この一言から聖書は始まっています。他のどの国々や民族においても、このような天地万物を創造したお方が唯一であって、その本質が変わることのない真実を持っておられるお方であり、その唯一の神が宇宙のすべてを創造したということはわからなかったのです。
 それは、天地に生じる現象はあまりにも複雑で、混沌としているように見えるからです。例えば、激しい嵐のときに風は吹きすさび、それは波をも大きなうねりに変え、山々の樹木をも荒らし、ときには大木をも倒れさせます。また大雨は洪水をもたらし、山をも崩し、堤防や田畑を破壊します。火山などの噴火による火や煙、溶岩流などは、大地を破壊するかのように見えます。また、雷の稲光やその雷鳴は天からの激しい威嚇のように思われます。あるいは、干ばつで動物や植物たちも水や食物不足で死んでいくことがあります。
 人間にも、突然の事故や病気はおこるし、自然の災害に苦しむことも数々あったのです。
 このように自然の力は偶然的に生じ、無秩序に見えるために、どの民族もそれらすべてを唯一のお方が創造し、支配しているなどとは思えなかったのです。
 例えば、よく知られているギリシャ神話では、神々が世界を創造したのではなく、神が生まれでたときにすでに世界は存在していたと信じていたのです。神々が存在をはじめたとき、すでに天と地は創造されていたのです。ギリシャの最大の詩人、ホメロスは、「オケアノスは神々の親であり、万物の始まり」だと言っています。オケアノスとは、大地の果てにあって大地を取りまいている川であらゆる海も川も泉もそこから流れ出たものとされています。
 このように、すでに存在している大地に流れている川から神々が生まれたとされているのです。
 ギリシャの最高の神は、ゼウスといいます。しかし、このゼウスは別の神々であるクロノスとレアとの子供として生まれたとされています。
 ゼウスは天空の神で、雲を集め、雨をふらせる最も力のある神だとされていながら、海はゼウスの兄弟の神であるポセイドンが支配しているということになっています。
 そしてゼウスは至高の神であるといいながら、兄弟の神々や、妻のヘラという女神にだまされたり、人間の女の魅力に取り付かれて、次々とそうした女に引っ張られるという軽薄な姿をも持っているのです。
 こうした神々は、人間を越える力を持っているとされながら、人間そのものであってだましたりだまされたり、女性を誘惑したりするなど、到底人間の模範とは言えない存在です。
 すでにプラトンも主著の「国家」で、こうした神々の悪行は若い人々に対して、悪に対する非常な無頓着を生み出すとして、このような神々の物語は除くべきであると言っているほどです。(「国家」第三巻392A)
 他方、日本の神々はどうでしょうか。 
 古事記には、最初に現れた三つの神々は、現れたがやがていなくなります。その後に、国が水に浮いた油のようでクラゲのように漂っているときに、泥の中から葦が芽を出してくるようにして現れた神々がいたがその神々もまたいなくなったとされています。
 このように、最初の神々というのは、なにか幻のようなもので、現れたと思ったら消えていったというのです。
 古事記に現れる最初の神々がこんなにはかなく、泡のように消えていくというところは、聖書に記されている神が永遠に動かされない存在であるというのとは、鮮やかな対照を示しています。
 イザナミ、イザナギの神々も自然に現れたと書かれています。そしてその二人によって日本を構成する島々が生まれたとしています。
 そして、この二人の神々は次々に海の神、風の神、野の神などの神々を生むのです。そのとき、驚くべきことですが、吐いたものや、糞尿からも神々が生まれたと書かれてあります。また、イザナギの命(みこと)は、妻のイザナミが子供を生んだことが原因で死んだので、その時に泣いた涙でまた新しい神が現れたと記され、イザナギは、その子供の首を切って殺してしまいます。その時の血からも神が生まれたと記され、さらに殺された子供の頭や腹、手などからも別々の神々が生じたと書かれています。
 また、イザナギが黄泉の国を見て汚れたので川で潔めをした。そのときに投げ捨てた杖や帯から別々の神々が生じたとか、左の目を洗ったときに生じた神が天照大神で、右の目を洗ったときに生じたのが月読命という神であったと書かれています。 
