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嘘と真実 2000-4

この一年間ほどの間に、私たちはずいぶんと高い地位にある人たちの嘘を知らされてきた。県警察本部長という人が、いとも簡単につぎつぎと嘘をつく。
 そしてとくに今回、自民党の政治家の指導的人物たちの不真実が際だったのは今回の首相交代劇である。一国の代表者が入院したというのに、そのことを二十二時間もかくしていた。その上、入院した日の首相の動きについても、「公邸で過ごした」とか「資料整理などして過ごした」などと、全くのウソを全国民と世界の人たちに向かって発表したのである。
 それも自分たちの地位や勢力を守るためであった。国民のため、真実のためなどという発想はまるでない。
 わずか数人で秘密に話し合い、ゲームか何かをするようにして首相をきめてしまったのだから恐れ入る。
 しかも、政府のスポークスマンである官房長官という重要な職務の人が、「前首相から、検査結果によっては首相臨時代理をやるよう指示された」といいながら、じつはそれは嘘であって、「前首相から、何かあれば万事よろしく頼む旨の指示を受けた」というように修正された。このような重大なことについていとも簡単にウソを国民に公表するという姿勢では、このことすら、本当にそうであったのかと疑わしくなる。
 こうした嘘は、全国民や世界の人々に対して言われたのであり、膨大な数の人たちがその嘘を聞かされた。そして、日本人の代表者は平気で嘘を世界に向かって発信する人間だということを表明したことになる。
 こうしたことは、一般の人々に対しても目には見えないが、深い悪影響を及ぼすことが予想される。真実はないのだ、国家を代表する人でも嘘を公然と言ってもいいのだというような、真理をふみにじる心を宣伝したという点においてである。
 真によいことは、目には見えない心のなかにある。同様に本当に悪いことは目には見えないところに生じる。
 嘘が地位の高い人々に公然と言われるということは、今に始まったことでない。江戸時代には、キリスト教のことを邪教だと偽りのことを教え込み、その偽りをもとにして迫害を続けていった。そして明治になっても、人間にすぎない天皇を生きた神だというひどい嘘を学校でも教えてきた。
 原子力にしても、絶対安全だなどということを言い続けて、そのあげくに、チェルノブイリ原発の大事故が生じたし、日本でも東海村の臨界事故が生じた。
 日本は長く、核兵器を持たず、作らず、持ち込ませないという非核三原則を掲げてきた。しかし、以前から言われてきたが、それは嘘であって、じつは、アメリカはずっと前から核を積んだ艦船を日本に寄港させていたのであった。それを証明する公的文書が見いだされて公表されても、なお、日本の外務省は以前の言明が嘘であったことを認めようとはしないで、核を積んだ船は来ていないなどという嘘を重ねている。
 今回の首相交代であのような嘘を、いとも簡単に言ってのける神経であることからすれば、彼らがこの問題についても嘘を言っても平気だということは容易に考えられる。
 聖書でも、この嘘の問題ははじめから出てくる。アダムとエバの誘惑のことは、たいていの人が知っている。禁断の実を食べたという通俗的な説明も知られている。しかし、この件では、神がエバにその罪を指摘したとき、ヘビがそそのかしたのだといって自分の決断で食べたことを偽った。
 しかし、神は、真実なお方であり、決して嘘をつかないお方である。
 旧約聖書にしばしば現れる神のご性質として、「慈しみ」と「真実」がある。これは、モーセがシナイ山で神から直接に授かったとされる戒めのなかにも現れる。神は真実である、だからこそ、私たちはその神にすがることを心から願う。
 神は真実なのだから、私たちもその神に結びつくとき自ずから神の真実なご性質の一端を受け取ることになる。
 私たちも時として真実を貫けない弱さに苦しむことがある。しかし、そうした時でも、心から赦しを求めて祈るとき、真実な神はその赦しを与えて下さる。
 嘘で満ちているこの世のただなかにおいて、このような、決して嘘のない存在、神とキリストを与えられていることはなんと幸いなことであろう。
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