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復活と春 2000-4 -013-1

 春になって枯れたようになっていた木々からいっせいに、新芽が現れてきた。あたかも、暖かい日の光に命を与えられ、押し出されるようにして生き生きした新緑が木を覆うようになった。それらの樹木を見つめると、その背後の命に満ちた存在が感じられてくる。
 私たちの存在も、いずれ枯れたようになって死にいたる。

けれども、神の命は春の太陽のように、私たちの枯れた存在を新しく生かせて下さる。どんなに、病気でからだがむしばまれていようとも、またいかに罪深い者の心をも、そして汚れた罪にまみれた者であっても、ただ、神への真実なまなざしを持つとき、私たちはそこからまったく異なる新しい命に生かされるようになる。

主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた覆いと、すべての国を覆っていた布を取り除き死を永久に滅ぼしてくださる。

主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民が受けたはずかしめを地上からぬぐい去ってくださる。(イザヤ書二十五・7〜8)

悪と災害

 この数年、日本には外国でも聞いたことのないような驚くべき出来事が生じてきた。宗教と称するものが大量殺人を周到に計画して実行にうつそうとしたことや、まだ子供でありながら、同じような子供の命を奪ったり、保険金を得るためにわが子をすら殺したり、薬物で多くの人の命を奪うことを企てたり、また、五千万円という多額の金を中学生が暴力などで継続的におどしとるなど、想像もできないような悪事をする。

 また、他方大きな地震や、噴火、そして原子力関係の事故など、いろいろと生じてきた。なぜ、そんな悪事や人間が苦しむような災害が生じるのだろうか。

 こうした事実だけを見ていたら、神が存在するなどとはとうてい思えないだろう。

 そしてこのような、悪や災害は人間の生まれたときから続いている。

 聖書の一番最初の家族の記事は、驚くべきことだが、兄弟をねたみ、憎んで殺すという目を覆いたくなるような記事から出発しているのである。

 そしてすでに旧約聖書のはるか昔から、神の選んだ民であっても、雨がふらず、作物がまるでできないために生きて行けず、遠いエジプトまで行かざるをえなかったことも書かれている。

 また、新約聖書では、最も完全な愛のお方であった、イエスが十字架でのくぎ付けという最もおそろしい刑罰を受けて殺されてしまった。

 このように、聖書は決して人間の願う通りにはなっていないことをはっきりと最初から記している。

 聖書にはこのような悪や、災害などからの苦しみのただなかにおいて、人間が神に導かれ、それらに勝利していく道が示されていると言えよう。

 復活があるということによって、あらゆる悪に勝利するための最大の道が示されていることになる。死とは、あらゆる悪や病気、災害あるいは老齢による苦しみの結果として訪れるものであるが、復活とはその死からの勝利であり、死から神の輝かしい命に復活することだからである。

 神は、復活という光をもって、この世の悪や災害に打ち倒されない道を人類に示されたのであった
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