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神の言と人の言葉  2000/8-1

 この世には、この二つの種類の言葉がある。二つの言葉は、いずれもどこにでもある。人の言葉は、日々の会話、仕事先から、また近所や家族といった身近なところから、国際社会に至るまで、だれもが朝起きたときから夜までずっとその洪水のうちにある。
 テレビ、ラジオ、新聞、雑誌などあらゆるマスコミや印刷物はそうした人の言葉で満ちている。私たちの心は人の言葉によって喜び、悲しみ、また傷つけられ、そしてときには励まされている。
 人の言葉と同様に、どこにでもあるにも関わらず、比較にならないほどに多くの人々が知らずにいるのが神の言である。旧約聖書にすでに神の言はこの世界に満ちていることがつぎのように記されている。

この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。(詩編十九より)

 事実、私たちを取りまく自然のさまざまの現象は、神の言が見えるかたちになったものだと言えるほどである。青く澄み切った大空、真っ白い雲、海の広大さ、そこにわき起こる波、小鳥のさえずりや、野草や樹木の花、その姿など、いずれも言葉にできない神の言を語っている。
 しかし、そうした言葉以上に、私たちの魂の最も深いところに光を投げかけ、命を与えるのが、神の言である。何一つ自然の美しさも見えない盲人にも、また小鳥のさえずりも聞くことのできない聴力の失われた人にも、また、病院で寝たきりとなった人にも、その魂の核心に届く神の言がある。
 それは、自然が破壊されようとも変わらない。私たちの体が病気や老齢、事故などのために壊されようともなお、神の言はいささかの変化も受けることはない。

天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。(マタイ福音書二十四・35)

 神の言は、歴史を越えて流れ続ける一つの川、見えざる大河であり、宇宙のあらゆる変化にも動じない形なき岩であり、神の命である。
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