静かな細き声

 イゼベルは、エリヤに使者を送ってこう言わせた。「わたしが明日のこの時刻までに、お前の命を奪っていなければ、神々が幾重にもわたしを罰するように。」

 それを聞いたエリヤは恐れ、直ちに逃げた。ユダのベエル・シェバに来て、自分の従者をそこに残し、彼自身は荒れ野に入り、更に一日の道のりを歩き続けた。

 彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」

 彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。

 御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ。」

 見ると、枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので、エリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んで、また横になった。

 主の御使いはもう一度戻って来てエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。

 エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

 エリヤはそこにあった洞穴に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。

「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

 エリヤは答えた。「私は万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを剣にかけて殺したのです。

 わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ。そのとき主が通り過ぎて行かれた。

 主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中には主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。

 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。

 火の後に、静かな細い声が聞こえた。

 それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。・・

 主はエリヤに言われた。「行け、あなたの来た道を引き返し、ダマスコの荒れ野に向かえ。そこに着いたなら、ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ。

ニムシの子イエフにも油を注いでイスラエルの王とせよ。またアベル・メホラのシャファトの子エリシャにも油を注ぎ、あなたに代る預言者とせよ。(旧約聖書・列王記上19章より)

 ここで引用した聖書の内容は、旧約聖書の列王記・上からである。

 エリヤという預言者は今から二千八百年以上も昔の人である。そんな昔の人であるけれども、現代の私たちにも強い印象を与える預言者である。

 エリヤは、神の力を与えられ、数々の奇跡をすることができた。当時の偶像崇拝の状況に対して、きびしい批判を続け、本当の神への礼拝を命がけで説き続けた人であった。

 死人をよみがえらせたり、干ばつを予言したり、そのきびしい日照りのただなかで、ある川のほとりに移り、そこでカラスがパンを運んで来て支えられたという不思議なことも記されている。

 また、彼の激しい祈りにより、天からの火が下ってきて偶像につく人々が滅ぼされたということもあった。

 そして最後には、エリヤは嵐のなかを天に上っていったという、聖書の多くの預言者のなかでもほかに例をみないような人であった。

 にもかかわらず、私たちが驚かされるのは、そのような神の力に満ちた人でありながら、他方ではとても弱い側面を持っていたということである。

 ここで神が語りかけているのは、エリヤという預言者に対してである。彼はかつて深い祈りによって、天からの火をも呼ぶことができ、偶像の預言者たちを滅ぼし尽くしたほどの、力ある人であった。

 しかし、イゼベルという王妃はエリヤをどんなことがあっても、一日のうちに殺してしまうとの固い決意をもった。そのイゼベルの激しい憎しみを受けると、あれほど神の力を受けていたはずのエリヤは、恐れて直ちに砂漠へと逃げていった。

 そしてもう逃げられないと思って、死ぬことを望むようにすらなった。力もなく、希望もなく、平安も失われていったのである。そして、自分自身の使命も分からなくなってしまった。

 どうして祈ることをしなかったのか、なぜ神はエリヤに力を与えなかったのか、少しまえにあれほど神の力をまざまざと目の前で見て、神の力はいかなる偶像の力にも増して強力であると知っていたエリヤがどうしてこのようにただちに恐れてはるか遠くの砂漠地帯まで逃げていったのだろうか。

 彼がはるか南方のオアシスに逃げていき、さらにそこから砂漠に入ってただ一人で、一本の木の下にて座り、「主よ、私の命を取って下さい!」という悲痛な叫びをあげ、あまりの疲れと絶望のためにそのまま眠ってしまったのである。

 夜になれば、著しく温度が下がる砂漠地帯においてそのまま、水もなく、眠りこんだなら死んでしまうことは確実であった。

 自分の家のなかで、死にたいと思うのでなく、はるばる遠くまで逃げていったのであるが、その途中でも神からの励ましはまったくなかったということなのである。あれほど神の声や神からの力を受けた人であっても、このように、絶望的になることが有り得るのだということに、私たちは驚かされる。

 このことからも聖書は、どんなにめざましい働きをした人であってもその本質は弱く、力のないものなのだということを示そうとしているのがわかる。

 エリヤがそうした死に瀕した状態から立ち上がることができたのは、ひとえに神の力によってであった。そのようなエリヤのところに神からの使いが訪れ
、パンと水が置かれてあったという。それに気づいたエリヤは水を飲み、パンを食べて再び体を横たえた。

