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聖書と新聞-2001/1-1

今月の御言葉
主はすべてを喪失された者の祈りを顧み、その祈りを侮られなかった。(詩篇一〇二・18)
 最も人々がよく読んでいる印刷物は新聞である。そのために新聞は現代人の聖書だと言われることすらある。新聞は同じことを書けば新聞ではない。その名の通り、新しい情報を伝えるものなのである。
 新聞は、社会の状況や、世界の動きを知るには不可欠のものである。新聞があれば、私たちはどんな田舎でいても、日本や世界の動向を相当に詳しく知ることができる。
 しかし、新聞はたえず新しいことを目標としている。それがどんなに悪いことであっても、また人の心に闇をもたらすことであっても、ただ新しいこと、珍しいことなら新聞は大々的に取り上げる。そうして善いことより、ずっと悪いこと、闇に属することがニュースに取り上げられてしまう。強盗、殺人とかまた誘拐など、珍しいこと、昨日はなかったことがあると人々は読んでしまう。
 しかし、そこには真理はない。かえって新聞やテレビなどで大々的に悪の事件を取り上げるからいっそう人々の心が悪の力を受けやすくなってしまう。
 それに対して、聖書の真理は数千年も変わることがない。聖書は変わったことを告げず、珍しいことを告げようとせず、ただ山のように静かで変わらない。そして伝えられることを待っているかのようである。
 主イエスも、パウロも、ヨハネもルターや内村鑑三などもみんなこの二千年という長い間、同じことを告げ続けてきた。十字架に現れた神の愛、永遠の命、復活、生きて働く神、聖霊の導き、再臨、悪の最終的な滅びなどなど。
 神の霊がそこに働くとき、いかに同じ内容であっても、不思議な新鮮さを人に感じさせ、新しい力をそこから受けるのである。
 それは聖書の言は神の力であり、いのちだからである。
 私たちも、単に珍しいこと、新しい出来事でなく、古い古い時代から伝えられてきた真理の言葉に触れ続けたい。それによって現代のさまざまの問題の本質が見えてくるようになる。
 それゆえに、いかに繰り返しであろうとも、また人々が聞こうと聞くまいと、神の手がそこにあるのを信じて、聖書にある真理の言葉を語り続けたい。神は現代の混乱の中か
らも、そうした永遠の神の言に聞こうとする人たちを必ず起こされるのだから。
切れようとするとき

 私たちの日々のなかで、病気や家庭の問題、あるいは職場や周囲の人間関係のあつれきのなかで、もうどうにもならないという時がある。太平洋戦争のような時にはそれは数しれない人たちの中にそんな思いが立ちこめていただろう。あるいは、飢餓や伝染病の蔓延、大地震とかの自然災害で家も家族も失われてしまったときなど、また、重い病で回復不能であると言われたとき、人間の弱さを痛切に思い知らされ、自分をそれまで支えていたあらゆるものが切れていくような気持ちになるだろう。そしてどんなにあがいても、叫んでもその恐ろしい闇から出ることができないという気持ちに捕らわれてしまう。
 聖書にもそのような追いつめられた人の叫びがしばしば記されている。

主よ、なぜわたしの魂を突き放し
なぜ御顔をわたしに隠しておられるのか。
わたしは若い時から苦しんで来た
今は、死を待つばかりだ。
あなたの怒りを身に負い、絶えようとしている。
あなたの憤りがわたしを圧倒し
あなたを恐れてわたしは滅びる。
それは大水のように絶え間なくわたしの周りを渦巻き
いっせいに襲いかかる。
愛する者も友もあなたはわたしから遠ざけてしまわれた。
今、わたしに親しいのは暗闇だけだ。(詩篇八十八より)

 このような深い苦しみの叫びはこの世には、昔から今に至るまでずっと続いている。
神を信じる者であっても、なお、このように神から突き放されたのではないのか、という深い悩みが襲ってくることがある。
 聖書はこのように現実の世において私たちが直面する苦しみをもそのままに表している。
 そして同時に、いかに苦しみが深く、助けがないように見えても、必ず求め続ける者に助けを与えられるということが記されている。

