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荒れる淵と闇の中にて 2000/3

地は混沌であって、闇が深遠の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
神は言われた。「光あれ」
こうして光があった。(創世記一・2〜3節)
 これらの言葉で、世界が創造された時には、どんな状態であったかが記されています。聖書では、まず混沌であった、すなわち一切のものが、秩序なく、完全な混乱状態であったというのです。
「神の霊が水の面を動いていた」という文の意味は、闇のただ中において、これから創造されようとするものを生み出すべく、神の霊が動いていたと説明されます。たしかに神の霊はいかなる闇にあっても、万能の力を持っているゆえに、新しいものを生み出す力をたたえているのです。
 しかし、この文はかなり異なる訳が可能とされてきました。「霊」という原語ルーアハ(ヘブル語)は、「風」という意味が本来の意味であり、「神の霊(風)」という言葉は、「神」という語が「大なる、非常な」という形容詞としても用いられている箇所(サムエル記上十四・15)もあるところから、これは、「大いなる風」とも訳されています。ですから、この冒頭の箇所は、次のようにも訳されています。
地は荒涼混沌として闇が淵を覆い、暴風が水面を吹き荒れていた。
(前田護郎訳、なお前田氏は、元東京大学教授、西洋古典学、聖書学専攻で無教会のキリスト者。この訳は、中央公論社刊行の「世界の名著」シリーズの第十二巻」に収められています。)
 なお、外国の聖書の例もあげておきます。一例として、アメリカの代表的聖書(新改訂標準訳 NRSV )では、欄外注も含めて次のようにいくつかの訳を示しています。
・神からの風が水の面を吹いていた。(a wind from God swept over the face of the waters.
・神の霊が水の面を吹いていた。(the spirit of the God swept over ・・)
・大いなる風が水の面を吹いていた。(a mighty wind swept over ・・)
 
 このような訳から見ると、いっそうこの創世記の冒頭の箇所は、完全な闇と混沌、そして激しい風が暗黒の中で、一面に広がる荒れ狂う海に吹いていたという状況を表していることがわかります。
 このように、聖書が闇と混乱、荒れ狂う海の描写から始まっているということは重要なことです。ここに聖書はどんな書物であるかが示されているからです。
 どんな書物でも目的を持っています。私たちが書店で見る書物は、例えば小説、雑誌、週刊誌などなど、それらは人間の意見や作者の想像して作った話を伝えたり、単に商売目的で出しているものなどが大多数です。
 聖書はそうしたものとは違って、この宇宙を創造した神の御心、御意志が書かれています。神の御意志は、恐ろしい闇と混乱のただ中に光を与えることであったのです。
 私たちの世界には、至るところで闇があります。新聞に毎日のように出ているさまざまの犯罪はその闇を表しています。その犯罪を犯す人の心は闇であるし、その犯罪を受けた人やその家族もまた回復できない闇に包まれてしまうことも多いのです。
 また、病院にも数しれない人たちが日々の生活を病の苦しみや将来の心配で心を暗くして過ごしています。政治や官僚の世界、企業の活動などもさまざまな不正が行われるので、しばしば新聞に載っていることです。
 マスコミによく出るきらびやかな芸能界やスポーツなどの世界もその例外ではありません。はなやかな世界、マスコミなどで大々的に取り上げられる世界ほど、背後には深い闇があることもしばしばです。それは、そうした世間が注目しているものは、金がつきまといその金や名声を目的として人間が集まるからです。
 例えば、スポーツの代表的祭典であるオリンピックも、その開催に当たって、特定の企業が莫大な収益をあげようとする、誘致のために不正な活動をする、委員が受けるべきでない不正な利益を受ける、選手が禁止されている薬物を使うなど、多くの闇があります。
 こうした闇を数え上げるときりがありません。そもそも人間そのものが闇の部分を深く持っているからです。光と清さそのものである神に背を向ける本質が人間にはあるからです。
 聖書の最初に出てくる人間とされているアダムとエバが神によって備えられた理想の環境で生活していたのに、そのような素晴らしい環境を与えてくれた神に背いてしまったということは、人間の深い闇を象徴的に表しています。
 こうした人間そのものが持っている闇というだれでもが知っている現実に対して、神はどのようにされようとしているのか、そのことが聖書の中心テーマとされています。私たちがどんなに科学技術の産物によって便利になっても、心は少しもよくはなりません。不便きわまりなかった昔と比べて人間の心の思いやりとか清い心、勇気などといったものは全く伴ってはいないのを知らされます。
 私たちの人間そのものが闇の部分を深く持っていること、それを聖書では罪と言っています。
 闇を直視するのでなかったら、光がどんなに必要なのかもわかりません。闇の恐ろしさを思い知った者は、そこに注がれる光を何にも増して待ち望むし、その光を何よりも大切なものとみなすはずです。
 聖書は一言で言うならば、「闇が存在すること、そしてそこに注がれる光があること」を宣言している書物だと言えるのです。
 人間を絶望させる深い苦しみがある、しかし、その絶望のなかに希望をもたらす光があること、人間には、罪がある、しかしその罪を救う救い主がおられることを言っているのです。
 私たちが多くの書物を読み、多くの経験を積み、多くの知識を持てば持つほどに、この世の闇はますます深くわかってきます。人類の過去から現在、そして将来はどうなるのか、核兵器の増大や、原発の廃棄物処理、遺伝子に関わる技術のはんらん、公害その他のため科学技術は人間を滅ぼしてしまうのではないのか、人間そのものは少しもよくなっていないのに、このような大量破壊兵器や生物の根源である遺伝子を操作する技術がますます盛んになったらどうなるのか、等など。
 私たちが真の光を得るためには、書物による学問を積むだけでは得られないのです。太平洋戦争のような大規模な戦争を引き起こし、世界に計り知れない苦しみや悲しみという闇を作りだしたのも、当時の政治や軍、あるいは経済界の指導者たちであり、多くの学問をしたはずの人たちであったのです。 
 昔の人たちはどこの国においても書物を読むことなどほとんどの人はできないことでした。字を習っていない人が多数を占めていたうえに、書物そのものがきわめて貴重であり、一般の人たちには手にすることもできなかったからです。
 このような無学な人たちが大多数であっても、光はそうした一般の人たちに注がれてきたのであり、聖書で言われている「光」とは、どんなに無学であっても、病弱であっても地位が低くても、注がれるような光なのだとわかります。
 この世には、闇がある、しかし光がある、それが聖書の一貫した主張なのです。
 だから、旧約聖書には神が光を与える存在であることが多くの箇所で記されています。そのうちの特によく知られた箇所をあげます。