 このように、太陽の神とされる天照大神ですら別の神が目を洗ったときに生じたのであって、いとも簡単に自然現象のように生じているのです。
 杖、衣服や、死体、あるいは排泄物からすら、神々が生じるというのは、植物や動物が簡単にあちこちで生じたり、それらが死んで腐敗してもまたそこから新たに虫がわいたり、カビや苔が生えてきたりすることからの連想でこのように記されているのではないかと思われます。
 このように神々というものが、至るところで、またさまざまの物質から生じるというのは、聖書で言われているような、天地万物をただ唯一の神が創造したというのとは、根本的に異なる発想であるのがわかります。
 ギリシャや日本の神話では、はじめにすでに天地が創造されていて、そこに神々が生じているということなのです。
 このような出発点に対して、聖書においては、まず冒頭に唯一の神が存在してその神が天地万物を創造したということが宣言されているのです。
 現在ならば、神が天地を創造したと何となく信じている人は多くいますが、それはキリスト教、聖書の影響だと言えます。
 古代においては、唯一の神が万物を創造しそれを支配しているなどとは到底信じることはできなかったのです。すでに述べたように、それほどに私たちを取りまく自然の世界も、人間世界も混乱しているからです。
 美しく咲いた花も嵐によってたちまち吹き飛ばされるし、川も大水であふれ、山も崩れるし、火山の噴火があれば美しい山肌も溶岩流で死んだような状態となる、動物同士は食い合うし、人間も悪人がはびこる、こうした状態はまさに混乱であって自然の世界も人間世界も統一して支配しているお方がいるなどとは、理性的に考えるととても受け入れられない考えだとわかります。
 この混乱と不可解な出来事に満ちた世界が唯一の神、しかも真実で正しい神によって創造され、支配されているということは、人間の考えや経験から生まれるのでなく、全くそれと独立して神からの直接の啓示によって与えられたことだったのです。
 現在においても、宇宙万物がそのような神によって創造され、今も支配をされているということは、どんなに大学での学問を重ねても、経験や知識が豊かな人であっても、だからといって信じるには至らないのです。
 古代に現れた天才たちも唯一の神がすべてを創造して支配しているということには到達できなかったのは、現在も同様です。
 いくら科学的に、また経験などを通して論理的に考えても、万物は唯一の生きた神が創造したなどということは導かれないのです。それは、神とは、あらゆる論理を越えた存在だからです。 
 聖書の巻頭の言葉を心から受け入れることができるということ、それは神ご自身からの啓示を受けたということが言えるのです。
 神が天地万物を創造したということを受け入れるなら、愛や真実、正義、清さ、美しさ、力などあらゆるよいことも神が創造したと受け入れることになります。とすれば、一見不幸な出来事も、その背後に神の何らかの愛や真実が込められているのであって、人間にはそれがなかなかわからないだけなのだというように受け取ることができます。
 また、世の中のさまざまの人間、すなわち病弱な人、健康な人、障害者、勉強のよくできる人、できない人、白人、黄色人種、黒人などなどいろいろの人たちもすべて神は深い意図をもって創造されている、少なくともその背後に愛の神の心があるのだと受け取ることができるようになります。
 また、私たちのまわりの自然についても、それが神の力、また愛や美しさ、あるいは清さなどがそこに込められていると受けとめることができます。
 万物を創造したのが神であり、しかもその神は真実に満ちた存在であるという二つのことを受け入れるとき、私たちの物の見方が大きく変わってきます。たとえ身体に障害をもって生まれたり、病気がちに生まれたとしても、また学校の勉強が十分にできなくとも、健康の人と同様に神は深い目的をもって創造されたのだというように受け取ることができるようになります。
 もし、愛の神が存在しないなら、たまたま病気がちに生まれたのだ、障害をもって生まれたのも偶然そうなったのだから運がわるいだけであってそこには何にも特別な意味はないということになります。