主は労苦を通して彼らの心を挫かれた。
彼らは倒れ、助ける者はなかった。
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、
主は彼らの苦しみに救いを与えられた。
闇と死の陰から彼らを導き出し、
束縛するものを断ってくださった。
主に感謝せよ。主は慈しみ深く、
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。・・
苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らの苦しみに救いを与えられた。
主は御言葉を遣わして彼らを癒し、破滅から彼らを救い出された。(詩篇百七編より)

 私たちは現実の困難な問題に直面するとき、言葉を失う。ただ祈りだけが私たちにできることだということがある。
 しかし、そのような苦しみも闇も聖書の世界にはすでに克服されているのを知ることができる。
キリストの愛の一側面

 私たちは、愛というと、なにか甘いものを感じます。世にあふれているからです。それらの愛は、自分中心であり、すぐに憎しみとか怒りに変わることはだれもが知っています。そして、そのような愛は、差別的です。例えば、自分の子供ですら、ある子供だけをとくにかわいがって、別の子供を嫌うということもあります。
 そして最も頻繁に小説とかドラマで現れる男女の愛こそその差別的な愛の最たるものです。相手の異性のためならば自分の家族すら捨てて顧みないし、社会の状況とか苦しんでいる人のこととかそんなことよりただ、相手の人のことだけが心を占めてしまうし、その人が他の人を大事にしていたら嫉妬するという状態になり、特定の人間だけを寝ても覚めても思っているが、他の人間のことは、まったく思い出さないし、邪魔者とすら感じるほどになったりします。
 そして、そのような愛は、自分だけが相手を持っていたいという独占的な気持ちがつねにあります。

 しかし、聖書でいう愛は、そうした「愛」とは根本的に違っているのに気付かされます。
イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださった。そのことによって、わたしたちは愛を知った。(Tヨハネ三・16より)

 イエスが十字架上で処刑されたということは、二千年も昔の遠い外国の出来事であって、現在の私たちには全く関係ないことと思われます。しかし、その十字架上での死が実は私たちのためであったこと、私たちの心の最も奥深いところでの不信実や愛がないこと(罪)を赦し、清めて下さるための出来事であったことだとわかること、それを信じることによって、初めて私たちは神の愛というものを知ったと言われています。
 神の愛を知るには、どんなに親の愛や友情を受けても、また熱烈な異性との愛を受けたところでわからない。私たちが自分の罪を知って、それがどんなに学校の勉強をしても、性格を変えようとして努力してもどうにもならないものであることを思い知らされ、そこからそのような罪に縛られた自分を赦し、救い出して下さったという神の愛にふれて初めて私たちは愛というものを知るのです。
 これは驚くべきことです。愛などだれでも知っていると思っているからです。たしかにふつうの意味でも、愛されているかどうか(好かれているかどうか)は、すぐにわかります。
だれかが自分に好意をもってくれているか、無関心か、あるいは、無視や敵意かはすぐにわかるものです。小さな子供や犬、猫すら感じとることができます。
 しかし、そのような愛はだれでも知っているのに、不思議なことに、神の愛を最初から知っている人はだれもいないのです。
 現在の日本語では愛という同じ言葉で言われるけれども、そうした愛と、神の愛とはつながってはいないのです。
 愛という言葉がこのように全く本質がちがうものに対して使われることは、たえずこの重要な問題について誤解を生んできました。
 仏教においても、この二つの全く性質のことなる愛を別の言葉で表してきました。
「愛」という言葉は、仏教ではつぎのような意味に用いられています。(岩波仏教辞典による)
「人間の最も根源的な欲望。のどの渇いた人が水を欲しがるような激しい欲望、盲目的な衝動、満足するまで激しい渇き、満足するまでやまない激しい欲望、かたくなな執着を言う。広くは煩悩を意味し、狭くはどん欲と同じ意味に用いられる。」
 これは、キリストのいう愛とは根本的にちがったものです。このような大きな違いのために、キリスト教が初めて日本に入ってきたときに、聖書でいう愛をどう訳すべきかに困ったのです。そして聖書に記されている神の愛を「ご大切」と訳したのです。
 キリシタン時代に発行された書物に、例えば、現代訳では「賢い思慮の人はその贈り物よりも、贈り手の愛に重きを置く。」という文を、「かしこき思ひ手は、与えらるる引き出物(贈り物)よりも、与え手の大切と心ざしを感ずるなり。」というように訳しています。(「こんてむつ むん地」巻三・第5より 一六一〇年発行)。(*)

