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秋・花・色・実り  2000/11-1

今月の聖句
主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。
・・あなたの嘆きの日々は終わる。 (イザヤ書六十・19〜20より)
 秋は、心ひかれる季節である。

 近くの山々では木々や野草の葉はつぎつぎに変わり、黄色、赤色、褐色などさまざまの彩(いろど)りを表してくる。

そこには、緑一色であった野山とまたちがった命があふれている。そのような美しい変化を来たらせる目にみえない神の命がそこに感じられる。c

 徳島と香川の県境付近では、雨量が少ないために山々は杉の植林がなく、全山がさまざまの彩りの木々で覆われるところが多くみられる。それは、神の手のなされる壮大な立体芸術である。

 無数の木々、その一つ一つの葉をもすべて独自の色合いの変化をもたせ、しかもそれが日々移り変わっていく。それに比べたら人間のどんな創作物もまるで色あせてくる。

 色の大きな交響楽ともいえる世界が見られる一方で、木陰の谷間には、ひっそりと赤い実をつけたヤブコウジや白色の玉をあちこちにつり下げているスズメウリ、さらに秋の色をいっぱいにたたえたカラスウリの赤い実が木立の中から顔を出していることもある。

 わが家にもう、五十年以上も実をつけつづけている柿の木がある。それは、以前からつるし柿にして食べたものであるが、食べるだけでなく、その美しい秋をいっぱいにたたえた色がよい。

 また、秋は野草の花が多く見られるので嬉しい季節である。高知県境に近いSさん宅での家庭集会に参加する道は、片道七十キロの半分以上が山間部の道であるため、車を止めて少し山沿いに歩くとすぐに、さまざまの野草の花が秋を告げているのに出会う。

 それらのうち、白い花のヤマシロギク、十一月終わりまで黄色の柔らかい葉と花を持つヤクシソウ、野生のキクの内でも白い大きい花を持ち、香料のリュウノウ(龍脳)に似た香りがある、リュウノウギク、シラヤマギク、野道によく見られるヨメナに似ているノコンギク(野に咲く紺色の菊の意)などなど。キクの仲間だけでもこのように、いろいろの野草が競うように神の創造の多様さを繰り広げてくれる。

 また、山の斜面には冬に近づくと赤い実をつけるフユイチゴも目だってくる。

 そうしたなかに、モズや、ヒヨドリ、ジョウビタキといった野鳥のさえずりが木立をぬって響いてくる。

 これから、寒い季節、厳しい冬が訪れるというその前に、このように自然は豊かなものを繰り広げる。葉の色、実のさまざまの色、その実の味わい、花の形と姿、色などなど実に変化の多い季節である。

 ひっそりと自然のしずまる冬の到来のまえに、このような変化と味わいの豊かな姿を見せてくれる。

 私たちの日々も晩年に近づくときにこのようにさまざまの実りと味わいがそこに生じてくるようであったらと、ふっとそんな思いがよぎった。
教育という言葉と聖書

 現在の私たちの生活においては教育という言葉はいたる所で目に入ります。また家庭も学校に通う子供を持っているということで教育ということは最も多く人々の心にある言葉の一つです。

 しかし、聖書には驚くほど教育という言葉(訳語)は少ないのです。訳によって多少違いますが、口語訳など次の箇所のわずか一度しか全聖書で出てこないのです。

なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。(Tコリント 八・10)

 他の訳でも後に引用する箇所(パウロが厳しい教育を受けたことを記す箇所)などせいぜい数回といった程度です。

 なお、教育という言葉に対応するギリシャ語(パイデイア)そのものは、新約聖書では、ヘブル書12章とUテモテ三章、エペソ書六章の三つの章に少し使われていますが、それらも

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。」(ヘブル書十二・5)という箇所で見られるように、現在の意味での「教育」でなく、「鍛錬」とか「しつけ」いう意味で使われています。

 (なお、paideia の動詞の形は新約聖書では、十数回使われています。)

 どうしてこんなに少ないのかと不思議に思われる人も多くいます。古代だから教育などあまり考えなかったのではないかと思う人もいるかも知れません。

 しかし、聖書と部分的に時代が重なっているギリシャ哲学者の代表者であるプラトンの著作には教育(パイデイア paideia)という言葉(一部その関連語も含む)はたくさん用いられています。私の手元にあるプラトン全集の語句索引で調べても二百回近く使われています。

 このように、心の問題や真理にかかわる内容を扱っているプラトンの著作と聖書では教育という言葉の使われ方がまったく違っているのに気付きます。これは、どうしてなのか。

 それはプラトンの教育に対する考えが聖書と全く違っていたからでしょうか。たしかに大きく違っているところがあります。しかし、つぎのように、プラトンも近ごろの日本の教育のような詰め込みとか単なる知識教育とは根本的に異なることを考えていたのです。彼は、「教育とは、人間にもともと与えられている能力を魂全体とともに、真理そのものへと方向転換させるための方法である」と言っています。(「国家」第七巻518d)

