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読書会から 2000-4

 もうずっと以前から私たちの集会では、毎月一度読書会をしています。最近十数年は、内村鑑三所感集(岩波文庫)ウールマンの日記ダンテの神曲などを学んできました。神曲は、十年ほどを要してようやく一九九八年の十月に終えることができました。
 九十八年十一月から内村鑑三の「一日一生」を始めて、毎月十日分を学んでいます。今月は、五月十一日から二十日までのところでした。今回は、以前に学んだところも含めて、一部を取り出してみます。(表現は、現代のわかりやすい表現にしてあります。)
 この書物は、内村のいろいろの著作から、内村の弟子が選んだものです。聖句とともに内村の感想が記されています。なお、内村の文章のあとの、○印をつけた文は著者(吉村)が感じたことです。
全地よ、主に向かって喜びの叫びをあげよ。
喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ。
知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。
感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。
感謝をささげ、御名をたたえよ。
主は恵み深く、慈しみはとこしえに、
主の真実は代々に及ぶ。(旧約聖書・詩編第百編)
 私の祈りは大部分は願いごとではありません。私はまず胸いっぱいの感謝をもって、私の祈りを始めます。
 私はこのように、うるわしい宇宙に生きることを与えられたことについて、私の神に感謝します。
 私は良い友人を与えられたことについて、また、私に是非善悪を判別して正義の神を求める心を与えて下さったことについて、特に私が神から離れて私利私欲を追求していた時に、私の心に主イエス・キリストを表してくださって、私の魂を救って下さった絶大な無限の恵みについて深く感謝します。
 そうして感謝の気持ちが私の心にあふれるときには、私は路傍に咲くスミレのゆえに感謝します。
 私の顔を吹いていく風のために感謝します。
 また、朝はやく起き出して、東の空が朝焼けで金色にみなぎる時などは、思わず感謝の讃美歌を歌うこともあります。(五月十九日の項)
○内村の祈りは感謝が中心にあったのがわかります。そしてその感謝の源は、自分が罪を知らされ、方向転換をさせて下さったことにあったのです。かつての自分は、自分中心であり、自分の欲望や願いを追求するために生きていたけれども、主イエスがそのような方向から根本的に転換させて神中心へと向け変えられたことが感謝の中心にありました。
 この感謝の心が深く刻まれていたからこそ、今生かされていることに感謝ができ、またよき友も与えられていったのです。
 そしてこの感謝があるとき、道ばたの野草の花や、顔にしずかに吹いてくる風ですらも、神が自分に与えてくれたプレゼントであると感じることができ、感謝の気持ちが湧いてくるというのです。
 自然を愛して、それを歌う人は多くいます。しかし、神を信じないならば、自然のさまざまのよきものを神からの自分への個人的な贈り物であると実感して、神に感謝することはできないと思われます。
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イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。あなたがたも信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことができるばかりでなく、この山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。
信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイ福音書二十一・21〜22)
 世には金銭の力があり、政権の力があり、知識の力がある。けれども、祈りの力には及ばない。
 これは、じつに誠実の力であって、山をも透し、岩をも砕く力である。
 世の真に大きな仕事というのは、みな、祈りの力によってなされたものである。
 祈りの力によらないで、建てられた国家は虚偽の国家であり、永久的不変の基礎の上に据えられたものではない。
 祈りの力によらないで、成った美術は、天の理想を伝えるものはない。
 祈りは精神的な命を得る唯一の秘訣である。
 だから、祈りのない国民から大政治家、大美術、また大文学、大発見、その他大と称せられるものが出てくるはずはない。(一月二十九日の項)
○この世で一番強力なものは、誠実の力、真実な力であると言われています。これは、ある意味では驚くべき断言です。というのは、この世では、誠実の力など全然信じない人が多数を占めているからであり、嘘、偽りの力あるいは、政治家の権利、軍事力こそ大きいと思っている人が多数を占めているからです。
 しかし、誠実の力とは、最も力ある神にまっすぐに向かう心であるゆえに、その神の力が注がれるゆえに最も力あるものだというのです。
 かつて旧約聖書の遠い時代に、ヤコブという人は、一人困難な旅路を砂漠のような水のないところを通って行きました。そのとき、夢のなかに現れたのが、天にかかる階段であり、そこを天使が昇り降りしていたというものです。この意味深い夢は神ご自身の持っておられるよき賜物や祝福が信じる者と神とを行き来するという内容を暗示するものです。
 誠実に祈るとき、宇宙の創造主から、神の力が降り、そして私たちの弱さや汚れを取り去って持っていくということなのです。
 ひたすらなる祈りなくば私たちのなすことは、自分中心となり、汚されたものとなり、崩れていくものでしかないものです。
 神のそして主イエスの真実の祈りがこの世を支えているとも言えます。そしてそのような真実な神へ心をまっすぐに向けて祈ることによって、このキリスト教が二千年の歳月を越えて、最も力あるものとして世界の人間の心に宿ってきたのです。
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