(*)これは、「キリストにならいて」という書名で広く知られている。このなじみのないキリシタン本の書名は Contemptu Mundi(コンテンプツ ムンディ) という語からきている。
これは「この世(的な虚栄)の蔑視」という意味だがその読みをそのまま書名としたもの。 )

 このように、今から四〇〇年ほど昔には、神の愛を「ご大切」と訳したは、神の愛とは、弱い苦しんでいる者を大切に思うという意味から来ています。こうしたとらえかたは現在のように、愛という言葉がちがった意味ではんらんしている状況にあっては、かえって新鮮に感じられます。神の愛とは、神が私たちを大切に思って下さっているということですし、主イエスが敵をも愛せよと言われたのは、敵を好きになるということでなく、敵対する人をも、大切に思うということになります。
 このように、愛という一つの言葉で、内容が全くちがう意味で用いられているのです。
一つの愛は執着であり、独占欲であり、そのためにはどんな悪事をもしかねない妄執(もうしゅう)であり、欲望を意味しています。
 他方の愛は、そのためには自分の命さえも捨てるほどのものともなり、敵をも愛するほどの広さと、深さをもったものです。

 私たちをとりまく人間社会で生じるたいていのことは、この執着とか欲望といった意味での愛がからんでいます。いろいろの犯罪もそうです。経済問題、社会問題、あるいは民族や国家間の戦争などすら、そのもとをたぐっていくと、民族や国の指導者が自分の地位や権力、財産、特定の人間への執着や欲望といった意味の愛によって生じているのです。 例えば、第二次世界大戦は、一九三九年九月一日のドイツのポーランドへの突然の攻撃によって始まりましたが、それはヒトラーという一人の人間が周到に、計画し、準備して引き起こしたという側面を持っています。彼の悪魔的ともいうべき激しい権力欲、支配欲から生じたものであったのです。
 愛という名を持ってはいるものの、その内奥の本質は、奪い取ろうとしたり、独占したり、わがものとするという性格をもっているのです。こうした執着心は、個人的には恋愛とか親子愛などというレベルから、国家間の戦争に至るまで人間のあらゆる領域をおおっているということができます。
 こうした意味の愛(欲望、執着)は、最後は枯れていくのです。
 しかし、神が私たちに注いで下さっている愛は、罪を知り、その罪を赦し、そこから救いだして下さるという単純な事実を信じる必要があるという関所があります。それが狭い門ということです。
 これに対して、欲望や執着という名の愛は、広い門であって、至るところにころがっています。それは主が言われたように、滅びに至る門は、広く、その道も広いのです。
 
「愛とは、他人に対して言わなければならないと思うことを言わないことだ」とあるキリスト者が書いていました。すべてがこのことで言い尽くされているわけではないけれども、聖書にある愛の一側面を表しています。
 言わなければいけないと思うことすら、あえて言わない、それは言うのが恐いからでも、面倒だからでもなく、あるいは自分に確信がないから言えないのでもなく、神の万能と愛への揺るぎない信頼のゆえなのです。神が必ず最善にして下さる、導かれるという確信があるときには、沈黙して神の御手に委ねることができるからです。こうした沈黙は、深い祈りを伴っているのが感じられます。
 聖書にも、神とともにある沈黙のことがしばしば見られます。

わたしは黙し、口を開かない。あなたが計らって下さるのだから。 (詩編三九・10)

 敵対する人とは、私たちの真意を知ろうとせずに、意図的に私たちに危害を加えようとする人のことです。そうした人に言葉で説明しても通じない。しかし、神は相手の心に手をふれることができる。神は御心ならば、すぐにでも相手の心を変えることができる、そう確信できるときには、私たちは沈黙して神に委ねることができます。
 主イエスが捕らえられて裁判にかけられたとき、つぎのように記されています。

祭司長たちや長老たちから訴えられている間、(イエスは)これには何も答えなかった。するとピラトは、「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」と言った。
 しかし、どのような訴えにもイエスが答えなかったので、総督は非常に驚いた。(マタイ福音書二七・14)

