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二つの道 ・申命記三十章より 2000-4

 申命記は創世記、詩編、イザヤ書などとともに新約聖書に特に多く引用されているので、その意味でとくに重要な内容を持っていると言えます。
 ここでは、とくに三十章を中心としてその一部の内容を学びたいと思います。
 あなたが、あなたの神、主によって追いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び集めてくださる。
 たとえ天の果てに追いやられたとしても、あなたの神、主はあなたを集め、そこから連れ戻される。・・
 あなたの神、主はあなたとあなたの子孫の心に割礼を施し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主を愛して命を得ることができるようにしてくださる。
 あなたは立ち帰って主の御声に聞き従い、わたしが今日命じる戒めをすべて行うようになる。・・
 あなたが、あなたの神、主の御声に従って、この律法の書に記されている戒めと掟を守り、心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神、主に立ち帰るからである。
 わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。・・
 御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる。
 見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。 わたしが今日命じるとおり、あなたの神、主を愛し、その道に従って歩み、その戒めと掟と法を守るならば、あなたは命を得、かつ増える。あなたの神、主は、あなたが入って行って得る土地で、あなたを祝福される。
 もしあなたが心変わりして聞き従わず、惑わされて他の神々にひれ伏し仕えるならば、 わたしは今日、あなたたちに宣言する。あなたたちは必ず滅びる。ヨルダン川を渡り、入って行って得る土地で、長く生きることはない。
 わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。
 あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、・・(旧約聖書・申命記三十章より)
 申命記とは、わかりにくい書名です。現在の私たちが全く使わないような名称で、この名前を見ただけで敬遠したくなるような書名だと言えます。ですから、聖句は多くの人々に引用されるけれども、申命記からの引用はほとんど見た記憶がありません。
 申命記という書名がなぜつけられたかについて。
 英語の書名は、Deuteronomyといいます。ギリシャ語で、deuteros は second の意味で、それはギリシャ語の duo(2の意)から来ている。deutero + nomos(法律)からこの Deuteronomy は作られている。もともとは、旧約聖書の七十人訳が申命記十七・18の「この律法の写し」というのを、「この第二の律法」(to deuteronomion) と不適切に訳したところから来ている。しかし、内容的には、この名称は不適ではない。出エジプト記の二十・22-二十三・33 を再び載せているからである。日本語の名称は、英語訳から中国語になったものをそのまま受けたもので、「モーセが神から受けた命令をもう一度申す記述」という意味で申命記と名付けられている。
 しかし、意外なことに新約聖書では、詩編、イザヤ書などとともに特に多く引用されている書物なのです。例えば、主イエスが荒野の誘惑を受けたとき、悪魔がイエスの非常な空腹をみて、石をパンになるように命じてみよと言ったことがありました。そのとき、主イエスが答えたのは、自分の言葉でなく、旧約聖書の申命記八章からの言葉であったのです。
イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』(申命記八・3)と書いてある。」(マタイ福音書・四・4)
 さらに、このサタンの誘惑において、「神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、天使が支えてくれると書いてあるのだから。」と言ったときに、主イエスはつぎのように言われました。
イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。(マタイ福音書四・7)この引用された言葉もまた、申命記六・16にある言葉です。
 そして第三の誘惑で悪魔が、自分にひれ伏したらすべての国々やその栄華を与えると言われたとき、主イエスはつぎのように答えて、サタンの誘惑を退けたのです。
すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」(マタイ福音書四・4)
 ここで引用されたのは、申命記六・13にある言葉です。
 さらに、最も重要な戒めは何かという問いかけに対しても、主イエスはつぎのように言われました。
イエスは言われた。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(マタイ福音書二十二・37)
 これは、つぎの申命記の言葉をそのまま引用したものです。
あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。(申命記六・5)
 また、使徒パウロはローマの信徒への手紙のなかで、「み言葉はあなたの近くにあり、あなたの口に心にある」と申命記三十章14節を引用して、「口でイエスは主であると公けに言い表し、心で神がイエスを死人の中から復活させたと信じるなら救われる。実に人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われる。」と言っています。
 そしてさらに、ロマ書の次のような箇所にも申命記から引用しているのです。
それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、「わたしは、わたしの民でない者のことであなたがたにねたみを起こさせ、愚かな民のことであなたがたを怒らせよう」(申命記三十二・21)と言っています。・・(ロマ十・19)
・・他の者はかたくなにされたのです。
