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だれのところへ行くのか-不信の海のなかで   2001/5

 私たちはいったいどこに行くべきか、何者のところへと赴(おもむ)くべきなのだろうか。この問は、はるかな古代から現代に至るまで、つねに人間の根本問題となってきた。
 その答を与えようと、古来数々の哲学や宗教、思想が生まれてきたのである。 
 生まれてからすぐに人間は赴くべきところを求める。乳児は、それが母親であることを本能的に知っている。
 少し成長しても幼少のときには鳥や他の動物であっても、行くべきところは母親なのである。母親は高等動物たちが行くべきところとして深くその内部に刻みつけられているのがわかる。
 そして幼少の時をすぎると、今度は友達、異性、教師、先輩などさまざまの人間のところに行くようになる。そして自分が寄りすがることのできる存在を求めて日々を過ごすようになる。
 しかし、なかなか本当に行くべき者は見つからない。多くはこの人こそはと思ってもまもなく期待はずれであったり、裏切られたり、相手の本質がわかってしまい、自分が行くべき相手ではないことがわかる。
 そしてまたいろいろの相手を求めていくのである。
 こうした探求は、人間はだれでも共通している。しかし、古来からそのような探求によっても本当に行くべき存在はなかなか見つからなかった。そのとき、二千年前に、イエスが現れ、自分こそ、あらゆる人間が来るべき存在なのだ、究極的な存在なのだと宣言された。
 ヨハネ福音書ではそのことが第一章からはっきりと強調されている。
「来たれ、そうすれば見る!」あるいは、「来たれ、そして見よ!」(*)(ヨハネ福音書一章39節、46節)という言葉はまさにそうした人間のさまよう実態への呼びかけであり、それまでの長い年月の探求の終わりが来たという宣言なのであった。

 新約聖書においても、主イエスは人々がキリストの語る言葉に対して反感を持ったり、受け入れようとしなくなり、多くの弟子たちが離れ去っていったとき、主イエスは十二人の弟子たちに問いかけた。

 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。
そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。
シモン・ペテロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。
あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ福音書六・66〜69)
 
 主イエスが完全な真理を語っても、そして驚くべき奇跡を多くされてそれを見たような者であってもなお、信じるどころかイエスから離れていく者が多かった。これは何を意味するのだろうか。しかも特別に選んだ十二人のうちの一人すら裏切っていく。そうした事実によってこの世というものがキリストの真理を受け入れない強い力があるのだと知らされる。
 また、イエスの兄弟たちすらイエスを信じていなかったと記されている。
 このように不信のただなかにあって、少数の信じることができるのは、まことに、神がそのことを啓示した人だけなのだとわかる。
 右にあげたペテロの告白は、ほかの福音書にある、ペテロの信仰告白のヨハネ福音書版であるとも言われている。

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
シモン・ペテロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
すると、イエスはお答えになった。「シモン、バルヨナ、(*)あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(マタイ十六・16)

(*)シモンとは、ヘブル語の「聞く」という語から造られた言葉で、神の言葉を聞くことが繰り返し旧約聖書で命じられている。そのことを名前にしている。またペテロ(petros)というのは、ギリシャ語の「岩」(ペトラ petra)からつくられている。また、バルヨナとは、「ヨナの子」という意味。「子」はヘブル語ではベン(ben)であるが、アラム語では、バル(bar)という。メシアとは、ヘブル語では、マーシーァハ、アラム語では、メシーハーという発音になる。英語では Messiah と書き、メサイアと発音する。これは、「(聖なる)油を注ぐ」という動詞(マーシャハ)から造られた言葉で、「(聖なる)油を注がれた者」という意味。神から油を注がれるとは、大祭司や王などが神の本質を注がれるということの象徴的意味がある。そこから、とくにのちの世に現れる救い主を意味するようになった。

 この信仰が与えられたからこそ、ペテロはどこまでも主イエスに従っていくことができた。この信仰によってペテロは永遠の命を受けることができた。その命によって多くのものを捨てたその損失をはるかに上回るものを与えられた。

