休憩室

火星の接近
 夜中頃には、南の空に夏の代表的な星座であるさそり座が見えてきます。そのさそり座には、赤い一等星が見えますが、その左(東)の方には、赤くて強い輝きの星が見えます。それが火星です。火星は二年二カ月ごとに地球に近づきます。今年の六月二二日が最も近づく日なのです。さそり座の一等星はアンタレスという名です。これは、アンチ+アレス という言葉であり、いずれもギリシャ語でアンチとは「反対、対抗」、アレスとは、火星のことです。それで、アンタレスとは、「火星に対抗するもの」という意味になります。火星に対抗するように赤く、明るい星ということから名付けられています。

明けの明星
 去年の秋から今年の二月頃までは宵の明星として、夕方に目だった輝きを見せていた金星は、現在では朝に東の空で明けの明星として輝いています。夜明け前に東の空を見れば、だれでもただちにわかるすばらしい輝きの星です。
 金星のあの強い輝きは、何によってあのように光っているのかといえば、それは太陽の光を反射して輝いているわけです。金星には、とくに濃硫酸の厚い雲が被っていることが分かっており、太陽の光は直接に金星の大地から反射しているのでなく、雲からの反射の光です。
 金星の強い輝きは聖書の時代から注目されていました。昔は、電気もなく、夜の闇は現代とは比較にならないほどであり、その闇のただなかに目立つ大きな星は、聖書を書いた人たちにもことに印象的であったのがうかがえます。

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返舟だより

青空が広がり・中ヲ(最近の来信から)
 私は周りの目や評価を気にしすぎでした。そのために自分で苦しんでいました。
でも今日神様は見ていてくれていると思っていたら、そして私は一人ではないイエスさまがいてくれていると急にひらめきました。そしたら急に青空が広がりました。
自分が自分がと思っていたことすら分かりませんでした。神様を信じているといって神様の方を向いてなかったのです。向いているつもりだっただけでした。
でも今日それが分かって良かったです。

・この来信にあるように、私たちがキリスト信仰を与えられてよかったと思うことは、苦しみや悩みはいろいろとあるけれども、ある時にそれが急に晴れて、光が射してくるという経験が与えられることです。聖書には何についても、「時」があることが強調されています。神がすべてをご覧になって下さって、神のご計画にしたがって物事をすすめておられるのだからこれは当然のことだと言えます。
 旧約聖書のヨブ記もそうした内容です。長い苦しみと闇があるとき、突然にして晴れて、神からの光と言葉が注がれた、それによって苦しみから導き出されたというのです。

ヒルティ
 今月は私が学生時代の終わり頃に初めて読み初めて、卒業後も教員となったとき、生徒の希望者とともに読んだり、キリスト集会の仲間たちとも読書会という形で学んできたカール・ヒルティについて簡単に紹介しました。現代の日本は、何が真理なのか、次第に揺れ動く状況となっていますが、そうしたなかで、聖書の真理へと導く人の一人としてヒルティは今も変わらぬ重要性を持っていると感じています。ヒルティのように、論文でなく、どこを読んでも、どこからでも真理、とくに聖書の真理へと導くことのできる書物はごく少ないのです。
 
憲法学者も聖書を知らない?
 平和憲法を変えて正式の軍隊を持とうとする動きが強くなっています。先ごろ、早稲田大学教授のM教授の憲法講演を聞く機会がありました。平和憲法の精神を守るべきこと、自衛という名の戦争を認めるとどんな問題が生じるのか、また最近のコソボ問題など人権侵害を守るための戦争だと言い出す人が出てきたが、そのような主張の問題点は何かなど、考えさせる内容がありよかったと思います。あのような考え方を多くの人が知るようになればと願われたことです。
 ただ、残念であったのは、あらゆる戦力を放棄するという平和憲法の理念の源流について、質問を受けたときの、その講師の答からすると、どうも聖書のことは知らないのではないかと思われました。すでに旧約聖書に平和主義を思わせる記述があるということ、キリストの有名な言葉や新約聖書の内容についても一般の人はもちろん、学者といわれる人でも聖書の知識はたいへんに少ないことを感じます。日本では聖書はよく売れていても、その内容はごく一部の人にしか知られていないのです。

主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(イザヤ書二・4

 これは今から二千七百年ほども昔に書かれた書物ですが、神の御意志はこのように、武力による戦いを止めることだとはっきり記されています。キリストの有名な言葉、「剣を取る者は皆、剣によって滅びる」(マタイ福音書二十六・52)も、そうした言葉の延長上にあります。そしてその言葉通りに、主イエスは敵対する人たちにいっさいの武力を用いず、自らは十字架上で殺されることで、神の御意志を全うしました。そして弟子たちも、使徒たちのはたらきの記録の示すように、いろいろな危険のときにも、いっさいの武力をもって反撃することをしなかったのです。--------------------------------------------------------------------------------
追記

神の言葉

 聖書は神の言葉だと言われる。それは変わることのない言葉だからであるし、どんな人にも通じる言葉であるという意味がこもっている。さらに、その言葉が持つ意味が限りなく深いという意味もある。
 三十年も読んでいる箇所であっても、ある時には、まったく新しい言葉のように、新しい意味をもって私たちの心深くに入ってくることがある。それは神がその言葉に生きていて私たちに働きかけるからだ。
 先日もイエスは言われた、「起き上がり、床をかついで家に帰れ」(マルコ福音書二・11
 という言葉が心に新しい意味をもって感じられた。これはもともと中風の寝たきりの人に言われた言葉である。表面的によめば、健康な私とは何の関係もない。
 しかし、ある問題で心が沈む思いをしていた私にとって、それは直接の主イエスからの励ましの言葉のように聞こえてきたのであった。祈りをもって読んでいたときに与えられるとき、それは生きておられる主イエスが私に直接に語り掛けて下さった言葉として感じられた。
 聖書の言葉はそのような不思議な力を持っている。印刷された古い時代に書かれた書物にすぎないのでなく、必要な時には、求める者に対して紙面から生きた言葉、神の力を帯びた言葉が私たちの内に飛び込んでくる不思議な書物なのである。


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