 創世記の天地創造の記述は、天地がいかにして創造されたかとかどのような過程を経て現在の状態に至ったかということを知らせるために書いたのではありません。
 いかにして天地の創造以来現在の状態になったかということは科学が少しずつ解明してきたことです。
 それに対して聖書は、天地を創造されたお方がどんな本質を持っておられるのか、また創造の目的や意味を告げている書物なのです。
 科学と聖書の記述はこのように根本的に違った視点からなされているのですが、多くの人たちはこの二つを混同しています。科学は決して存在そのものがなぜあるのか、その存在の目的や意味を教えてはくれません。例えば、人間の生物としての働き、脳や心臓や肺などの内臓のはたらきがいかに働いているか、その仕組みをいかに詳しく知ったとしても、だからと言って人間を殺してはいけないという結論は出てこないのです。
 人間を殺してはいけないというのは、まったくそうした科学的知識とは別のところから出てきます。
 また、人間が何の目的のために存在しているのか、どんな意味があって生まれたのかなどということもいっさい科学では答えることはできないことです。
 だから、比較的最近まで人間の内臓の働きなど正確にはわからなかったし、大多数の人々はほとんどそれらについて何にもわからなかったけれども、人間を殺してはいけないというのは、古代の人から現代にいたるまでだれでも知っていることです。
 また、植物がいかにして太陽の光と二酸化炭素から、土中の水や養分を用いてでんぷんを作り、それから美しい花を咲かせたりするのかという過程は詳しく知られるようになっています。
 しかし、そのような過程を知ったからといって、野山に見られるおびただしい野草や樹木の一つ一つの姿や、花の美しさが人間にどんな目的や意義を持っているのかわかるでしょうか。それらの自然の草木の姿や花の美などが私たち人間に何を告げているのか、科学は全く答えてはくれないのです。
 同様に、毎日見られる空の雲は科学的には、空気中の水蒸気が冷やされて百分の一ミリ程度の小さい水や氷の粒になったものだということがわかっています。しかしそうしたことがわかっても雲のあの多様な色や姿が人間にどんな意味と目的を持っているのかなどは依然としてわからないままです。
 さらに夜空の星の光は核融合という現象であるとわかっており、いかにしてあの莫大なエネルギーが生み出されるかということも科学が教えてくれます。しかし、その星の神秘な輝きが人間に対してもっている意味はまったく科学は教えてはくれません。
 このように、科学はいかにして生じているかを説明できても、その現象の目的や人間にとっての意味などは教えることはできないのです。
 もし、私たちが万物を創造した神を信じるようになると、すべての現象はみんな目的と意義をもっていることになります。神は無限の愛や真実のお方であるゆえに、目的もなく創造することは有り得ないからです。これは、人間の場合を考えても類推できることです。ある人間が愛を深く持っているほど、そのなすことはみんなその愛にかなった目的をもってなされるからです。
 天地万物がある目的と意味をもって創造されたのなら、現在の世界もある目的をもっていることになります。ですからこの世界も偶然的な出来事が生じて、無目的に進んでいるのでなく、世の終わりまである目的に従って導かれていると考えることができます。
 その点では、人間もこの世界や宇宙も同様だということになります。人間も愛の神によって創造されたということは、その生涯は必ず意味と目的を持っているのです。
 この世界も終わりにいたるまで神の目的、計画に従って動かされているであろうし、いかなることがあろうともそれも人間には計り知れない大きな神のご計画に従って生じているのだということになります。
 このように、聖書の最初に記されている「初めに神は天地を創造された」という一言は実に波及するところが大きく、広く深いのがわかります。この一言を本当に信じていくかどうかであらゆる見方が変わってくると言えるのです。
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