 生きて働く神の力に再び触れたエリヤは、もういちど、神からの使いによって今度は、かつてモーセが神の言を与えられたホレブの山(シナイの山)へ行くことになった。エリヤが死を願って眠りこんだ場所(ベエルシバ)から、そのホレブまでは、数百キロもある遠いところである。

 そのような遠い所までどうして行かねばならないのか、エリヤには不可解であっただろう。しかし、神からの使いによって命を救われ、再び力を与えられたエリヤには、そのような遠い道も、また何のために行くのかも知らずして出発することができた。

 私たちは生きて働く神が自分に触れて下さったことを実感し、神の口から出る言葉によって強められるときに、ふだんなら到底考えることもしなかったこともできるようになる。

 神を信じて着手してみなければ、どれほどの力が与えられるかわからない。

 エリヤは四十日、四十夜を歩き続けて、ホレブの山にたどり着いた。しかし、そこでもどんな目的のためにはるばるそのような長距離を歩いてきたのかは示されない。

 ただ、エリヤは神に示された道をずっと歩いたのであった。

 その山はかつてモーセが神からの言葉を直接に受けた山であった。このエリヤの記事には、そのモーセのことが意識されているのがわかる。

 神はそこでエリヤに語りかけた。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」と。この問いかけによってエリヤの心が問われた。彼は自分のした大きい働きとイスラエルの人々の腐敗、そして自分の命の危険を神に話した。それは、いくら神の力で奇跡をしてもどうにもならない事態への悲しみと絶望であっただろう。

 神から与えられた食物によって力を受けて、遠いこのシナイの山にたどり着いてもなお、エリヤの心は新しい方向を見いだせずにいた。どんなに神の奇跡を見てもそれをさらに上回るような、悪の力の攻撃に疲れはてた姿がここにある。

 そのようなエリヤに対して、神は山の中で立つことを命じた。

 そのとき、山を裂き、岩を砕いたとされるほどの激しい風が生じた。また、大地を揺るがす地震も生じ、さらには、全てを消滅させる力のある火が生じた。

 これらはエリヤがかつて経験した神の奇跡をも暗示している。どんなに雨や嵐が神の力で起こされても、また火が天から注がれて悪人を滅ぼそうとも、それでもなお、神のご計画はそれとはまったく別の手段が必要なのであった。

 それは、人間の心に語りかけ、その人間を器として用いることなのである。

 長い歴史のなかで神は外見的によく見える奇跡を用いる一方で、つねにこの方法をとってこられた。

 激しい風、地震、火これはみな、最もエネルギーに満ちたものである。山をも裂くほどの嵐とは、大規模な台風のようなものであるが、それは莫大なエネルギーを持っている。また、地震も強固な山や大地をすら動かすものであり、火はあらゆる現象のなかで最も根本的に変える力を持っている。

 これらは最もめざましくその力を感じさせる現象である。しかし、そうしたものにまさって、人間の魂の奥深くに語りかけられる静かな神の声こそは、何にもまして人間を動かして神のために働かせるものとなる。

 弱い人間であっても、神は大きい力を託される。エリヤも苦しみに直面したときに、死を求めて、確実に死ぬと思われるような砂漠に入って行った。本来このような弱さをもっていたエリヤであったが、それでも奇跡をなす力が与えられたのだとわかる。

 これは、キリストの弟子たちも同様であった。主イエスに従ってまだ数年にしかならない者たちであったが、病人をいやし、悪霊を追い出す力を授けられたと聖書は記している。しかし、だからといって、弟子たちはどこまでも強い人間であったのでなく、イエスが捕らえられるときには、みんな逃げてしまって、ペテロは三度も「イエスなど知らない」という嘘をついてしまったほどである。

 そうした弱い弟子たちが、約束のものを待ち望んで祈りを続けていたとき、神から聖なる霊が注がれそこから弟子たちは動き出すことができたのであった。

 エリヤも似たことがあった。自分の弱さを思い知らされて、そこから神の力で立ち上がり、神からの直接の静かな細い声を聞くことによって、新しい使命へと導かれて行ったのである。

