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命と死と 2000-4

 復活というと、死んだ人がよみがえることであって、そんなことはあり得ない、自分たちには何の関係もないと思っている人がほとんどです。
 復活ということは聖書ではどのように言われているのかを考えてみます。
エデンの園のことはたいていの人が聞いたことがあるはずです。しかし、そのエデンの園の中央に何が生えていたと聖書に書いてあるかというと、こんどはほとんどの人が正しく答えられないと思います。
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。(創世記二・9)
 ここで見られるように、園の中心には、命の木と、善し悪しを知る木の二つを生えるようにされたということです。多くの人は、エデンの園には、食べたらいけない木だけがあったと思っているようです。
 善悪を知る木というのは、わかりにくい表現です。原語では、善と悪というのは、トーブとラアという言葉ですが、この二つの言葉は、道徳的な善悪だけでなく、多方面の内容を持っています。例えば、善と訳されたトーブという原語は、「美しい、愛する、かわいい、貴重、きれい、行為、幸福、親しい、幸い、善行、宝、正直、正しい、反映、福祉、恵み、安らか、豊か、良い、喜び、立派」など、およそ五〇種類もの訳語があてられています。
 悪と訳されたラアも同様で多様な訳語が使われています。
 このように善悪の木とは、単なる道徳的善悪を知る木でなく、あらゆるよいもの、悪いものを知るということであり、単にそうしたさまざまのことを知るというだけでは、人間は死に至るということを意味しています。
人間は知識欲があります。どこまでも知ることを求めていきます。それが現在のような高度の科学技術の世界になってきた理由です。しかし、そのような知識だけを押し進めると、原爆や水爆、原子力発電のような最先端の科学技術の産物が人間を大量に殺し、また環境破壊によって人間全体が住めなくなっていくという事態が生じています。
 エデンの園には、食べてよく、見ても美しいあらゆる木が生えていたとあります。にもかかわらず、あらゆるものを知る木と、命の木があったのです。
 これは、どんなに食べ物が豊富にあってもなお、知ることへの欲望は決してとどまることなく、続いていく。しかしそれだけでは死に至るということを暗示しています。
 そうした口から入る食物や知識欲、探求欲だけでは最終的には死んでしまうのであって、園の中央にあったもう一つの木、命の木が重要になるのです。
 現代の日本はどうでしょうか。口から食べる食物は有り余るほどで、食べ残しがゴミとして大量に捨てられている状態です。また知識も学校教育が十分となって、いくらでも取り入れることができるようになっています。パソコンによって世界中の情報や知識は部屋にいて自由に取り入れることができるようにすらなりました。
 しかし、そのように知識がいくら増しても、人間の心はかえって以前にはなかったようなひどい悪事をすることが生じています。
 これは、やはり神抜きでいろいろの知識を得てもそれだけでは死に至るという聖書の記述を思うのです。食物や知識だけでは、決して本当の心の幸いには至らないというのを現在の日本の状況は示しているといえます。
 私たちにとって本当に必要なのは、命の木なのです。その命の木については、旧約聖書はずっと不思議なほど沈黙を守っています。エデンの園にあった命の木はその後どうなったのか、それははるか後のイエス・キリストの出現まで待たねばならなかっのです。
 食べるだけでも、また学校教育や、テレビ、新聞雑誌その他の手段によって知るだけでも私たちは生きてはいけない。それはついには死に至るだけです。
 人間のあらゆる営みも結局はみな滅んでいきます。それはどんなものよりも巨大な流れといえます。人間も社会も飲み込んでいくし、この地球や太陽すらその滅びへ向かう流れには抵抗することができないのですから。
 しかし、そうした滅びへの流れと全く異なる流れがあります。それが命への流れであり、歴史の中で最も鮮やかに示したのが二千年前のキリストの復活という出来事であったのです。
 だれもが一番求めているものは何かというと、実は「滅びないもの」です。友情にせよ、愛にせよ、また健康にせよ、さらには清い心などそのようなものが、一時的でなく、ずっと続いていくならどんなによいかと思います。
 けれどもどんなに愛する人も、また健康な人もいつかは死んでいくし、健康も衰えます。
 どんなことがあっても、死によってさえも滅びず、変質しないもの、それこそ私たちが魂の奥深いところで求めているものです。
 キリストの復活ということは、そのような人間の深い願いにこたえるものだったのです。
 聖書の最初の創世記には、滅びに至る木、そしてふつうに食べてよい、見ても美しい木々があり、命の木もありました。しかし、最初の人間はその命の木の実を食べることはできなかっのです。
 そして長い人類の命への願いがかなえられ、初めて朽ちることのない命が与えられることになりました。創世記のエデンの園にあった命の木の実を食べることが許されたといえます。
 それゆえ、四つの福音書で最後に書かれたヨハネ福音書では、その命のことが最もはっきりと強調されています。ヨハネ福音書の冒頭に、地上に来られる前からのキリスト(「言」と訳されている。原語はロゴス)に命があったと記されています。
万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。(ヨハネ福音書一・3ー4)
 そしてその福音書の本論の最後にもつぎのように書かれています。
これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。 (ヨハネ福音書二十・31)
 そして聖書の最後の書物である、黙示録でもその終わりの部分において、つぎのように、命がゆたかに与えられることが記されています。
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。・・
神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。」
すると、玉座に座っておられる方が、
「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、
「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。
また、わたしに言われた。
「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の泉から価なしに飲ませよう。
勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。
わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。(新約聖書・黙示録21章より)
 現代の日本は豊かで物はあふれています。しかし、聖書で約束されている神の命を知っている人はきわめてわずかです。
 主よ、私たちに神の命、永遠の命をゆたかに与え、私たちからさらにあふれでて、この命を知らない人たちへと流れ出ていきますように。
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