裁きはあるか 2000-3   -011-2

悪いことをして必ず裁きはあるかという問に対して、多くの人は、ある場合もあればない場合もあると答えるだろう。そしていくらでも私たちの周囲に悪いことをして何にも罰をも裁きをも受けずに過ごしている、かえって安定した名声や富を持っているという人もいるというだろう。
 しかし、裁きとか罰について考えるとき、何が悪いことなのかを考えないと正しい結論は出てこない。例えば、人の物を盗むことは悪いこととだれでも知っている。そして盗みを続けていたらいつかは捕まって刑務所に入れられるということは誰でも知っている。
 しかし、心の中で人の物を奪いたい、盗みたいという気持ちはいくら持っていても捕まらないし、裁きも受けないと思っている人が多い。
 しかし、実際にそれを行動に移したら悪いことを心で思うこともまた悪いことであり、そこにも裁きはある。それは、もしそのような考えを心で持ち続けていると、他のことでも、実行したら悪いことを心で思うことが多くなっていく。 
 そのような心を持ち続けることによって、人間の品性そのものが悪くなる。それが裁きである。そしてそのような悪い思いを持ち続けていくと、その人の声や表情、目などにも現れてくる。これは考えると不思議なこと、驚くべきことである。心にいつも思っていることが、表情とか目の輝き、あるいは声の調子などという目に見えるところに現れてくるのだから。
 嘘を言って得をしたといわれることがある。しかし、もしそのようなことがあったら、その人はすでに裁きを受けたのである。嘘そのものが悪いことであり、それがうまくいったということでその人はまた嘘をつくことになる。嘘に対して次第に心がマヒしてくるということ、そのような心には、清い喜びは生まれなくなっていく。そして本人はそのことがわからない。そこに裁きがある。
 また、逆に身近なできごとに少しでも心から神に感謝するとき、心にはなにかさわやかなものが生じる。たとえそれが路傍の野草や青く澄んだ空を見て、神の清さや無限の英知に対して抱く讃美の心であっても、あるいは、自分の隣人、さらには自分に害をなした人に対して小さな祈りをすることであっても、そうしたよきことは、必ずその人の心になにかよい種を植え付けることになる。
 このように人間の心の中まで考えるとき、どんなひそかなよき思いやよき行動にも、必ずよきことが伴うのであって、逆に悪い思いや行動にも必ず何らかの裁きが行われるようになっているのである。
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