 ふつうの考えでは、全くの無実の罪で訴えられて、まさに死刑にされようとしているのであるから、当然言わなければならないことが多くあったのです。しかし、主イエスは、神のご計画をはっきりと知っていたゆえに、その御意志が成るようにとの深い祈りをもって、沈黙されていたのだと思われます。
 言わなければならないときに、あえて神に祈って沈黙をすること、そこには、誤解からくる非難や不都合、あるいは、低い評価などをも甘んじて受けねばならないことがあります。それをも相手がよくなるために甘んじて受けようということなのです。
 パウロもこうした沈黙について述べています。

あなたがたの中には、兄弟の間の争いを仲裁することができるほどの知者は、ひとりもいないのか。なぜ兄弟が兄弟を訴え、しかもそれを不信者の前に持ち出すのか。
そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。(Tコリント六・5〜7より)

 言わねばならないことをあえて言わず、自分が神への信仰のゆえに不利益を甘んじて受けるということ、そして言わねばならないと思うことを互いに訴えること自体が敗北だという。なぜなのか、それは神がすべてを最善にして下さるという信仰を失って物の取り合いになっているからだというのです。神への信仰的姿勢を失った者こそ、敗北者だという姿勢がここにあります。
 キリストがだまって十字架刑に死んだこと、それは私たち人間に言わねばならない多くの罪を指摘して、裁くことをせず、あえて沈黙を通し、だまって私たちの汚れた心、罪といった不義をわが身に担って下さったからでした。そのイエスの驚くばかりの沈黙のなかに、計り知れない神の愛があったのを感じます。主の深い沈黙は、そのまま神の無限の愛を表していたのです。
 この世での沈黙には、いろいろあります。無関心のゆえ、また見下したり、無視しているがための沈黙があります。敵視や憎しみの沈黙もあります。
 しかし、キリストの沈黙は、二千年にわたって人類を救い続ける神の愛そのものであったのです。
 私たちも黙して祈る愛を神から頂きたいと思うのです。
短歌による聖書のことば

(次にあげる短歌は「短歌で読む新約聖書」からの引用です。)

聖霊は泉となりて溢れ出ず
  渇きたる者来たり飲むべし

 心に渇きを感じる人は、だれでもキリストのもとに行けばよい。そうすれば目には見えない水、命の水が与えられる。キリスト教とはいろいろの決まりとか戒め、あるいは教会の規則に縛られるところではなく、この命の水を頂くことがその中心にある。
 そのためは、私たちの心の汚れを潔めねばならないので、主イエスは十字架にかけられて人間の汚れ(罪)を担って下さった。
 私は、学生時代にあちこちの山を歩いた。そして渓流を長い時間をかけ、ときには二日がかりで川をさかのぼっていき、その源流の流れが尽きていくのを見届けたことがあった。
 その中でも、京都府と福井県境付近に広がる由良川源流地帯はことに深い印象を受けた。あの深い谷であった渓流が、長時間歩いて日本海を望む稜線にある峠に近づくとき、ついに小さな流れとなり、山肌からあふれでる静かな水の流れとなったのを今も思い出す。
 山からたえず音もなく水は湧き出している。しかしその小さな流れはだれも気付かない。
 聖霊の泉となってあふれでている、しかしほとんどの人はその静かなる水の流れには気付かないし、そのようなものがあるなどと夢にも思わない。
 しかし、神の見えない山から今も聖霊は溢れている。そしてそこに近づいて飲む者を待っている。
二つのいのち

 谷川の流れの音、それはだれもが心安らぐような音です。山の静けさ、谷川の水の清さ、しかも水は私たちに不可欠なもの、そうしたことが私たちにとくに谷川の水の流れの音に心安らぐものを感じさせています。
 そこにはふるさとに帰ったようなものがあります。そこに神のいのちの一部を感じさせてくれるのです。
 
