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神の愛と裁き   2000/6-2

 裁きという言葉と、審判という言葉があります。聖書においては、このいずれも同じ言葉であって、日本語に見られるようなニュアンスの差はないのです。

 今日では、審判という言葉は、野球やサッカーとかのスポーツなどの審判とか審判員などのときによく出てくるので、そのような軽い意味だと受けとめる者が多いと思われます。

 また最後の審判というと、何か恐いこと、この世界全体になにかたいへんなことが生じるといった受けとめ方が多いようです。

 この言葉を聖書の原語ヘブル語で調べると、日本語にはないニュアンスがあるのを知らされます。

 それは、ミシュパットという語ですが、その言葉は、「裁き」という意味のほかに、「正義、公平、公正」といった意味にも用いられています。

 この点では、英語の正義という言葉 justice は、裁きという意味も持っているのに似ています。

 旧約聖書で用いられている、「裁く」と訳されているミシュパットという語は、また「正義、公正、公平」とも訳されています。

 また、英語のジャスティス(justice )という言葉は、「正義」という意味とともに、「裁き」という意味も持っています。これらはいずれもラテン語のユース(jus ・法の意)に由来しています。

 このように、言葉の上からも、正義という言葉は、裁きということと本質は一つなのだとわかります。

 実際、正義の神であるならば、必ず裁きもある。だから、私たちが正義の神を信じるかぎり、裁きの神をも信じるということになります。

 旧約聖書において、裁きを意味するミシュパットという語は、400回以上も使われていて、いかに聖書が裁きの問題を重んじているかがうかがえます。

 これは、また聖書で現れる神は、正義の神であることをも示しています。悪を裁くことをしない、また自ら悪を行う神々とは、不正な神だと言えます。

 このような聖書に示された神のご性質と、ほかの古代社会に現れる神々を比べるとその差がいっそうはっきりとしてきます。例えば、日本の神々は、正義の神ではありません。古事記に現れる最も重要な神々のうちの一人であったスサノオの命(みこと)は、さまざまの乱暴狼藉をはたらいて、人を死に至らせたほどです。

 一国の総理大臣ともあろう人が「日本は天皇中心の神の国」などというほどに、宗教的には、古代神話的状態を脱していないのがわかります。この発言がいかに低い次元のものであるかは、日本で神というときどんな存在が神であったのかを知っておくことが不可欠となります。

 そのことをきちんと知らないと、首相が言ったことがどんなにまちがっているかもはっきりしないのです。聖書に記されている宇宙を創造した愛と正義の神といかに日本の神々とが違っているかを知るために、前月号と重なるところもありますが、古事記の一部を引用します。

 スサノオの命(みこと)は、こう叫ぶと、勝ったあまりの勢いで、乱暴を働いた。天照大神が田を作っていたその田の畔(あぜ)をこわしたり、溝を埋めたりし、また食事をする御殿に糞をしてまわるという狼藉の限りを尽くした。・・こんなひどいことをしても天照大神はとがめもせずにいた。あるとき、大切な衣を機織の女たちが織っていたとき、スサノオの命は、その建物の屋根に登ってそこに大きな穴をあけて、皮を剥いだ馬を投げ込んだ。女たちはそれを見て仰天し、そのうちの一人は機織りの道具で体を突いて死んでしまった。・・

 こうした悪事をする者であるのに、スサノオの命を神として、祭っている神社には、名古屋の熱田神宮とか、京都の観光名所ともなっている八坂神社など多くあります。

 また、因幡の白兎で有名な大国主の命(おおくにぬしのみこと)に関する記述を見てみます。

 この神の兄弟の八十人に及ぶ神々が、ある女を妻にしたいので出かけて行った。その途中で、皮を剥(は)がれた兎が浜辺で哀れな様で寝ていた。神々は、その兎に海の水で洗い、風の吹くところで乾かして、高い山の上で寝ていたらよいなどと言って、傷がいっそうひどくなるような偽りの助言をした。その結果、兎は見るも無惨な状態となって全身の痛みに苦しんでいた。そこに大国主命が来て、ガマの花粉を塗るように教えていやしてやった。

 その後、目的の女性を獲得しようと行ったが、その女は、拒否して大国主命との結婚を希望した。それを憎んだ兄弟の神々は、大国主命を殺そうと考えてある山のふもとで、次のように言った。

