女性と助け手(創世記二・18)-2000/9-2

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉。これこそ、女(イシャー)と呼ぼう さに、男(イシュ)から取られたものだから。」

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。(創世記二・18〜25)

助け手の意味
 ここで、まず問題となるのは、創世記においては、女性はアダムなる男性の助け手として創造されたということについてです。助け手という存在は、より上の立場の人に仕える人とも言えます。
そのような助け手という存在は、私たちの常識では、劣ったものという感じがあります。例えば、大学教授に対して助手という地位がありますが、助手とは教授よりずっと劣った地位だと見なされています。
 また、たいていの職業には○○長という地位があり、それに対して助ける立場の副○○というのがあります。例えば、校長を助ける立場の人は、副校長、もしくは教頭といった具合です。
 このように助ける者は、より劣った者だというのは、だれでも知っているほどのことだと言えます。
 そのような現代の私たちの常識的考えからこの箇所を読むと、古いとか、男女差別だとかいう意見が出てきます。
 しかし、現代の私たちにとっては、旧約聖書の記述をそのまま絶対としては受け取るべきでない記述もいろいろあります。例えば、アブラハムやヤコブ、ダビデなど旧約聖書の模範となるような人物であっても、多くの妻を持っていました。そして旧約聖書においてはそれが悪いことだという記述はありません。
 また、食物にしても、複雑な規定があり、ひづめが分かれていて反すうする動物だけが食べてよいのであって、そうでないラクダとか野ウサギ、イノシシなどは汚れているから食べてはならない。
またひれ、うろこのないタコやイカのようなものも汚れているなど、あるいは、血を食べてはならない、食べる者は死刑となるなど、現在からみると全く無意味なような記述があります。
 主イエスも口から入る食物によっては汚されることはないと言って、旧約聖書のこうした記述が意味を持たないことを明言しています。(マタイ福音書十五・11)

 こうしたことから考えると、私たちは旧約聖書の記述は新約聖書に照らし合わせて見るべきだということがわかります。創世記の記述もアダムとエバは夫と妻という関係でした。それなら、新約聖書では同様な夫と妻という男と女の役割についてはどう言っているのか、新約聖書でよく知られた箇所を引用します。

キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エペソ書五・21)

 聖書では、人間の第一の義務は神を信じて、神に従って生きるということです。それがすべての前提となっています。真実と正しさ、そして愛に満ちた神を信じないということは、人間を信じ、人間に頼ることになりますが、人間がいかに過ち多いか、罪深い存在であるかを思うとき、そうした人間に従うことがすべてに間違いを生じることは容易にわかることです。
 そのことが「キリストに対するおそれをもって・・」に記されています。キリストへのおそれを持つことは神へのおそれを持つことであり、キリストを信じることはキリストを遣わした神を信じることです。
 夫婦が神を信じてはじめて「互いに仕え合いなさい」という戒めが意味のあるものとなってきます。
神を信じないときには、そもそも仕えるということはいやなこと、価値の低いこととしか考えられないからです。
 神を信じて従うということがあって初めて、仕えるということに深い意味があることを知らされます。
 助け手あるいは仕える者、これは低い存在だと思われがちです。しかし、私たちはこの地上で生きている限り、だれかによって助けられ、また助ける者にもなっていると言えます。そして、主イエスは、支配する者でなく、仕えるものこそ大きいと言われました。
 そして驚くべきことですが、主イエスご自身が、支配するためでなく、命をも捨ててあらゆる人に仕えるため、救いのために来たと言われたのです。

そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた、「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。
あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。
それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである」。(マタイ二十・25〜28)

 このように、聖書においては、そもそも仕えること、助け手となることがよくないことだとか、低いことだとは言っていないのであって、むしろ神を信じて仕える心こそ、最も神に喜ばれると言われています。
 主イエスご自身が、このように、すべての人々に仕えるため、助け手となるために地上に来られ、そして十字架に付けられたのでした。
 主イエスは私たちの助け手ですが、神ご自身が私たちの助け手であるということは、旧約聖書からしばしば言われています。
 
我らの魂は主を待つ。主は我らの助け、我らの盾。(詩編三十三・20)

 神ご自身が助け手であることは、人の名前となっても現れています。例えばつぎのような箇所です。エリエゼルとは、「神は助け」という意味です。これはエリ(神)とエーゼル(助け)から作られた言葉です。

ほかのひとりの名はエリエゼルといった。「わたしの父の神は我が助け、パロのつるぎからわたしを救われた」と言ったからである。(出エジプト記十八・4)

 創世記の箇所で男の助け手として女を創造しようと言われたときの「助け手」という原語(ヘブル語)も、同じエーゼルという言葉です。

 助け手となるということは、実に深い意味を持っています。それは日常の単なる雑用の手助けとか、リーダーの雑用などをを助けるなどを連想するので多くの人は、つまらないことだと思ってしまいます。だからこそ、女性は男の助け手として創造されたという表現を嫌悪感をもって読むということになってしまうのです。
 しかし、助け手になるということの意味は、主イエスご自身や神が助け手であるということを考えても、これはたいへん大きく、深い意味を持っているのだと知らされます。
 最も深い意味での助け手であるとは、神やキリストのような役割を果たすことなのであって、それは魂に関わること、永遠の命に関わることなのです。闇に苦しむ者の助け手となることは、その魂をキリストに連れていくことであり、キリストの救いを得させることになるわけです。
 このように考えると、もし夫がキリストを信じていないときでも、その助け手となる最も深い意義は、その夫をキリストに導くことと言えます。

 双方がキリスト者である場合には、互いに仕え合うということが言われていて、片方だけが仕えるべき存在だとは言われていないのです。

妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会(キリスト者の集まり)の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。・・夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。
 