 私たちはふつう命には二種類あるとは考えてもみない。小さい刃物で胸を刺されたり、ピストルで一発撃たれたらただちに命はない。命とはそういうものだと考えています。
 それはだれでも最も大切なもの、地球より重いと言われたりします。それはなんともろいことか、元気な者であっても、乗っている車が衝突したら、瞬間的にその命は消えてしまうほどです。私たちがもしこのように命とは一種類だと考えていると、この世で最も大切なものはきわめてもろいもの、そして必ず消えてしまうものだということになります。
私たちはすべてガンの宣告を受けた者と同様に死ぬのは確実なのですから。
 だから、生きること自体がはかなく、空しくなってしまうのです。最も重要なものである命が手のひらにのせられる小さい刃物一つで簡単に消えてしまうのですから。
 このはかない生物としての命、ほとんどの人が命だといえば、それだけしかないと思いこんでいる命は、人間だけでなく、犬、ネコや魚などのいっさいの動物や植物、そして昆虫や、細菌などの命とも共通したものがあります。それらはほとんど、外部からぶどう糖を取り入れ、細胞のなかで、TCAサイクルという、連続した化学反応によってエネルギーを取り出しているのです。そのエネルギーによって、生物はさまざまの活動をすることができているのです。そのエネルギーを取り出す際の複雑な化学反応は、酵素というタンパク質でできた物質が関わっています。ですから、例えば銅イオンはその酵素と結びついて、壊してしまい、化学反応が起こらないようにしてしまいます。だから銅イオンは、細菌のような原始的な生物から、植物、昆虫、動物などさまざまの生物に有毒なのです。
 私たちの命というものが、このように細菌や植物と同じものだということを本気で信じるなら、それらが絶えず、殺されたりするのが自然現象であるように、人間もそのような殺すという最大の罪を犯しても自然なのだということにもなりかねません。
 人間にはほかの動物とか植物とは違った命があるということを信じるのでなかったら、他の動物は強いものが弱いものを襲って食べるということは、悪でも何でもない自然の営みであるように、人間も強いものが弱い者を殺したりすることも自然なのだということにもなってしまいます。
 二つの命があるということは、主イエスの次の有名な言葉が示しています。
「人は、パンだけでは生きることはない。神の口から出る言葉によって生きる。」
 これは、人間が生きるということは、口から入る食物を取るだけではできないということなのです。
 このことは、すでに旧約聖書でも、神が人間を創造したときに、ほかの動物はただ、「地はそれぞれの生き物を生み出せ。家畜、這うもの、地の獣をそれぞれに生み出せ。」と言われて、創造されたのですが、人間については、神にかたどって、神に似せて創造されたと記されています。(創世記一・24〜26)
 このように、古くから、普通の生物としての命とは別の命があることが暗示されています。しかし、その別の命とはいったいどのようなものなのか、それが真に与えられたのは、主イエスによってだったのです。
 私たちはそのような命を与えられるために、どこへ行くべきなのか、自分の考えか、身近な両親とか友人の考えか、それとも現代のマスコミの有名人か、スポーツ、芸能、学者など有名人か、それとも過去の思想家といわれる人でしょうか。
 自然の命とはちがった命を知るためには、そうしたどんなところに行っても与えられない。ただ主イエスのみがそのような命の言葉を持っておられる。
 ペテロのつぎの言葉こそは、現代の私たちにとっても、そのままあてはまる言葉と言うことができます。

シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。(ヨハネ六・68)

二つの命の特質

 普通の人間の命は必ず終わると言えます。もし、人間の寿命がみな数百歳になるなら、そのときこそ、人間で地球はいっぱいになり、食物不足で人間は生きてはいけなくなるというのは明かです。 
 また、そのようなこととは別に、地球上のすべての生命は、数億年後には、太陽の膨張によって地球の表面温度が百度を超えるようになるために、地球上の水分は蒸発してしまう。そして地球上の生命は永遠に失われてしまいます。