 このことは、キリスト教の出発点が「悔い改めること」、つまり心を神へ方向転換させることであるのと、似たところがあるのに気付きます。

 そのために、さまざまの方法が考えられます。そこで最も重要だとされるのが論理による探求です。言葉(ロゴス)を用い、筋道たてて正しく考えていくと、魂はそのような方向転換がされるというのです。

 そして真理を愛しつつ、さらにそのような論理的な思考によってその道を歩いていくのが人生だとします。真理(英知)を愛することこそ、フィロソフィアという言葉なのです。(フィロとは、愛を意味し、ソフィアとは、英知の意)

 このギリシャ語は明治の初めに、西周(にしあまね)という学者によって「哲学」というわかりにくい言葉に訳されてしまったために、この言葉(真理への愛)への大きな誤解を日本人に知らず知らずのうちに植え付けることになりました。この言葉は本来、「真理への愛」であるのに、なにか難解な学問である、というイメージとなってしまったのです。

 しかし、キリスト教では、神に方向転換することも、神からの呼びかけに応えることによってなされるのです。まず神はその愛をもって一人一人に呼びかけ、それに応えることが魂の方向転換であり、悔い改めです。

 そしてその後は、神、主イエスご自身が私たちを導いて下さるのです。もちろん、先輩や学問をした人にも学ぶわけですが、必ずしもそのような人間や学問は必要ないのです。これはペテロやヨハネといったただの無学な漁師が、キリストの弟子となり、世界のキリスト教に計り知れない影響を及ぼしていったことからもわかります。

 彼らにとっては、ふつうの教育は必要ではなく、ただキリストを信じて、祈りの中から聖霊を受けてその聖霊に従って歩むことから大いなる英知を与えられていったのです。

 人間の手による教育でなく、神の手による導きこそ、聖書が一貫して述べていることです。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ八・12)

 パウロは指導者となるための十分な教育を受けた人であったのは次のような言葉からもうかがえます。

彼は言った、「わたしはタルソで生れたユダヤ人であるが、この都で育てられ、ガマリエルのひざもとで先祖伝来の律法について、きびしい教育を受け、今日の皆さんと同じく神に対して熱心な者であった。(使徒行伝二十二・3)

 しかし、そのような教育もほかのことも含めてパウロはつぎのように言っているのに驚かされるのです。

しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損失と思うようになった。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、他の一切のものを損失と思っている。(ピリピ書三・7〜8)

 パウロはユダヤ人の優れた学者から教育を受け、家柄もよかった人でした。しかし、そのような教育をしても、キリストの真理をまったく見抜くことができず、逆にキリスト教徒を厳しく迫害していたほどでした。人間がする教育というのは、ついに魂の奥深い目を開くことができなかったのをパウロはみずからの痛切な経験から知ったのでした。

 このように、キリスト教徒の代表者ともいえる、パウロが本当に教育されたのは、キリストを知ってからでしたし、それは生きて働くキリスト、聖霊のキリストによってであったのです。

 この点で、無学な漁師であったペテロ、ヨハネ、ヤコブといった弟子たちとも共通していたと言えます。

 私たちも周囲の至るところで、学校教育をいくら受けても、その人間の本性はまるで善くなっていないという事実を知っています。昔は高等教育を受ける人はごく少数でした。明治になってからも大多数は、小学校教育だけで、大学などはきわめて少数しかいかなかったのです。しかし、今日では、大学には国民の半数ほども行くようになったのです。そのような教育の普及によって人間の心はいったいどれほど真実になったのか、正しいことへの直感や洞察力は、また周囲の人間への愛は増しているかという点から見るとむしろ、悪くなっていきつつある、というのが大多数の人々の実感ではないかと思います。

 小学校低学年ですら、授業中に歩き回ったり、かってにしゃべったりする学校が増大しているとか、大学ですら、学ぶこととは何かということも判断できない学生、あるいは、何らかの理由で登校できない学生も増えていて、大学の教官が訪問したり電話で登校を呼びかけたりせねばならないなど、驚くべき実態があります。

 このような状態を知るにつけても、聖書が二千年も昔に告げていること、私たちは神とキリストへと魂を方向転換し、キリストを信じて、神やキリストご自身である聖霊を受けることによって初めて、成長していく(教育されていく)ということに気付かされているのです。

 こうした神から来る真実や心の清さがなければ、単なる情報を洪水のように浴びせているとかえってますます人間の心は荒廃し、崩れていきます。

 人間は魂の根源に神がいなければ、悪いもの、安易なものを簡単に選び取ってしまうのです。

 私たちの心のうちにキリストが住んで下さって初めて、私たちの汚れた本質は潔めを受け、すべてを善いことに転じて下さる神によって教育され、限りない神の国へと導かれていくことが約束されています。
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