「この山には、赤いイノシシがいる。それを山から追い落とすから、お前はそれをつかまえろ」こう言って、真っ赤になるまで火で焼いた巨岩を山の上から突き落とした。それを赤いイノシシだと思った大国主命がふもとでしっかりと抱いて受けとめた。しかし、そのために黒こげになって死んでしまった。しかし、母親が特別な治療を別の神々に頼んで生き返らせてもらった。そこで兄弟の神々はまた大国主命をだまして山に連れ込み、大木を切り倒して幹の割れ目に楔(くさび)を入れておいた。そこに大国主命を入れて、いきなり楔を引き抜いたので、幹の割れ目がふさがってついに挟み殺してしまった。・・

 こうした実際の記述を見ても容易にわかるのは、日本でいう神々というのは、聖書でいわれる神とはまったく本質が異なる存在であること、要するに人間と同じものだということです。これは、日本だけでなく、ギリシャ神話などに現れる神も同様で、その神々は人間を欺いたり、女性を誘惑したり 、戦ったり、正義の神とは思えないすがたを示しています。

 ギリシャの哲学者、プラトンもこのような側面を問題にしてこうした神々の間違った行動を記述した本は青年を惑わすものとして、その教育にふさわしくないと言っています。

 聖書に現れた神は、徹底した正義の神です。宇宙全体を創造し、しかも永遠の正義そのものであるという神は世界のどの民族も知ることができなかったのです。

 正義の神であることから必然的にさばきは生じます。

 そして神へのおそれは、ただそれだけでは終わらないのです。それは、正義の神はまた、真実の神であって、心から神をおそれ、神を求める者には必ず、よき報いを与えてくれるからです。

 聖書にも、神をおそれることは英知の始まりだと言われています。洗礼のヨハネのメッセージの中心は、神のさばきが間近だ、斧が木の根元に置かれている、悔い改めよ、ということでした。そのような正義の神への恐れこそが、出発点にあって、そこから自分の罪への裁きを予感するとき、それなら我らは何をなすべきかということになります。正義の神、その神へのおそれを知ったときは、私たちの目覚めのときです。そのときに発せられるのは、それなら私たちは何をなすべきかということなのです。

 それについて、歴史上でも有名なキリスト教の著作である、バンヤンの「天路歴程」の書き出しの部分が思い出されるし、トルストイも「我ら何をなすべきか」という作品を残しています。

 神の裁きと恵みという二つのことは、旧約聖書の最初から記されています。創世記のエデンの園には、見てよく、食べて美味であるあらゆる植物が生えていた。これは、神の愛を示すものでした。その愛に感謝して、与えられた美味なものだけを感謝して味わっていたならば、ずっとアダムとエバは祝福された生活を送っていたはずです。

 エデンの園では食べるものも豊かで、見るものも美しいという、どこから見ても素晴らしい条件で人間は創造されました。それらのあらゆるよきものも人間が努力して、働いて作ったのでなく、人間が創造されるまえからすでにそこにあったと記されています。

 常識的に考えてもそれ以上に不満なことはあるはずがないと考えられます。にもかかわらずアダムとエバは、与えられたものに感謝できずに、自分の内にある欲望のような人間中心の感情に動かされたときには、神から与えられたもの以外のものを奪い取ろうとしたのでした。ここに裁きが生じるのです。

 神の裁きと愛との関わりは旧約聖書の申命記の30章においても、はっきりと表されています。

 ここでは、神が人々の前においた二つのこと、祝福とのろいが対照的に述べられています。その二つの道とは、命に至る道と災いに至る道(裁きを受ける道)です。私たちが神の声に聴き従っていくときには、神はどんなものよりもよいものを準備し、与えて下さると約束されています。それは神のいのちなのです。

 しかし、神の言葉に聞き従わないときには、必ず裁きを受けて滅びると預言されています。

 また、この神の愛と裁きの深い結びつきについては、メシアが現れるという旧約聖書の預言が、しばしば厳しい裁きの時と結び付けて記されていることにも見られます。そしてその裁きの時は決して裁きだけで終わることなく、同時に救いの日であることが示されています。
見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。

しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように、躍り出て飛び回る。(旧約聖書・マラキ書三・19〜20)

 新約聖書の最も重要なテーマは実は、裁きの問題であるとも言えるのです。

 私たちは罪を犯している。神は義の神であるから、その罪を必ず罰せられる。とすれば私たちはその裁きから逃れることができない。滅びるほかはない。パウロの心の一番奥にあった気持ちはそのようなことであったのです。

