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変わるもの、変わらないもの  2000-7-1

 私たちがどのように考えても、予想できなかったことが生じることがある。それは喜びにつながることもあれば、死や病気など悲しみや別離に関わることもある。
 世の人は、それを偶然であり、運命だという。しかし、すべては生きて働いておられる神の導きだと信じるときに、そのような思いがけないことが生じるからこそ、私たちは人間をはるかに越えた神によって導かれているのだと信じることができる。
 もし、私たちの予想や計画通りに動くなら神を信じる必要もなくなるだろう。思いがけないことが生じるとき、いっそう私たちは神に強く頼っていきたいし、そのことが促されている 。

神の用い方
 クジラは最大で30メートルにもなる巨大な生物である。自由に魚を捕らえて自分の力で生きているように思う人は多いだろう。しかし、そのような大きいクジラを支えているのは 実は目には見えないような、水中に漂っている植物プランクトンなのである。
 海のなかの目には見えないような植物プランクトン(緑藻類などの)が動物の幼生プランクトンのえさとなり、それがさらに大きい水中動物のえさとなる。植物プランクトンが太陽の光を受けて光合成を行い、デンプンが作られそれが水中の動物たちによって食物として利用されているのである。
 こうしてクジラのような巨大な生物ももとをたどれば、小さい植物プランクトンによって支えられているのである。
 人間の世界においても、大きな働きをしている人も、有名な人も、権力ある人も、じつはもとをたどると、そうした人が食べる食物や衣服、車、住居など小さな一つ一つのものや、部品を作っている人々によって支えられている。
 また、能力のある人や健康な人だけでなく、力弱い人、幼児や老人、また病気の人などさまざまの人との出会いや交わりによって私たちはさまざまのことを学び、成長していく。そうしたいっさいのものを取り入れて私たちは生きているのであり、成長していくのである。
 神は無駄なものは作られない。それは神は愛であり、真実であるから。
 人間にも不要な人間は本来いないのであり、私たちが出会う出来事も無駄なものはないのであろう。
 神はあらゆるものを用いられる。

人知れず苦しむ者
 顔面のガンによって顔の多くの部分がなくなった人のことを何度か聞いたり、そのような目にあった人が書き残した文を読んだことがある。以前にも、そして最近も。
 顔という正面の部分を手術をして、かなり切ってしまったらどんな気持ちになるか、その苦しみや心の重さは私たちの理解をはるかに越えたものだろう。
 治ってももう人前には出られない、またそのような重いガンでは助かる可能性も少ない。本人もいずれ死ぬのでないかとの恐れと痛みにさいなまれつつ病床にいるのではないだろうか。
 そして誰もそのような苦しみを共に担うことはできない。痛みと将来への絶望的な見通しのなかで人知れず涙を流す人、その苦しみは何のためなのだろう。
 その苦しみはほかの人間の罪を担い、それによってほかの人間は生かされているという意味があるのではないだろうか。
 私たちはそのようなことに気付かない。しかし、聖書にははるか昔、いまから二千五百年ほども昔に、すでにそのようなことについて書かれている。

彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。(旧約聖書 イザヤ書五十三章より)

 これはキリストの預言だと言われている。しかし、キリストだけに関係があって私たちには関係のないことではなく、私たちの身の回りに見られる重い病気に苦しむ人たち、何も特別に悪いことをしたわけではないのに、耐えがたい苦しみにある人たちもまた、この聖書の言葉で言われているようなことがあてはまるのではないだろうか。
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