見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。
しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。・・
太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。
主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。
あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。
主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。(イザヤ書六十章より)

 闇は地を覆うほどに、広く深く我々を包んでいます。しかし、神を信じるときには、不思議なことにそうした闇のただなかに神の光が輝くと約束されています。

 新約聖書にもその最初のマタイ福音書においても、イエスの働きが始まったことは、旧約聖書に預言されている次の言葉が成就したことなのだと記されています。

暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。(四・16)

 私たちの生活はますます便利になり、数々の科学技術の産物が取りまいています。しかし、だからと言って人間の心がやさしくなったり、清くなったということはだれも思ってはいないのです。かえって人間の心は善悪を見抜く洞察力が弱くなっていることも多く見られます。
 そして、人間の心には、科学技術がいかに発達し、コンピュータのような便利な物が多くなっても、やはり深い闇があるのです。そうした闇の一端が、オウム真理教事件、神戸の少年の驚くべき犯罪や最近の小学校に侵入して幼い命を断ったなどという異様な事件にも現れています。
 こうした犯罪を起こす人間の心は、まさに混沌であり、闇であり、激しい風が吹き荒れている状態だと言えます。そしてこのようなことは、決してそうした特別な人たちだけにあるのでなく、日頃はごく普通の人であっても、ひとたび大きい事故や重い病気、事件に巻き込まれるとき、たちまち混乱し、闇に包まれ、心に恐ろしい風が吹き荒れる状態と化してしまうのです。
 今から数十年前の戦争のときなどは、国家全体がそうした闇と混乱でファシズムという激しい嵐が吹き荒れることにもなったのです。
 このように、創世記の冒頭の箇所、従って聖書の最初の記述は単なる古代の人の創造説を書いているのでは決してなく、古代から現在に至る人間社会の困難でけわしい問題そのものを提起しているのがわかります。
 本当のものを求めようとする人たちにおいては、もっと便利さを、もっと快適さを、ということ以上に、「もっと光を!」という願いが強くなってくると思われます。
 もっと便利なもの、快適なものをという方向は科学技術の産物をはてしなく生み出してきました。しかし、身近な車一つをとってもわかるように、それはハンドルを少しきるだけで、重大事故となるものであり、その時には自分も他者も取り返しのつかない闇に投げ込まれることになります。
 また、科学技術の最先端の産物として原水爆や原発がありますが、これはひとたび使われると何十万、何百万という人たちを一瞬にして恐ろしい闇に突き落とすものです。生命科学の最先端には、遺伝子操作がありますがこれも、やはり間違って使うと、人間に取り返しのつかない闇をもたらすことになるでしょう。
 このような現在をも創世記の記者はすでに見抜いていたとも考えられます。神の霊は時間を越えて洞察する力を与えるからです。
 それゆえ、前途がどうなるかだれにもわからない私たちの時代にあって、果てしない闇と混乱の中に光をもたらすことのできる神を指し示しているのであって、この創世記巻頭の言葉は、まさに暗夜に輝く燈台の役割を果たしてきたし、今後も果たし続けていくのです。
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