 どうしたら裁きから逃れることができるのか。バンヤンの天路歴程も同様な疑問からその有名な著作は始められています。自分は死ぬべきものであること、そして裁きを受けるものであるということを知った者は、そこからどうにかして脱出したいと願うようになります。

 そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」

イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」。

 天の国(神の御支配のなされ方)は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした時、五千億円ほども借金している家来が、王の前に連れて来られた。

家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。

ところが、この家来は外に出て、自分に約100万円の借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。

仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。

しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。

 そのことを知った主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』

そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。

あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(マタイ福音書十八・21〜35)

 この箇所で言われていることは、神はまずその愛によって私たちの重い罪をすでに赦して下さっている。その赦しがなければ私たちは滅んでしまうものに過ぎない。滅びから救い出して下さったのが神の愛であるにもかかわらず、その愛を忘れて他人を赦さない者には、神の裁きが下されるということです。

 私たちが他人を愛することができないのは、相手のなにかよくない点、気に入らないところを赦していないからだ。何度赦したらよいのかとペテロが尋ねたとき、主イエスは、七回の七十倍赦せと言われました。それは、聖書においては七というのは特別な数であって、文字どおりの意味でなく、象徴的な意味があります。ここでは、限りなく赦せということです。そうしたら、そんなに赦すことはできない。と答えるかも知れないが実は、すでに神によってあなたの計り知れない罪は赦されているのだということなのです。だから、そのことを深く知ったら、当然他人の罪をもいくらでも赦すことができるのだと言われています。

 私たちがまず神によって重い罪を赦されている、そのことをさらにはっきりと万人に示すためにキリストは十字架にかかって死なれたのです。

 神の愛は、罪の赦しのために一人子であるキリストを私たちに送って下さったことにおいて最も明らかに示されました。それゆえに、その赦しの愛を無視するところにこそ、神のさばきは特にはっきりと生じると言われています。

 人間関係の問題は他者を赦さないことから紛糾が始まる。そして私たちは自分が神の赦しを受けたことを深く受けない限りは他者を赦すことができないのです。

 罪の赦しということがいかに大きい意味を持つか、それは私たちにはその深さがなかなかわからないようです。

 この重要性のために、主の祈りにおいても、この罪の赦しを願う祈りがあります。愛こそは一番大切なのだから、主の祈りのなかに「私が他の人を愛することができますように」というような祈りがそこにあってもよさそうに思えます。しかし、「私が他の人の罪を赦したように、私の罪をもお赦し下さい」と祈れと主は教えられたのです。

 まず、私たちはすでに神が私たちの罪を赦して下さっているという事実を深く受けとめて、それに感謝することから出発すべきだとわかります。自分の罪の赦しの実感があれば、おのずから他人の罪をも赦す心へと導かれるからです。

 このように、他者への愛は、罪の赦しと深く結び付いていて、他者の罪を赦しつつ、神の国がその人のうちにも来るように願うことが根本とされていのです。

 ここにおいて、はじめに述べたエデンの園のことと似ているのがわかります。エデンの園においても、まずよきものが与えられているのをしっかりと けとめなかったから罪を犯したのです。私たちも罪の赦しを受けとめないとき、他者を赦さないでさばくという罪を犯してしまうのです。

 裁くと訳されている原語(クリノー・krino )が四つの福音書でどのように用いられているかの数値をあげてみます。

マタイ福音書  6回

マルコ      0回

ルカ        6回

ヨハネ      19回

 愛ということを最も多く用いているヨハネ福音書ですが、裁くという言葉もまた、四福音書のうちでは特別に多く用いられています。これは、ヨハネ福音書においては、裁きはすぐそこにあるということを一番はっきりと指摘しているからです。

 裁きということが、世の終わりに初めてなされることでなく、神の子イエスを信じないというところにすでに裁きがあります。また、悪事をして罰がないと思う者はすでにそこで裁かれています。裁きということは、決して、世の終わりだけにあるのではないということをヨハネ福音書ではとくに強調しているのです。

 悪しきことについての裁きは、将来においてなされるであろうことは誰でもが知っていました。しかし、キリストが来られてからは、神の裁きは将来にあるだけでなく、今すでに存在している、それは、神の愛の最大の現れであるキリストを受け入れないところにあると言われています。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。(ヨハネ福音書五・24)

