文字サイズ大きくするボタン文字サイズ中「標準に戻す」ボタン      

神の小羊としてのキリスト (ヨハネ福音書一・29〜34) 2000/8-4 

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
そしてヨハネは証しした。「わたしは、(神の)霊が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『(神の)霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

 ここではまずイエスがどんなお方であるかが言われています。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ!

 この一言はじつに大きな意味を持っています。世とは世界中であり、また世界のあらゆる人たちの罪を指しています。この世とは現在の世界だけでなくあらゆる時代をも指しています。ということは時間を越えてあらゆる時代の人々という意味があります。
 そして罪とは人間がだれしも持っているものであって、真実なものに背く心、愛することが大切と思ってもできないその本性、本能のようにしみこんでいる自分中心の心などなどこうした心の傾向を罪というけれども、そのような罪を取り除くことは人間では到底不可能なことです。
 罪は自分でも気付かないことがよくあります。自分が不信実であるとか愛がないのを本当に深く知っているためには、神が持っているような完全な愛や真実をしってそれに比べるといかに自分が不信実であり、愛を持たないかがわかるのですが、神の愛や真実をごくわずかにしか知らないときには、自分の罪もわずかしかわからないということになります。自分で気付いていない罪を取り除くということはもちろんできないことです。
 このように、自分の罪すら少ししかわかっていないので、それをすべて見抜いた上で取り除くということは、たいへんなことを言っているのがわかります。
 罪とは人間の最も根源的なものです。どんな人間もふれることのできない魂の奥深いところのことです。そのような罪を取り除くということは、人間ではとうていできないことです。

 そのようなことのために来られたのがイエスだというのです。
 また小羊という表現には、イエスの時代から千数百年の旧約聖書に書かれていることと関係があります。かつてモーセがエジプトにいた民を導き出すとき、小羊の血を入り口に塗って神からの裁きを逃れたということがありました。(出エジプト記十二章)
 その時以来、小羊の血は受けるべき罰を逃れさせる力をもっているとされるようになりました。イザヤ書五十三章にはそうした小羊のことをとりあげつつ、その小羊たるお方が存在するということが預言的に書かれています。

 彼は苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠(ほふ)り場に引かれる小羊のように、・彼は口を開かなかった。
 彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。
 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。・・
 わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。・・
 彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。(イザヤ書五十三章より)
 見よ、この人を!
 これに類する言葉は、気付かないことが多いと思われますが、いたるところで見られる言葉です。
 毎日のテレビ、インターネット、新聞、雑誌などで現れる人々についてそれらのマスコミは「見よ、この人を!」と言い続けているし、それらのマスコミに従って、つぎつぎといろいろな人々へと人々は注目しています。
 政治家、スポーツ選手、とくに野球やサッカー、相撲など、あるいは歌手、俳優などのタレントたち、こうした一種の偶像がめまぐるしく現れて、「見よ、この人を!」といい続けています。そして多くの人たちは、その声に惑わされて、なんの益にもならないもの、有害なものへとその視線を引っ張られているのです。
 これは、聖書の世界にもあって、ローマ皇帝が自分を神としてあがめるようにとの命令を出したことがあります。それも「見よ、この人を」という命令です。それに従わなかったら殺されたほどです。
 日本でも戦前では、宮城(皇居のこと)遥拝といって、天皇がいるところを拝むことが命じられ、そこにいる天皇をいつも心にて見つめることが要求されました。
 このようにいたるところで、しかもはるかな古代から、人間はいつも何者かを指し示して「この人を見よ!」と言い続けてきたのです。
 これに対して聖書では、神の戒めを守れ、ということが一貫して命じられてきました。神の言葉に聴け!という命令も同様です。聴いて守れということです。しかし、もっと後の時代になるまで、旧約聖書のなかでも、神を見よ!といった命令は言われていていない。それはもし直接に神を見ることになれば、人間はその汚れのために殺されるというほどに神は隔絶した遠い存在であったからです。
 しかし、旧約聖書のなかでもキリストの時代に近づいた時、キリストより五百年ほど前になって現れた預言者の言葉にはっきりと私たちは何に注目すべきであるかが言われてきました。

地の果なるもろもろの人よ、わたしを仰ぎのぞめ、そうすれば救われる。
わたしは神であって、ほかに神はないからだ。(イザヤ書四十五・22)

 キリストが来られてからそうした状況が根本から変わったのです。それは、遠くて目に見えない存在であったお方でなく、誰でも求める者の近くに来て下さる。仰ぐ者には見えるようにしてくださる。
 福音とは、いまも生きているイエスを仰ぎ見ることであると記されています。

ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。(口語訳 Uテモテ書二・8)

 つぎにこの箇所で告げられている重要なことは、キリストとは、聖霊を与える方だということです。

わたしは、水で洗礼を授けに来た。・・しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「(神の)霊が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。(ヨハネ一・31〜34)

 このように、ヨハネは水で洗礼を授けたのに対して、キリストは聖なる霊(神の霊)を注ぐお方であるとはっきり証言しています。祝福の最大のこととは、聖霊を与えられることです。キリスト教では愛が最も重要であると言われているのはだれでも知っています。しかしそのような愛は人間が生まれつき持っているものでなく、聖霊が与えられて初めて人の心に生じるとされています。使徒パウロが言っているように、愛とは聖霊の実であるからです。
 また主イエスが最後の夕食のときに、あなた方に残していくととくに約束されたのは、「主の平安(平和)」でした。人間の持っている平和でなく、神からのみ訪れる平安こそキリストがこの世に残される最大のものだったのです。そしてその平安もまた、聖霊の実として与えられるというのです。
 最後の夜に語った主の平安の重要性は、またイエスの誕生のときにも語られていました。それは、初めてイエスが誕生したことを、羊飼いたちに知らせたみ使いたちの讃美に現れています。

いと高きところには栄光、神にあれ
地には平和(平安)、御心に適う人にあれ!(ルカ二・14)

これは、天使たちの讃美であったのですが、神が私たちに望んでおられることが明確に示されています。人間がよいこと、力あること、美しいものなどあらゆるよいものを人間に帰することなく、神に帰すること、それはキリスト者の基本姿勢です。
 人間が自分のしたことを自分がやったのだと誇るとき、競争が生じ、憎しみとか妬みが生まれ、そのようなことのできない者を見下すようになります。またそうした目立つことを成し遂げる力を持たない者は、自分の存在に希望が持てなくなります。
 しかし、すべてを神に帰する心、神に栄光を帰する姿勢のあるところには、必ず神からの平安(平和)が約束されているということをこの讃美は示しています。
区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。