 神の静かな細い声を聞き取るため、内に語りかけられる神の声を聞いて新しい命令を受けるために、命を失いかけるほどの苦しみが必要であった。自分の力では死ぬしかないほどに弱いもの、絶望的になるものだということをエリヤは思い知らされたのである。

 神の直接の静かな声を聞くために、このような大きい苦しみを経る必要があったのを知って驚かされる。

 私たちも新しい神からの役目を受けるために、このような長い歩みと苦しみが必要となることがある。

 あるキリスト教思想家はこの箇所についてつぎのような説明を加えている。

 いわゆる「神の探求」については、列王紀上第一九章(特にその一一・一二節)にこの上なく見事に描かれている。それには、人生目的に対する絶望や火や嵐がつねに伴いがちである。

 しかし、正しいものはおだやかな説き勧めの声をもって訪れてくる。・・

 だが、パウロのように、かすかな神の声に向かって開かれた耳を獲得するまで、忍耐し抜く者はきわめてまれである。けれども、あらかじめ疾風怒涛の苦悩の時期を経なければ、人の心は十分に開かれることがない。(ヒルティ・眠れぬ夜のために下 五月九日の項)

 このように、ここで記されている激しい風や地震、そして火というのは、人間が直面する数々の苦難をも暗示ししていると受け取ることもできる。そうした長い鍛錬の期間を経て、私たちはようやく静かな細い神の語りかけに応じる耳を持つようになるのである。


憲法を変えることについて

 最近憲法を変えようという動きがとくに目立ってきた。

 この太平洋戦争の後にできた現在の憲法を変えようという動きは、すでに一九五〇年頃から現れていた。

 こうした状況を受けて、平和憲法はとくにキリスト教の平和主義と深い関わりがあるので、憲法の改訂問題について考えてみる。

 戦後新しい憲法をつくるときに、日本の政府がその案を作成したが、それは明治憲法と本質的に変わらない内容のものであった。

 それは、帝国憲法の天皇に関する第一条から第四条までは改正を加えることなく、ただ、「天皇ハ神聖」というのを、「天皇ハ至尊」つまり、天皇はこの上なく尊いというように変えただけであった。

 その上、議会の審議を天皇制に及ぼさないために、改正条文以外の審議を禁じる方針を示したのであった。

 太平洋戦争であれほどの多大の犠牲を引き起こし、そのために二度と戦争をしないという決意のもとで、憲法をつくらなければならないにもかかわらず、日本の政府が公式案として出したのは、明治の憲法とほとんど変わらないものでしかなかった。

 それほど政府が固執した大日本帝国憲法とはどんな本質を持っていたのか、そのはじめの部分を見てみよう。

 大日本帝国憲法より

第一条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す

第三条 天皇は神聖にして侵すべからず

第四条 天皇は国の元首にして統治権を総攬(そうらん)し此の憲法の条規に依り之を行ふ (読みやすくするために、カタカナの部分を平かなに変えてある)

 また、この天皇の主権の主体としての天皇は、現在の天皇でなく、その祖先(その極限として天照大神)であり、その意思は古事記に書いてある、天孫降臨(てんそんこうりん)のときの言葉に基づくとされる。

 要するに神話にすぎない天照大神(あまてらすおおかみ)の意思が日本の天皇制の権威の根源だとされているのである。

 このような神話を少し調べるとわかることだが、そこで記されている天照大神はイザナギという神が左目を洗ったときに生じた神にすぎないのであって、そのとき、右目を洗ったとき月読命(つくよみのみこと)や鼻を洗ったときに生じたスサノヲの命(みこと)がある。

 これらの神々のほかにもイザナギの神が投げ捨てた杖や帯、袋などからも神々はつぎつぎと生じたのであって、いろいろなものを洗ったときに生じた神々と同じように偶然に生じたものであって、なんらそこには正義や真実、あるいは、純粋な愛などというものがない。権威とかいうものはない。

 このような神話にすぎない神々が日本の明治天皇の権威の基盤をなしていて、それが憲法にも及んでいるとは驚かされる。

 しかも、そのような神話に基づく天皇の権威というものが、現在でも君が代、日の丸の強制といった形で何かにつけて現れてくる。

 そしてこともあろうに、現職の総理大臣が、「日本は天皇を中心とする神の国だ」などという奇想天外なことをいう始末である。首相がいう、神とは、すでに述べたような神話の神々にすぎない。古事記に記されているような悪いことも平気でするような神々の国だなどということは、日本を何の目標も理想もない神話的な国だと言っていることに等しい。