御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。(ヨハネ三・18)

 キリストの十字架も、神の裁きと愛が同時に含まれている出来事でした。十字架に付けられたキリストを信じ、受け入れることによって、私たちは本来なら受けることになる裁きを免れ、逆に神の最も深い愛を受ける道が開かれたのです。

 神が裁くなどそんなことは有り得ないと言った人がいます。その人は真の神を信じていない人ですが、聖書で言われている神を信じない人は、裁きも信じることはできないのは当然でしょう。しかし、正しいことに背けば裁きがあり、真実に従えばよき恵みがあるというのは、この世界の法則であってちょうど物理や数学の法則や真理は信じる信じないにかかわらず存在するのと同様です。

 私たちが嘘をついても見つからねばよいという考えを続けて行けば、必ず、その人の心のある大事な部分が壊れていくか、固くなってしまうのです。
また、自分中心に考えて自分が得すればよいと考えたり、弱い立場の人を見下したり、逆に金持ちとか有名な人にへつらって行動していけば、必ず真実な友人はいなくなり、自分の心にも清い喜びは感じなくなります。

 私たちはたえず日常生活のなかで不信実や過ちをおかしています。そのような状態であるから、私たちは正義の神によって裁かれるのは当然だと言えます。そのような状態の者がただ、キリストの十字架を仰ぎ望むことによってその裁きから免れることができるというのがキリストの十字架の福音です。

 裁きはつねに私たちのそばにある、しかし、裁きから免れる道もいっそう近くにある。ただ神を仰ぎ見るだけで救われるということは旧約聖書から示されていました。

地の果てのすべての人々よ、わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。(イザヤ書四五・22)

 キリストの十字架はこのようにただ仰ぎ見るだけで救われるということを、万人に知らせ、よりはっきりとわかるようにした出来事であったのです。

 キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない。(ローマの信徒への手紙八・1)

 このパウロの言葉にあるように、私たちは実に罪を犯しやすい者なのですが、キリストを信じるだけで、今後とも裁かれることがないという恵みはいくら強調してもしすぎることがないと思われるのです。

 裁きについて、聖書に記されているいくつかのことを付記しておきます。

○神は、正義の神である。しかし人は罪人である。それゆえ、人間は他の人間を裁くことができない。「裁くな、あなた方が裁かれないためである。」と主イエスは教えられた。私たちのなすべきことは、裁くことでなく、その人のために祈り、愛することである。(マタイ七・1、同六・44)

○パウロは、裁きは神にゆだねよと言った。悪をなす人のために善を行え。そうすれば、その人のうえに燃える炭火を置くことになる。(ローマ書十二・19〜21)

我に来たれ    (マタイ福音書十一章より)

 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

(マタイ福音書十一・25〜30)

 ここにあげたキリストの言葉は新約聖書のなかでも特によく知られています。私たちはどこに行くべきかということから始まっています。
 原文(ギリシャ語)では、この箇所では、三つの命令形があります。それを原文の順序で訳してみるとつぎのようになります。日本語訳では、こうしたはっきりした三つの命令形があるというのを見落としがちで、第一の命令形(来たれ!)だけが切り離されてよく知られています。

来たれ、私のもとに。 疲れた者、重荷を運んでいる者たちよ!・・

取れ、私のくびきを。

学べ、私から。

 このように原文に即してみてみると、この三つの呼び掛けは深く結びついているのがわかってきます。主イエスは、疲れて重荷を負っている私たちにまず来たれ、と呼び掛け、そしてそこで休みを与えられてのち、イエスのくびきを取ってイエスとともに歩め、と言われ、さらに共に歩む過程で学べと言われているのです。

 このことをもう少し掘り下げて考えてみます。

 ここでは、すでに述べたように三つ呼びかけがなされています。

 最初は、「私のもとに来なさい」です。

 私たちはまず、どこに向かって行くべきなのでしょうか。キリスト教を知らないときには、それは、遊びとか飲食や、スポーツ、趣味、そして友達ということになります。

 これに対して聖書は、イエスのもとに来なさいと言われています。これは、いったい何を意味するのかと思う人が多いはずです。イエスといっても、はるか二千年も昔の人であって、そのイエスのところに行くとはどんなことなのかと。

 私たちは、自分の心にだれかを思い浮かべることはできます。すでになくなった人のこと、遠くにいる人、伝記などで読んだだけの人、噂の人など、実際に見たことはなくとも、心に思い浮かべ、心で見つめることはできます。