 ここでわかることは、夫婦が神を信じてキリストを畏れ、、互いに仕え合うということを前提とした上で、妻には夫に仕えるようにと言われています。そして夫には、キリストが命を捨ててまで人々の救いのために尽くされたように、そのような深い愛をもって妻を愛せよ、と言われています。 
 ここでの愛せよという動詞は、神からの愛を表すアガパオーが用いられていて、単なるふつうの人間的な夫婦愛を言っているのではありません。
 このような愛は主イエスのように仕えることに導きます。ですからこの箇所で言われている、「互いに仕え合うように」ということこそ、一言で言い尽くしているのだとわかります。
 ここで仕えるという意味について。イエスは人々のため、弟子たちのために仕えた、しかし、イエスは決して彼らの人間的考えには従わなかったのです。仕えるとは、単に何も考えずに言われた通りにすることでは決してありません。真理に結びつくようにとの祈りをもってすることこそ仕えることの本質です。
 人間が創造されたのも神に仕えるように、神の言葉に聞きしたがって神の国の建設の助け手となるようにということなのです。人間全体が神の国の助け手となるようにと創造されているのです。
 宗教改革者、ルターはその短いが、主著の一つである「キリスト者の自由」という著作の冒頭において、つぎのように述べています。

キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な君主(王)であって、何人にも従属しない。キリスト者は、すべてのものに奉仕する僕(しもべ)であって、何人にも従属する。
 
 この本来矛盾するような二つのことが、キリストによって可能となるというのです。キリストご自身が、王であり、またすべての人に仕え、助け手であったゆえに、そのキリストに従う者もまた、そうした二つの本質を与えられるというのです。

 最もよき助け手となること、これは神やキリストのなさったような助けに関わることです。そうした意味で、創世記のこの記述は決して女性への差別とか軽視でなく、これは聖書全体を見て判断すべきことであり、新約聖書において、それは男女を問わず人間のあるべき姿として現れてきます。
 神やキリストこそ最大の助け手であることから考えるとき、女性に実に大きい使命が与えられていることを暗示するものだと言えるのです。 

名を付けること
 名を付ける、これは、簡単なことのように思う人が多い。しかし、決してそうでなく、例えば、植物の名前を知るとそれまでとは全く違った風にその植物が見えてくるということがよくあります。
 ある植物の名を知るとは、その植物の花、葉、茎の様子、色、形、全体としての植物の姿などを知ることなのです。さらに、月日が経って実となり、また紅葉するときの状態、春の新芽や若葉、つぼみなど、それからどういうところに生えているかなどさまざまなことが見えてくるのです。
 例えば、夏に土手などに咲いているオニユリという名を知ることは、あの独特の野生的な赤い花と葉、茎の様子、そして周囲の強そうな野草の中からそれに負けじと成長していくたくましいすがた、そしてその葉の付け根に生じるムカゴ(これが地に落ちると新しく芽が出てくる)などが一緒に思い出されるのです。
 名前を知るとは、相手の本質に関わることだったのです。少なくとも相手の何かとの結びつきができるので、名を知った植物が多くなると、その植物を創造した神の心もまた近く感じられてくるほどです。
 このように、名を知ることは、単なる暗記にすぎないことだ、として初めから放置する人が多いのですが、まったくそれは間違ったことだと言えます。

主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。(創世記二・19〜20) 
 これは、単に興味半分に名前を付けたということでなく、一つ一つの動物の本質を見つめていったということなのです。そうした上で、自分の本質に合う助け手を見いだすことができなかったのです。

 その上で神は、人を深く眠らせて胸の骨(あばら骨)をとって、それから女を創造したとあります。
なぜ、神は女を胸の骨などで造ったのかと疑問になります。また、その後で、創造された女を見て、言った次の言葉は現代の私たちには実に不可解な言葉です。

人は言った。「ついに、これこそわたしの骨の骨わたしの肉の肉!これこそ、女(イシャー)と呼ぼう。まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」(23節)
 
 長い間、本当の助け手を求めていた人がついに神から与えられた、助け手(女)を見て、「私の骨の骨!」などと叫ぶことは、日本人なら決して考えられないことです。数千年も昔の、しかも日本とは全く異なる風土、感情を持った人の言葉は日本語にはない、意味があることは当然だと言えます。ここでは、実際に人の胸の骨からとって創造されたことからそのような深い結びつきを指しているのはわかります。
 聖書においては、「骨」というのは、単に生理学的な骨だけを意味するのでなく、つぎのように心の奥深い部分を指している場合があるのです。

主よ、憐れんでください。…主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ、わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのか。(詩編六・3)

わたしの骨はことごとく叫びます。「主よ、あなたに並ぶ者はありません。貧しい人を強い者から、貧しく乏しい人を搾取する者から助け出してくださいます。」(詩編三五・10)

 このように、見てくると人が、女を見て、私の骨の骨!と叫んだのは、自分の魂の深いところで一致する存在だと実感したことを表していると言えます。
 さらに、言葉の上でも、男を表すイッシュから、女を表すイッシャーが作られたと言われています。
 このようにして男と女は、本来一つの存在であって、心あるいは魂を暗示する胸の骨から創造さたのが女であるから、からだの面だけでなく、心の深いところで一つになるようにと創造されたのです。
 そして、一つになるということは、男と女だけでなく、新約聖書になると神を信じて、キリストを受け入れるときには、男女を問わず、人間がみな「キリストのからだ」であり、一つの体であると言われるようになったのです。
 このように、旧約聖書の記事はつねに新約聖書の記述に照らしあわせて始めてその深い意味が浮かび上がってくるのがわかります。
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