 明治憲法とその根本がほとんど変わらない内容が公式の政府案であったから、それでは戦争を二度としないということ、国民主権、基本的人権の尊重といった重要な内容は到底作成されないというのははっきりしていた。

 そこで連合国最高司令官マッカーサーは憲法の草案を作成し、それを政府も受け入れることになった。その後議会での審議を経て、まもなく公布されて、翌年一九四七年五月三日に実施されることになった。

 以上のような経過を見れば、日本の現在の憲法はマッカーサーの強い指導がなければ、到底できていなかったのは明白であり、もし、日本政府が考えた憲法がそのまま決まっていれば、明治の憲法と根本においてほとんど大差ないものになってしまっていたのである。

 これを押しつけだとして、自主憲法と称して新しい憲法に変えようとするのが現在の憲法議論の中心にある。

 しかし、あのおびただしい人命が失われ、国土の主要部分が焼け野原となってもなお、戦争を止めようとせず、一億総玉砕などといっていたその動きは、連合国から激しい空襲をうけ、原爆を落とされ、ソ連までが戦争に加わり、ポツダム宣言をつきつけられて(押しつけられて)やっと止まったのであった。

 そのような国民がどれほど苦しんでもなおかつ戦争を止めようとしなかった指導者たちが未来に正しく歩むべき国家の姿を呈示できるはずもなかった。

 太平洋戦争を引き起こした軍国主義の温床ともなった農村の最大の改革は、農地改革であった。この農地改革にしても日本の政府に任されていたら決してできなかったはずである。農地改革の前には、小作農は、部分的な小作農を併せると全農家の70%ほどもいたがそれが改革後には、42%ほどになった。ことに、土地を全く持たない小作農家は、二八・7%から五・一%余りへと、大幅に減った。これは日本の民主化にとっても根本的に重要な改革であったのである。

 このような大きい改革は日本だけでは到底すすまなかっただろう。憲法の根本からしてほとんど変えようとしなかったのであるから。

 だが、この農地改革を、アメリカによる押しつけがあったから、やり直そうなどという人はだれ一人いないのである。それはその改革が正しいものであったからであり、GHQによる押しつけがなかったら到底実行できなかったのを知っているからである。

 また、憲法が明治憲法のままであったら、教育の内容もほとんど変えられなかったと思われる。憲法の精神に基づいて教育の方針も決められるからである。

 それゆえ、戦後の新しい教育の方針や内容は、もとをたどっていくと、連合軍の「押しつけ」にあったのがわかる。その押しつけが、不正なことを押しつけることとか、苦しみを押しつけることでなく、日本が、戦争を二度と引き起こさないようにすること、国民の基本的人権を尊重すること、国民主権などといった善いことであったのであり、そのゆえに、日本は戦後五〇年間、自国の軍隊が他の国の人を殺すという悪を犯すことがなかったのである。

 これは、アメリカ軍が例えばベトナム戦争でおびただしい人々を殺傷することになったことを考えると大きな意味がある。

 一般的に考えても、例えば子供に教育を授けるということも、一種の押しつけである。子供が自発的に文字や算数や国語の必要を感じるまで放置しておいたら、どうなるであろうか。そんなことはだれもしない。

 それが正しいこと、本当に良いことであるなら、一種の押しつけをしているのはどこにでも見られることなのである。何らかの悪いことをしたら、罰を与えるのも押しつけである。また、しつけとは子供にとって何らかの善いことを子供に「押しつけ」て、それを習慣としていくことがたいてい伴っている。

 歴史の中では、何らかの外圧(押しつけ)がなかったら、ずっと人々が苦しむようなことはたびたびあった。

 例えば、江戸時代に開国に踏み切ったのも、外国からの強力な押しつけがあったからである。

 江戸幕府が鎖国を三〇〇年近くも続けたのは、キリスト教を絶対に排除するという間違った方針からであった。

 憲法が押しつけだと反対する人たちは、江戸幕府の開国を押しつけだといって反対するだろうか。何等の押しつけ(外圧)もせずに、江戸幕府が自主的に開国するのを待っていたらはるか後の時代になっだろうし、人権も福祉などという発想もまったくない封建的な状態、差別に満ちた体制がずっと続いていただろう。