 それと同様に、完全な愛をもった、清いお方である神を思い浮かべ、そのお方に心を向けることはできるはずなのです。なぜなら、これが動物と人間とを区別する根本的なちがいだからです。

 聖書にあるように、神は人を神のかたちに似せて創造したとあります。人間の魂には、神のかたちが刻まれているからこそ、人間はだれでも神を思い、神を慕うことが本来できるようになっているのです。

 そのような真実と愛に満ちた神がこの世に送ってこられたのがキリストです。だからそのキリストを、神と同様なお方として思い浮かべることができます。

 そのように、キリストを心で見つめてそこに心を注ぐことが、キリストのもとに行くということです。

 主イエスの「私のもとに来なさい」との言葉の通りに、イエスのところに行くために、だれでもできることは、主イエスの言葉を学ぶことです。言葉とは、その人の心から出てくるものであり、ある人の言葉を学び、その言葉を心に受けとめるときには、その人の心に近づいたことになります。

 それゆえ、主イエスの言葉の書かれた福音書を読むということがさしあたり誰でもができることになります。主イエスがどんなお方であるかがそれによって分かってきます。そしてさらに肉体を持っていたときのイエスの言葉だけでなく、イエスが復活してのちは、神と同様な目に見えない存在になったので、その霊的なキリストが語った言葉を使徒たちが書き残しています。それが使徒たちの手紙です。

 そこでとくに、キリストの十字架の意味が詳しく記されているのが、使徒パウロのローマの信徒への手紙です。ここには、キリストの十字架が私たちすべての人の心にある罪を除くために、また赦しを与えるために死なれたということが記されています。私たちの罪とは、真実なこと、純粋な愛、正しいこと等などに背くようなあらゆる心の思いや行動です。そうした罪を赦して、清めるためにキリストは十字架にかかったのだということが書いてあります。

 キリストのもとに行くとは、そのいろいろの教えのもとに行くということだけでなく、さらにキリストの十字架のもとに行くことでもあります。そしてそこで私たちの心の罪の重荷を下ろすことができるのです。これこそ、キリスト教の中心にあることです。

 イギリスの著作家バンヤンの天路歴程には、十字架のもとで重荷を下ろすことができることがつぎのような印象的な表現で書かれています。

 私は夢で見ていると、キリスト者が行くべき道は、両側が垣根で囲まれ、その垣は救いの垣根と呼ばれていた。それで重荷を背負ったキリスト者はこの道を走っていったが、背中の重荷のために相当な困難があった。

 こうして走っていくと、やや上り坂のところに来たが、そこには十字架が立っており、少し下のほうのくぼ地には、一つの墓があった。私が夢で見ていると、キリスト者がちょうど十字架のところに達したちょうどそのときに、彼の重荷は、肩からほどけ、背中から落ち、それからころがって墓の口までくるとその中に落ち込んで、かげも形も見えなくなった。

 そこで、キリスト者は喜んで心も晴れやかとなり、「主はその苦しみによって私に安らぎを与え、その死によって命を与えられた」と言った。

 それから彼は、しばらくじっと立ち止まって十字架を見つめて驚嘆した。それは、ただ十字架を見上げることによって、このように重荷から楽になるとは実に驚くべきことであったからである。それで彼は繰り返し十字架を見つめていると、涙があふれて頬を伝わった。

 彼が涙を流しながら立っていると、三人の輝く人たちが彼のところに来て「平安があなたにあるように」と言った。第一の人は、彼に「あなたの罪は赦された」と言った。・・(天路歴程第一部より)

 このバンヤンの物語では、人間の背負っている最大の重荷とは罪であり、その罪がキリストの十字架を仰ぐだけで赦され、その罪の重荷が軽くされるということを印象深い表現で語っています。

(*)ジョン・バンヤン(一六二八〜八八年)英国の説教家、作家。妻が持参した2冊の信仰書によって回心し清教徒となった。三回も投獄され12年半 にわたる獄中で彼は聖書をよく読み、多くの著述をした。代表作の「天路歴程」は一八七六年(明治9年)に初めて日本語に訳された。

 この物語の主人公である一人のキリスト者は坂になっている所で十字架を見上げ、それによってそれまでずっと背負ってきたどうにもならない重荷 を下ろすことができたということ、これはキリスト者の共通した根本経験と言えます。キリスト教信仰とは、このような単純なことがその本質なのだとい うことを残念ながら多くの人は知らないのです。