 このように考えると、普通の生命は必ず消えていくという事実を受け入れざるを得ません。。
 たしかに科学技術によって、私たちのさまざまの病気が治るようになったこと、千差万別の機械によって、人間ができなかった多様な仕事ができるようになったことがあるし、車イスとか、パソコンによって盲人がふつうの文字の書物を読めるようになったとか、補聴器、呼吸器などなど多くのものが身体の障害や病気をいやしあるいは軽くして社会生活をすることに貢献してきました。
 しかし、他方では、公害、大気汚染、水汚染、自動車の交通事故による家庭破壊や健康破壊、有害印刷物、ビデオ、映画の類、薬剤耐性菌の増大、避妊技術の発達による不正な男女の関係の激増、堕胎など、科学技術は多くのよくないことにもつながってきたのです。
 そして、原爆とか水爆などのように、たった一発で数百万の命をも奪うような巨大殺人装置まで作られてしまいました。二十世紀が最も多くの大量殺人がなされた時代となってしまったのは、この科学技術の発達と深く結びついています。このような第二次世界大戦だけでも、数千万という膨大な人が殺され、またそれをはるかに上回る人々が傷つき、家庭を破壊され、生涯を苦しみと悲しみへと変えられてしまった人たちがいることを考えると、科学技術がしてきたよいこともかすんでしまうほどです。
 このように見てくれば、私たちの幸いは決して、科学技術にはよらないということがわかってきます。
 ふつうの生物としての命は科学技術が操作できる部分があります。手術とか延命装置、薬などによって死にかかった場合でも命を取り留めて生きながらえることも多くあります。
 しかし、もう一つの命は、科学技術とは全く関係のないところから得られます。科学技術の産物がほとんどなにもなかったキリストの時代でも、やはりこの命を与えられていた人たちがいたことを聖書を読むことによって知ることができます。
 生物としての命は重要であることは、いうまでもありません。しかし、聖書、キリスト教は生物としての命より根本的に重要な命を告げている点でまったく科学技術の生命論と違っています。
 それでは聖書、キリスト教が説いている命とは何か。それは生物としての命とどう違っているのかを考えてみます。

 主イエスは言われた、
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ福音書四・4)

 人間は、口から入るパンだけでは人間として生きることができない、神の口から出る言葉、真理の言葉によらなければ、生きていけないというのです。
 このことは、キリスト教徒だけに当てはまることでなく、だれでもこれに類することを知っているはずです。
 例えば、私たちが嘘ばかりを言うとします。先日大きい問題となった、旧石器を自分で埋めてそれがそこにもとからあったなどといって大きい嘘を言ってきた人がいます。
そんな嘘を続けていたらあのような大問題となり、自殺しようかと思ったと言います。生きる気持ちを無くしてしまったようです。
 真実に反する最も大きいことは、殺人です。そのようなことをしていたら逮捕、死刑となるか無期懲役となり、動物以下のような強制された労働ばかりの生活となり、人間として生きることはできなくなるのです。
 神の言葉によって生きるとき、私たちはそれまでと違ったものが心に生じてきます。そしてこれこそ生物的な命とは別の命だと直感します。
 その命こそ聖書で永遠の命と言われているものです。これは、単に長い命という意味ではありません。神の命ということです。そして神は愛と真実であり、決して滅びないお方です。それゆえ、永遠の命もまた愛と真実という最も私たちに必要なものそのものだと言えます。そのような命を頂くことができるということです。
 私がキリスト者になったのは、キリストの教えを実行したからでなく、ただ、キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったということを信じただけでキリスト者となったのです。そしてその時からたしかに以前は心に深い憂い、闇、無力感などが立ちこめていたのに、それらが無くなっていったのを感じるのです。
 そして私だけでなく、そうした命があることは、少数ですが他の人にも伝わっていきます。私は高校や盲学校、ろう学校などの教員として三十年近く勤めましたが、その間にも少しずつ、聖書のいう命に目覚めていく人たちが与えられていきました。
 その人たちはやはりキリストを知るまでとは違った歩みをするようになり、性格も変えられていくのを見てきました。それは実際に目で見て確認できたことです。
 それは永遠の命が与えられたからです。
 この命は、現在の生活に安らぎと、感謝を伴い、将来の生活への深い信頼を感じさせ、死後をも最も清められた人たちとの生活を約束するものです。
 キリストの教えはその永遠の命が与えられて初めて実行できるようになるものです。
「敵のために祈れ」と主イエスは教えられましたが、それは永遠の命(キリストの命)が少しでも与えられていなかったら到底不可能なことです。

