ことば   2000/5

(105)わたしはわが主イエス・キリストにならって教会といわれるものを建てることをしない。

 教会は真理を制限するものである。そして制限せられて真理を広めることは困難である。

 私は真理そのものを伝えて、その保存とか植え付ける方法などを考えることをしない。私は単純な伝道者であることを望む。(内村鑑三所感集より)

○歴史的教会がキリスト教の伝道に大きな働きをしてきたことは誰もが知っている。しかし、他方ではその教会が大きな組織となり、固定化してくると、さまざまな問題を生じて真理を制限しようとすることも多くあった。組織の維持のためには、いろいろの役職が生じ、その地位を欲しがる者たちが生じ、またその地位を守るために真理そのものを圧迫するという矛盾したことも生じてきた。カトリック教会もかつてそのような固定化した様相を呈していたとき、ルターが真理そのもの述べて宗教改革が起こった。

 キリストご自身も当時の固定化した宗教者たちによって制限され、圧迫され自由に真理を伝えることを禁じられていった。

 主イエスはただ真理そのものを宣べ伝えた。内村もそのような単純な伝道者であろうとしたのである。

(106)祈りとは、単に何かを頼むことではない。

それは、魂の切なる願いである。

それは日々、自分の弱さを認めることである。・・

 集会における祈りは力あるものとある。私たちがしばしば一人でなしえないことを、私たちは共にすることによってなすことができるからである。(ガンジー・「Young India」誌 1926.9.23)

○「心の貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものであり、心に飢え渇きを感じる者は満たされる。」と言われた主イエスの言葉が思い出される。祈りとはこうした心の弱さと渇きを日々感じる者の呼吸に似ている。私たちは自分の弱さを強く感じるほど、日々祈らずにはいられない。

音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。