 この天路歴程に登場するキリスト者のことで思い出されるのが、今では多くの人に知られるようになった星野富弘さんのことです。彼は、最初に出 版された本「愛、その深き淵より」のなかで、次のような経験を語っています。

 たしか高校生のときだった。私は豚小屋の堆肥を篭に背負い、畑に運んでいた。

暑い日に加えて、堆肥の湿った熱が篭を通して背中に伝わり、少し登るともうからだじゅうが汗びっしょりになってしまった。

 私の家の畑は裏山の斜面にあり、肥料の運搬や農作業のすべてを人力に頼っていた。・・その日もいつものように細く急な道を登っていると、突然真っ白い十字架が目の前に現れた。そこは小さな墓地で、十字架は建てられたばかりで真新しく、掘り返された土の上には花束が添えてあった。十 字架のおもてには筆で短い文字が記されてあった。

「労する者、重荷を負う者、我に来たれ」

思えばこれが、私と聖書の言葉との最初の出会いだった。私はしばらく立ち止まり、声に出して読んでみた。心に何か響くものを感じた。それは、そ のときの私が汗びっしょりの「労する者」であり、堆肥の「重荷を背負う者」であったからである。

しかし、「我に来たれ」とはどういう意味なのだろう・・。畑仕事をしながらも、それからずっと後まで、その疑問が私の頭から離れなかった。

 このようにして神は、星野さんに事故が起こるずっと前から、聖書のこの重要な言葉をあらかじめ知らせてあったと言えます。そして脊髄損傷になって全身マヒという重荷を背負うことになって、この聖書の言葉が決定的な重要性をもってきて、後になってつぎのように書いています。 

 この神の言葉にしたがってみたいと思った。クリスチャンといえる資格はなにも持っていない私だけれど、「来い」というこの人の近くに行きたいと思 った。

 私のような者でも、「信じています」と言えば、神様はうなずいて天の真っ白い紙に私の名前を書き込んでくれているのではないだろうか。

 バンヤンは、罪の重荷こそ根本的な重荷として書いています。そして星野さんは、自分が生きることにも絶望的になった全身マヒという重荷を軽くしてくれるお方として受けとめています。

 寝たきりの重荷であっても、もし真実なことや正しいことに背を向ける「罪」という心の暗い部分に光が当てられ、軽くされない限り寝たきりの重荷は本当には軽くならないと思われます。

 しかし、人は現在直面している重荷をまず軽くして下さるお方として主イエスを仰ぐようになると、そこから罪を知らされ、本当の重荷は何かということも知らされていきます。

 しかし、それだけでとどまるのでなく、キリストのもとに行くとは、さらに今、生きて働いておられ、私たち一人一人を愛をもって見つめて下さっている キリストのもとに行くことであり、そのキリストから直接の励ましや力を与えられることでもあります。今は、キリストは目には見えないかたち、すなわち 聖霊というかたちで私たちに望んで下さいます。

 あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け右に行け、左に行け」と。(イザヤ書三十・21)

 二つの道が私たちの前途にあって、どちらをとったらよいのかわからないとき、また騒ぐ心や動揺する心、恐れる心などがおさまらないとき、主イエスのもとに行くとき、静かな細い声で私たちの動揺を静め、人間的な不安を取り除いてくれることがしばしばです。

 「あなた方を休ませてあげよう」という主イエスの約束にある、休みとか安らぎというのは、神からの賜物であり、常識的に言われるたんなる休息ではないのです。それはヨハネ福音書にあるように、キリストの持っている平安なのです。神とともにある安らぎなのです。

 何も心配ごとや仕事がないという消極的な意味での安らぎと、主イエスが私たちの内に来られて与えられる安らぎとはまったく異なるものです。主イエスが与える安らぎとか平安はこの世が与えることはできないのです。

人生の海のあらしに、

もまれ来しこの身に

不思議なる 神の手により

いのちびろいしぬ

いと静けき港に着き、我は今休らう

救い主イエスの手にある 身はいとも安し(聖歌472)

 この聖歌は、主イエスのところで重荷を下ろすことのできた安らぎを歌ったものだと言えます。

 このようにしてキリストのもとに行くことができたとき、私たちは程度の多少はあれ、新しい力を受けることができるのです。

 そしてそこから、つぎの主イエスの呼び掛けを受け取るように導かれます。

わたしのくびきを負いなさい。

わたしの軛(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(29節〜30節)