二人の科学者
 天才的学者であり、しかも人間や社会に深い関心を持っているような科学者であっても、神への信仰がなければ、晩年は表情が暗くなっていきます。
 例えば、今日の原子力科学の先駆けをなした、キュリー夫人は、夫が死んでから、以後はずっと喪服のような黒い服を着て笑顔がなくなった。笑うことをしなくなったといわれています。
 彼女は、ノーベル物理学賞を受けた八年後には、化学賞をも授賞し、科学上の業績で、ノーベル賞を二つも授賞するというおそらく今後もないであろうと思われるような天才的な女性でした。そしてそのような世界的な名声にも毒されなかった人だと言われています。
 真理のために科学の研究をすることを目的としていたために、ラジウムの発見により、その製法に関して特許をとれば、莫大な富が得られるにもかかわらず、そうした富を得る道をすべて断ったのです。
 そのような真理探求者として生きていた彼女でしたが、彼女は心のなかに泉のように湧いてくる幼な子らしい喜びというのは持つことはなかったようです。
 キュリー夫人が、五十三歳頃、アメリカからの大きな雑誌の女性編集者であった人と面会したとき、その編集者はこう書いています。

扉が開いて、今までに見たことがないほど悲しそうな顔をした、青ざめたキュリー夫人が入ってくるのを見た。彼女は黒い木綿の服を着ていた。・・私の方がキュリー夫人よりもっとおじおじしてしまった。二十年も前から記者を職業としている私であっが、その黒い木綿服を着た弱々しげな夫人に質問一つ出すことができなかった。(エーヴ・キュリー著「キュリー夫人伝」第二十三章より)

 新渡戸稲造も国際連盟にてキュリー夫人と直接に交流していたのですが、やはり彼女の黒い服と、暗い表情が印象的だったようです。
 彼女の母は信仰深い人でしたが、キュリー夫人は母が亡くなって信仰を失った、しかし、自分の娘には、もし信仰を持ちたいと思うならそれは全く自由なのだと言っていました。
 キュリー夫人は自然科学に非常に優れていたけれども、社会学や文学にも科学と同じようなつよい興味を感じていて、すでに子供の時から詩が好きで、祖国ポーランドの偉大な詩人たちの詩を多く暗記していたと書いています。また、後に結婚して、子供が大きくなって読書をよくするようになり、ユーゴーとか、キップリングなどの詩人の詩を暗唱していると、それについてわざわざ意見を述べたり、娘が借りてきている書物がいつのまにか見えなくなって、母であるキュリー夫人の机にあったことがよくあると娘が思い出のなかに書いています。
 こうした文学や社会学方面への深い関心があったので、人間社会のこと、歴史や人間のあるべき理想などについての鋭い洞察を持っていたのだと思われます。しかし、このような人であっても神への信仰を持たない人においては、晩年になるにつれてある種の暗さが漂ってくることが多いのです。
 日本で最初にノーベル章を授賞した湯川秀樹も同様でした。晩年になると、その表情は暗く、憂うつそうで、幼な子らしい喜びをずっと味わったことがないのではないかと思われるような表情をしていたのをはっきりと思い出します。
 実際、湯川氏は、今から三十数年前に書いた書物のなかで、科学技術と人間の前途について触れたのですが、その書物の最後の部分において、科学技術によって人間は滅んでしまうのでないかという内容のことを、江戸時代の怪異小説の作家、上田秋成からの文を引用してこう言っています。

 月が照って、松には風が吹いている。いい景色や。人間はもうそこにいないかもしれない。それは何者の所為(せい)か。どう考えたらいいのか。
 考えれば考えるほどわからなくなる。わからんけれども、それを不断に問うていかなければならない。その結果は骨だけが残ることになりはしないか。
 私はそれが科学だと断定するわけではない。もっと明るい科学の未来像が考えられないというわけではない。ただ科学とはそんなものかもしれないという、いやな連想を消しきれないのです。(「人間にとって科学とは何か」中央公論社・一九、 湯川は、科学者としては稀な博学であって、科学以外のさまざまの方面の書物も多く読み、日本、中国、朝鮮の歴史や文化にも深い関心を持ち、多くの短歌をも作るという幅広い教養を持っていた学者でした。そして平和運動にも熱心で、科学者京都会議を二十年ほどの間に四回も主催したり、世界平和アピール七人委員会にも参加するなど、科学者の平和運動の中心人物の一人として働いた人でした。
 そのような広範囲の学識、教養にもかかわらず、彼が晩年に到達した科学技術と人間という問題については、驚くべき暗い予想なのです。私は大学四年のときに間近に見た湯川氏の表情の暗さが今も印象に残っていますが、それはいったいどうしてなのか、最初は不可解でしたが、この書物を見てその深い理由がわかったような気がしたのです。
 科学技術が人間を悪い方向へと引っ張っていくのでないかと考えだすと、「私自身、少しおかしな気になりそうですが・・」とも言っています。