 また、明治になっても、キリスト教などもずっと禁止されていた状態だった。明治政府が一八七四年(明治六年)にようやくキリスト教を認めたが、それまでは厳しい迫害を続けていたのであって、政府によって多くのキリシタンたちが殉教したのである。

 キリスト教の迫害を止めるべきだという強い外国からの圧力(押しつけ)がなかったなら、政府はずっとその方針を続けて多くの人々を苦しめていたであろう。

 このように、未成熟な段階のものは、より進んだものからある種の押しつけがなければ、正しい道を進んではいけないのである。

 肝心なことは、日本の現在の憲法が押しつけかどうかを議論することでなく、憲法の内容が本当の真理にかなっているかどうか、そしてその憲法の精神が本当に運営されているのかどうかである。

 日本の憲法においても、人類の普遍的真理という観点からそれを見るべきであって、そこから見るなら、平和主義、基本的人権、国民主権といったことは長い人類の歩みの到達点であって、それらがあればそこから、法律の整備をすすめていけばよいのである。

 例えば、現憲法には、環境問題の記述がないと言われるが、それも基本的人権ということを深く考えるとき、人類全体の生きる権利という観点から見ることになり、それは当然環境問題を重視することになる。

 むしろ現在の憲法を変えようとする人たちの主たる目的は、すでにずっと以前から平和主義の憲法第九条にある。

 平和主義を捨てて、戦争ができる体制にしようというのが従来からの主張なのである。そのために、多くの反対を押し切って一年前の五月に日米防衛指針(ガイドライン)関連法案が成立してしまった。

 一度、戦力を持つ国家であると正式に決まってしまえば、その軍隊の維持のためには、徴兵制というのも必要だということになっていく。そしてますます軍備のための費用は多額となっていくだろう。

 そして将来、ふたたび現在のような平和主義の憲法を持とうとしても、そのときにはきわめて難しくなるだろう。

 現職の総理大臣が「日本は天皇を中心とする神の国だ」などということを主張するほど、戦前を支配した間違った思想がいまも生きていることから考えると、憲法第九条を変えることによってどのような方向へと歩み出すか、危惧(きぐ)すべきものがある。

 首相がこの発言にある「神の国」とは、いったいどんな神なのか。それはこの発言が神社本庁の政治団体である神道政治連盟でなされたことから推察できる。神社本庁は、伊勢神宮を中心としていて、それは、天照大神を祭っている。その天照大神の権威を受けたのが天皇だと称してきたから、首相がいう「神の国」とは「天皇の国」ということになる。 しかし、敗戦の翌年、昭和天皇は人間宣言を出してその中で天皇と国民の関係は、「天皇をもって現御神(あきつみかみ)とし、日本国民を他の民族より優越しているとし、世界を支配すべき運命を持っているとの架空の観念に基づくものでもない」と述べて、天皇を現人神とすることが架空のことであるということもはっきりと述べている。

 現在の憲法にある徹底した平和主義ということは、単なる理想でなく、日本が数千万ともいう多大の人々の命を犠牲にし、無数の人々の家庭を破壊して、苦しみを与えたおびただしい犠牲の結果生まれたものであった。

 その意味でそこにアメリカや日本の政治的意図を越えた、歴史の摂理を見るべきなのである。歴史の悲劇的経験の結果として生まれたことなのだ。

 日本の真の使命は、軍備を増やして軍隊を派遣したり、戦争に加わったりすることでなく、いまの平和憲法の精神を本当に生かして、軍事と別のさまざまの方面で世界の平和に貢献することなのである。

 聖書では、二千数百年も昔から、人間が目標とすべき究極の平和についてしばしば述べられている。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。

彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。

国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4

見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。

わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。

戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。

彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。(ゼカリヤ書九・910

 ここで言われているエフライムとは一地方名であったが、後にイスラエル全体を指していう言葉として使われた。

 ここで子ろばに乗って来ると言われている「王」とは、キリストのことであり、これはキリストの預言とされている。キリストが来るときには、柔和のシンボルであり、武力とは反対のイメージを表す子ろばに乗ってくると言われる。しかし、そのような柔和さをこそ、神は支持される。キリストの心が浸透するときには、戦いは終わり、神の愛が世界に広がると預言されている。