 くびきとは、耕作のときに動物の首にかける木のことです。これは、動物を苦しめることがしばしばです。だから、くびきとは苦痛とか、圧制に対して 比喩的に用いられることが多いのです。

 キリストとともにくびきを負って歩むことは、一見苦しい、窮屈なように思えます。しかし、不思議なことに、キリストのくびきを負うと、確かに苦しいこ ともありますが、以前よりずっと軽く感じられるようになるのです。

 私たちは、だれでも何らかのくびきを負わせられています。それは、会社の同僚とか上司であったり、また子供なら、学校の同級生、悪友であったりするし、ときには、夫や妻、あるいは子供が重いくびきとなる場合もあります。また、心の奥にある罪の重荷が最も耐えがたいものとなっている人も います。

 友達も最初は楽しいものであっても、まもなく、束縛とか押しつけを感じて自由を束縛するものと感じられることもあります。

 ときには、酒とくびきを共にして、ずっと苦しむことになり、ついには破滅することすらありますし、いろいろの体の病気とか障害がくびきとして感じられることも多くあります。

 そんなさまざまのくびきを負っている人間に対して、唯一の軽いくびきがあります。

 それがここで言われている主イエスのくびきを負うことです。くびきである限り主イエスのくびきを負うこともなんらかの苦しみは伴うことも当然ありま す。

 イエスのくびきを負うことによる苦しさとは、イエスに従っていく苦しさです。しかしその苦しさから学ぶことができ、そこから、私たちの心は広くされていきます。また学ぶだけでなく、聖霊を与えられるゆえに、安らぎを得るのです。

 イエスのところに行くとき、人は新しくされ、学び始めるのです。そして同時に、頭のなかだけで、理解するのでなく、じっさいに主イエスに従って行こうとするようになります。主イエスに従うとは、主イエスが聖書で教えているような考え方をあくまで第一に置こうとする考え方です。

 まず、キリストのもとに行く、そしてそこで私たちの重荷や悩み、あるいは罪、仕事の疲れなどを取り去っていただくのです。またイエスのもとに行くと自ずから学ぶ心が生まれます。そしてイエスのくびきを負っていくようになります。それがイエスのくびきを負うということなのです。

 この「私のくびきを負いなさい」という言葉は、すでに述べた「疲れた者、重荷を背負う者は私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉が余りに有名であってそれに続く言葉が忘れられがちです。しかし、これはこの有名な言葉と深く結びついているのです。 主イエスのところに行って重荷を取り除き、軽くしていただいた者は、それだけで終わることがなく、イエスとともにくびきを負って歩んで行くことができるようになるのです。そしてイエスとともにくびきを負うことは、負いやすく、荷も軽くなると約束されています。

 これは言い換えるなら主イエスとともに歩めということです。狭い門を入り、細い道を主イエスとともに歩くとき、私たちの担っているさまざまの重荷は主イエスが担って下さるということです。

 そして次にもう一つの呼び掛けがあります。それが「私に学べ」ということです。

 イエスのもとに行くこと、イエスとともにくびきを負って歩むこと、そしてそこから私たちは神の言を学び、実際の人生についても学んでいくことができるということなのです。キリストを本当に知るとき、私たちの人生は絶えざる学びとなります。それは私たちの内に住んで下さるキリストがそのように絶えず学ぶように導くからです。主イエスとともに歩むときには、そのイエスが新しい場に導き、新しい経験を与え、新しい課題を目の前に置かれるからです。

 キリストとともにくびきを負うこと、それはキリスト信仰をもって歩むことですが、多くの人にとっては、たんにこの世の生活の重荷、くびきがあるのにさらにむつかしい、キリストの戒めに従って生きるのは、面倒な宗教の重荷を背負うことになるという先入観があって、キリスト信仰に入ろうとしない人が多くいます。

 しかし、私たちは今の苦しみや重荷を負ったままでキリストのところに行き、そこで自分たちの罪の重荷、生活の苦しみや重荷、心配ごとをキリストのもとで下ろして、平安を与えられることが約束されているのです。

 まずその平安と休みを心に与えられるとき、自ずからキリストのくびきを負い、キリストとともに歩むようにと導かれるというのがここで言われていることなのです。
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