「神は、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられた、今日に至るまで」(申命記二十九・4)と書いてあるとおりです。(ロマ十一・8)
 旧約聖書は膨大な内容がありますが、以上のように主イエスやパウロが多くの箇所を申命記から引用していることがわかります。
 ことに主イエスは、伝道の最初の荒野で誘惑を受けたときにも、サタンに対抗するべく言われた三つの旧約聖書の箇所はすべて申命記であったこと、また最も重要な戒めというところでもやはり申命記を引用されたことも主イエスの心のなかに申命記が大きく位置を占めていたことをうかがわせます。
 はじめにあげた申命記三十章において現在の私たちにもそのまま受け取れる重要なことは、つぎのようなことです。
1)私たちの前途には祝福と災いの二つの道があること。(1、15節)
2)祝福の道を歩むためには、心を尽くし、魂を尽くして神の声に聞くこと。(2、8、20節)
3)神に立ち帰ること(8、10節)
4)そしてやはり心を尽くし、魂を尽くして神を愛すること。
3)その結果として命を与えられること。(6、16、20節)
 などが言われています。
 こうした内容は、新約聖書で繰り返し言われていることに通じるものがあります。
二つの道ということについては、主イエスの次に示す教えで知られています。
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ福音書七・13、14)
 申命記に言われている祝福の道とは、主イエスの言われた狭い門から入る道でありますが、それは滅びることのない命へと続いています。そして災いやのろいの道とは、主イエスの言われた滅びに通じる道です。
 私たちが生きていく道というのは、人それぞれであり、数しれない道がある。ある人は、出世の道、ある人はただ安定した豊かな生活を求める道、あるいはスポーツや芸能で有名になろうとする道、またある場合には、賭事や快楽を求める道などなど、また子供には、勉強だけする道から、遊びやゲームばかりする道などと、人間はじつにさまざまの道を各自で選んで生きています。
 しかし、聖書においては、じつにはっきりと人間の道は、祝福の道か災い(のろい)の道か、そのいずれかだと言っています。このように単純化してとらえる姿勢は、聖書においてはあちこちで見られます。
 主イエスも有名なぶどうの木のたとえで言われました。
人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。(ヨハネ福音書十五章5、6)
 要するに私たちが生きる道というのは、神に聴き、神に従う道であり、主イエスに結びついて生きる道だということです。
 また、この申命記でも言われている重要なことは、「神に立ち帰る」ということです。それは、神に聞くことが根本であっても、人間は人間の声に聞き、人間的な欲に引っ張られるということがじつに多いわけです。そのようなときに、重要なのは、神に立ち帰るということです。滅びとのろいの道とは真実と愛である神に背く道ですが、その方向から方向転換をして、神の方向へと再び向きなおることです。
 道は神の方向か、神に背くかという二つしかないので、私たちはまちがった方向に進み始めたら、そのことに気づいたとき直ちに方向転換して神の方向へと向かえばよいわけです。
 主イエスが初めて、新しい福音を宣べ伝え始めたとき、その内容の要点は、「悔い改めよ、神の御支配は近づいた。」ということでした。この悔い改めという言葉も、原語(ギリシャ語)の意味は、心の方向転換ということです。
 十字架で処刑されるほどの重い犯罪人であっても、心から主イエスに方向を向け変えて帰依するとき、あなたは今日、パラダイスにいるのだとの約束を与えられたことも聖書に記されています。
 つぎにこの申命記の記述で特徴的なのは、「神を愛する」ということが繰り返し強調されていることです。旧約聖書では神はおそれるべき存在であって、神に近づいたりすると人間の汚れのために、殺されるというほどでした。(出エジプト記十九章)
旧約聖書には、神を愛するという言葉は、全体としてみると申命記以外にはごく少なく、申命記には十数回現れ、ヨシュア記に二回ほど現れる以外にはほとんど見られません。
 このことは、ほかの宗教を考えてみてもいかにこの申命記が深い啓示を受けていたかを示すものになっています。
 この地球や宇宙の数々の驚くべき現象や、不可解な出来事をまえにして、それらは大地震や台風などのようにときにはあまりにも非情なもの、胸の痛むような自然現象も生じます。
 そのような事実をはっきりと知ってなお、そのような自然現象を引き起こす神を愛するということはふつうなら到底できないことです。そうした得体の知れない力は自分にどんな厳しいことを起こすかわからないので自ずからそのような力には恐れの念が生じるのです。しかも、暴風や大波、自然に生じる山火事、津波、竜巻、稲妻など昔の人にとっては神秘きわまりない現象であって、そうした巨大な力を前にしては人間の力など無に等しいほどのものです。そしてそのような自然の激しい力に人間が巻き込まれるとひとたまりもなく、死んでしまいます。
 このようなことから、どこの人間も自然の背後の神を愛するなどとは到底思うことはできなかったのです。愛とは、最も身近な感情であり、だれでも何らかのものを愛しているはずです。
 神を愛することができるということは、このような自然現象を見つめるだけでは生まれてはこないのであって、神からの啓示がなければ到底神を愛することは考えもしないことなのです。
 キリストがこの申命記の言葉を重要なところで引用していますが、申命記は人間と神とのあるべき姿をはっきりと教えてくれている書物です。
 それならばどうしてキリストが必要となったのか、申命記のような古い書物にすでにあることを、キリストは繰り返しただけではないのかと疑問に思う人もいるかも知れません。
 申命記では教えたのであり、神に対してどうあるべきかわからない人々に光を与えて指し示したと言えます。そして、キリストはそうした昔からの教えのうちから特別に重要なものを再び掲げ、それをたんに教えるだけでなく、それを実行するために妨げとなっている罪を取り除き、実際に歩めるようにして下さったのだとわかります。
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ福音書十四・6)
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