 これが完全に成就するのは、終末のときである。しかし、それにいたるまでに神はその御意志をこのように明確にはるか昔から示されている。

 こうした神の御心に従うことこそ、私たちが目指すべき方向なのである。


無教会とは

 日本において無教会という言葉が初めて内村鑑三によって用いられたのは一八九三年、今から百年余り昔のことである。

 内村は彼が信じる聖書の真理をそのまま主張していったときに、教会の指導的な人々から退けられ、異端論者とまで言われた。そうした体験を書いた「キリスト信徒の慰め」という著作でこう述べている。(原文は文語なので、分かりやすい表現になおし、一部省略。)

 私は無教会となった。

 人の手によって造られた教会を私は持っていない。私を慰める讃美の声もない。私のために祝福を祈る牧師もない。

 とすれば私は神を拝して神に近づくための礼拝堂を持たないのであるか。

 西の山に登り、広い原野を眼下に臨み、この世の俗世界のはるか上に立って、無限なる存在と交わるとき、風が背後の松の木々に吹いてうるわしき讃美を奏で、頭上には鷲が翼を伸ばして天上の祝福を垂れるのを経験する。

 夕日が沈もうとし、東の山の紫色、西の雲の紅(くれない)の色が流れる水に映えるとき、また一人川の堤の上を歩みながら、すでに世を去った聖者と霊の交わりを持つとき、・・私には無声の説教を聴かせてくれるのである。・・
 私はまさしく無教会ではないのである。

 こう述べて内村は教会の有力な人々から排斥されて、教会のない者(無教会)となっても、一人神とともにあるとき、自然のただ中にあって、そこに見えざる教会堂があり、神の国との交わりに生きることが出来、過去の優れたキリスト者たちと霊的な交わりが豊かにできるゆえに無教会ではない・・と言っているのである。

 これが無教会という言葉が初めて用いられた文脈である。

 これを見てもわかるが、内村は無教会というあらたな教派をつくるなどということは全く考えてもいなかった。しかし、キリスト者となって信じるところを直接的に述べただけで排斥されるという体験を経て、おのずから教会の無い者、無教会となったのである。

 無教会とはこうして、だれも計画的に造りだしたのでもなく、何か党派的な考えから新たに造りだしたのでもなかった。いわば人の計画を越えたところ
で生じた言葉なのであって神が必要あって生み出されたと言える。

 そもそもプロテスタントがそうであった。ルターがとくにカトリック教会の免罪符を批判する九十五カ条を教会の扉に掲示したことがプロテスタントの始まりとなった。これももちろん誰一人このような世界的な大事件となるとは予想もしなかったのである。

 クェーカーもそうであった。キリスト教の一派として黒人奴隷の解放を他のどの教派よりもはやく主張し、徹底した平和主義を主張して戦争に加わろうとしなかったこのクェーカーも、もとは、ジョージ・フォックスというイギリス人が当時のまわりのキリスト者と自称する人たちの生活ぶりが乱れていることから、救いを求めて放浪し、ついに内なる光の体験を与えられてそれを証ししていったところから始まり、さまざまの迫害を受けたが、次第に共鳴する人たちが集まり、一つの教派となっていったものである。

 無教会の成立もこうした歴史的な実例と似ている。

 内村によって始まった無教会というキリスト教のあり方も、それは特別の教派を目的としたものではない。それは、ただ内村が聖書の真理を探求していく過程で与えられた深い内的な体験を確信をもって証しし、主張していっただけのことである。

 それは人間の単なる意見や経験でなく、聖書にすでに記されている真理であった。神は内村を用いて日本にキリスト教、聖書の真理を宣べ伝える器として選んだのであった。 無教会とはなにも難しいことでない。ただ聖書の真理を神の言として信じ、聖書に記されている通りに、キリストによる罪の赦しを信じ、生きて働くキリストによって導かれる、そうした信仰のあり方をいうのである。

 こうした単純な信仰のあり方は、キリスト教の初期の姿であり、本来のあり方であった。キリストご自身も、「二人、三人が私の名によって集まるところに私はいる」と約束された。それを本当に信じていくところに無教会の精神がある。

 このような素朴なキリスト者のあり方は、神によって本来起こされたのであって、無教会という精神の本質もそこにある。

 キリスト中心、十字架のあがないを信じる信仰を中心とし、神の言中心の精神が続く限り、無教会という群れは継続されていくだろう。真理は神ご自身の御意志であるからである。

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