 二十世紀の科学者の内でも、とくに良心的であり、人間と科学の関わりに真剣に考え、しかも行動してきたキュリー夫人と、湯川秀樹の二人が、ともに子供のときから文学にもつよい関心を持ち、幅広い関心を培ってきたという点は、よく似ています。
 それにもかかわらず、ともに暗く、憂うつな、そして悲しげな表情となっていったのが、私にはとくに心に残るのです。
 天才的な頭脳や、優れた業績、広い教養、学識、名声なども、心に深い平安と喜びをもたらしてはくれないのです。
 むしろ、そのようなものがありながら、神への幼な子らしい心をもって仰ぐ眼差しを持っていないときには、暗い影がその人の魂を包んでいくということに気付かされるのです。生まれつきの才能などに根ざすものをいくら持っていても、それだけでは、本当の命には至らないということなのです。
 そのような暗い影を取り除き、逆に光を持つには、別の命の源を与えられねばならなかったのです。

聖書といのちの光
 聖書そして、キリスト教はそのような命の源について、私たちに多くの箇所で、繰り返し告げ知らせています。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書八・12)
 
イエスを信じ、イエスに従っていくときには、そのような命が与えられるというのです。ヨハネ福音書が書かれた目的は、何だろうか。

これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ二十・31)

 このヨハネ福音書の実質的な最後に、ヨハネ福音書が書かれた目的は、「命を受けるため」だと書いてあります。自然の命はこの地上に生まれたときに与えられています。
 しかし、それは動物や昆虫などとともに、自然のままの命であり、はじめに述べたようきわめて簡単に失われます。
 しかし、聖書でいう命(永遠の命)は、決してそのようなことがなく、いかなる不自由や、苦しみに会ってもなお、輝いているような命です。
 キリストというお方は、生物としての生命の重要さではなく、もう一つの命の重要性を一貫して説き続けたのがわかります。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。
しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」
 狭き門という言葉は有名です。フランスの作家がこの言葉を題名にした本を書いています。その作家のように、これを禁欲的な生活であって、自然の人間を抑圧するとかいった誤解がよくなされます。しかし、狭い門から入るとは、キリストが私たちの罪を担って十字架で死なれたのだということを信じることであり、細い道とは、主イエスに導かれ、主イエスを仰ぎつつ歩むことです。
 それは、たしかに狭い門から入ることだし、道も細いし、それを見いだす人は少ないといえます。なぜなら、世間の人々の会話や、学校教育あるいは会社、またテレビ、新聞などどこを見ても、こうした罪の赦しを受けて歩むことは見られないからです。
 しかし、この道は、決して歩めない困難な道でなく、かえって歩きやすさを伴っています。どんなに弱くとも、学問もなくとも、また年をとっても、この十字架のイエスを信じて主イエスに従う道は奪われることがないからです。一人孤独に悩み、深い悲しみに沈むときでも、なおこの道を歩むことができます。否、健康なとき以上に歩きやすくなると言えます。そうしたときには、ただ主イエスを仰いで生きるほかはないからです。
 そこから入っていくとき、私たちは「命」に至るという約束があります。

私は道であり、真理であり、命である。(ヨハネ十四・6)

 私たちは、小さいときから生命というと、生物としての命だけだと繰り返し聞かされてきたため、死んだら終わりだという考え方がしみこんでいます。二千年も昔に十字架で処刑されてしまった、キリストが命そのものだなどということは、自然のままの人間にとってはまったく思いもよらないことです。
 しかし、驚くべきことですが、キリストは、「私が命そのものだ!」と言っておられるのです。そして、神を信じ、イエスをわが救い主と信じるだけで、生物としての命ではない神のいのちを下さるという約束が与えられています。

わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。(ヨハネ福音書十・10より)

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十章27〜28)

 このような主イエスの約束にまさって喜ばしいものはないのです。永遠の命であるゆえに、それは神が永遠であるように、決してこわれることなく、いかなる天災異変にも動じることなく、太陽や地球がどのように変化しようとも、なんらの影響を受けないような命なのです。
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