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信仰を持たずに強い人はいるか  2000-2

信仰を持たずに強い人はいるか
 宗教を持たなくとも人は強くあることができるという考え方は日本人には多くみられます。だからこそ、特定の信仰を持っていると称する人は、日本では少ないのです。
 しかし私は今まで生きてきたなかで、信仰なくして本当に強いと感じることのできた人は一人も思い出せないのです。
 自分の力で会社を創って有名になった人、学問、芸術や、スポーツなどで生まれつきの才能と努力で大きな業績をあげた人たち、また特定の宗教に入っていないのに、まじめに一生懸命働いて、社会的にも評判のよい人、また宗教を持っている人よりもやさしくて、心が純真な人など、私たちのまわりにも多くいるでしょう。
 しかし、そのような人は、はたして信仰など持つ必要を感じないほどに強いのか、というとそれははなはだ疑問です。
 というのは、もし、そのような人がいったんガンだと宣告されたとか、交通事故で全身マヒになったとか、家族が重い後遺症になってその介護で生涯苦しまねばならないとか、あるいは、老年になって家族とか友人など親しい人とつぎつぎに別れてしまって、一人孤独な老人ホームとか自宅で病気療養をしなければならなくなったとしたら、そして必ず私たちを訪れる死というものが近づいてきたらどうでしょうか。
 ほとんどの人たちはそれまでの自分の力だけで生きて行けるという気持ちとは逆の、自分の力ではどうすることもできない苦しみや弱さ、痛みを抱えることになり、人間を越えたものにすがる必要を感じてくるのではないかと思われます。
 人間が弱いということは、たった刃物の一つによっても、また小さな弾丸一つによってもいとも簡単に死んでしまいますし、あるいは生涯回復できない傷を受けてしまいます。 数日水を呑まずにいたら、もう苦しくて耐えがたいほどになるのです。人間も生物の一つであって、すべての生物は、熱や放射線にきわめて弱いのです。
 聖書にも、つぎのように記されています。
彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる。(詩編三七・2)
 このように老年、病気、事故、人間関係などからも人間は弱さを思い知らされるのですが、そのようなことがなくとも、元気なとき、若いときであっても、私たちは弱さを痛切に感じることが多いはずです。
 それは、自分の気ままな生活をしているときには感じないけれども、ひとたび、正しいこと、真実にかなったこと、自分への報酬を期待しない純粋な愛を他者に及ぼそうとしたとき、どんな人でも、自分がいかにそうしたことができないかを思い知らされるはずです。
 この点においては、いかなる人も自分はそうした完全な正義や愛、真実を周囲の人々や社会に対して行っているなどということを言える人はいないのです。
 いったい誰が、神への信仰なしにキリストが言われたように隣人を愛し、敵を愛してその人のために祈るような心を持っているでしょうか。隣人とは、たんに近所の人という意味でなく、出会う人すべてという意味です。自分の家族だけでも本当に愛することは大変なのに、他人も同様に愛するなどということは、到底できないことです。
 しかも、ごく一時的にそのような気持ちでできる人はいるかも知れませんが、ずっと長期間にわたってそのような純粋な心と愛を持ち続けるなどということはありえないことです。それは、自分のまわりの人々を見ても直ちにわかることです。
 キリスト教がいうような愛とは、好きな人だけにというのでなく、無差別的であり、ある期間ということでなく、いつまでもずっと続くものをいうのであって、こうした愛を自然の人間が持てるなどということはありえないことです。
 また、事柄の真実を見抜くということにしても、例えば太平洋戦争が天皇を現人神として、アジアの国々に侵略をする戦争であったけれども、それをいったいどれほどの人が見抜き、そしてその間違いをはっきりということができたでしょうか。ほとんどの人が日本の軍部や政治家たちにだまされていたのです。 
 このように、何が正しいことであるかを見抜き、またその正しいことを実行するということは至難のわざです。そこに弱さがあるのです。
 また、原子爆弾とか水素爆弾のようなおそるべき兵器が作り出されるとは、広島や長崎に原爆が投下されたわずか八年ほど前には、世界のだれも考えたことがなかったのです。(核分裂は一九三八年、ドイツのオットー・ハーンやリーゼ・マイトナーらによって発見された)
 このようにどんな天才であっても先のことを見抜くことができないという弱さをすべての人間は持っているのがわかります。
 阪神大震災にしても世界のあらゆる科学者もだれ一人それを見抜くことはできませんでした。そこに人間の弱さ、限界があります。
 こうした科学技術に関することだけでなく、自分自身のことでもいつ不治の病になるのか、いつ死ぬのかどんな状況で死ぬのかなどまったく分からないのです。自分の病気そのものすら、たしかに医者ですら診断できないことも多くあります。
 人間が弱いというとき、このようにさまざまの意味があります。
 どこから見ても人間の強さと思えるものはごく一時的なものであって、どんなに強そうに見える人でも必ずそのうちに弱さを思い知らされることになります。
 聖書は、そしてキリストはこのような人間だれもが持っている弱さを認めるところから出発するのです。そういう意味では、ごく当然のことが基本となっています。
 こうした弱さを知っている心の状態を「心の貧しい者」とか「幼子のような者」といった表現で言われています。
 この世には三種類の人間がいると言えます。
 一つは、自分が強いと思っている人間。
 二つ目は、自分が弱いと思っているが、そこから逃れる道を知らない人。
 そしてこの中には、その弱さの中に沈んでしまって、逃れる道を求めようとする心もない人。そしてもう一つは弱さを何とか乗り越える道を探し求めている人があると言えます。
 三つ目は、弱さを知って、そこに力を与えられる道を知っている人で、キリスト教というのは、実はこの弱さのただ中にあって力を与えられることを約束しているのです。
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