 私たちはどこへ行くべきか、どこに最大の信頼を傾けるべきか、どこに心の深いところでの悩みや苦しみ、痛みを訴えるべきなのか、この世のすべてが移り変わるなかで、なにが永遠に変わらないものなのか、どこから生きる力や目的を与えられるのか。まわりの人たちがつぎつぎに死んでいくただなかにあって、死を超える力を持っているのは何なのか。
 そうしたあらゆる問題をもっていくべきお方はどこにあるのか。それは古代も現代も変わらない。それこそ問のなかの問である。
 現代の日本の人たちはほとんどが唯一の神を知らない。それでは何者のところに行こうとしているのだろうか。
 ここで、日本を取りまく国々の人々の心はどこに行こうとしているのか、それをうかがうためにそれらの国々のキリスト者人口の状況を見てみよう。
 今日ではロシアもキリスト教が急速にかつての力を取り戻している。一九一七年のロシア革命以来、キリスト教はきびしい弾圧を受けてきて、多くのキリスト教指導者は逮捕投獄され、殺されるキリスト者も続出した。キリスト教会堂も多くが破壊された。
 しかし、一九八八年にロシアがキリスト教を受け入れてから千年になる記念祭のとき、当時のゴルバチョフ大統領は、ソビエト時代のキリスト教弾圧を公式に謝罪した。そして国の支援も与えられるようになって、ロシアのキリスト教は活発になっている。現在では、ロシア人口一億五千万の半数を超える人がキリスト者となっいると考えられている。
 中国もキリスト者の数は増加の一途をたどり、現在では数千万人になっていると考えられている。(中国には政府公認の三自愛国教会に登録されているキリスト者は一千万人、それとは別の「家の教会」のキリスト者が多数あり、合計では、四千万から、八千万人のキリスト者がいると言われている。・u・u「世界のキリスト教情報」98年9月7日による)
 中国のキリスト者の増加はめざましく、一九九二年の三自愛国教会の信徒は、五百万であったのに、それからわずか五年後では、倍増して一千万人になったと発表されている。
 また、韓国は、前大統領の金泳三もキリスト者であったし、現大統領の金大中氏は夫妻ともにキリスト者である。また、一九七一年〜一九七三年には、15万人の韓国軍人が信仰告白して、集団洗礼式が行われた結果、軍隊では、キリスト者の占める比率は一九七〇年には、12%であったのに、二年後には、三十五%にも急上昇し、一九七七年には、47%になるに至った。(「世界キリスト教百科辞典」教文館発行による)
 現在では人口の25%を越えるキリスト者がいるとされている。韓国の人口は約四千万人であるから、一千万人を越えるキリスト者がいることになる。
 それに対して、日本はわずかに百万人ほどである。
 それでは、韓国、中国、ロシアについで近い国である、フィリピンでは、どうか。この国のキリスト者人口比率は約94%、その南のインドネシアはイスラム国として知られているが、そこでも10%余りのキリスト者がいる。インドはよく知られているように、ヒンズー教の国である。しかし、そこでもキリスト者の人口は4%ほどあって、比率では日本の四倍以上もある。また、ベトナムのキリスト者は7.5%である。
 このように、東アジアの国々などを見ても、日本のキリスト者人口が0.8%というのは、際だって少ないのがわかる。
 それでは、アフリカのキリスト者はどうであろうか。アフリカでは、いまから百年前には、キリスト者の人口は世界のキリスト者人口の2%にも満たない少数であった。しかし、二十年前には14%を越え、現在では世界のキリスト者人口の20%ほどになっていると考えられており、将来は中国とならんで重要なキリスト教の地域となるであろう。
 ヨーロッパや北アメリカの国々はキリスト教が主体であることは 昔から知られている。南アメリカも同様である。ブラジルでは91%、アルゼンチンは95%ほどであり、一九五九年にキューバ革命が起こり、カストロ首相となってキリスト教を否定する思想のもとでの政治となって以来、キリスト教人口は減少していったが、それから四〇年ほどを経て、カストロ首相も初めてローマ法王を迎え、人口の40%足らずになっていたキリスト者は増加していくと見られている。
 このように、世界の状況を見ても、長くキリスト教を否定する思想のもとで政治が行われていたロシア、中国、キューバなどですら、そのような政策の転換が行われ、キリスト教が認められ、大きい力を持つようになりつつある。
 こうした世界の現状は、キリストが「あなたたちは、どこへ行こうとするのか」との問いかけに対して、やはり「主よ、私たちはあなたのもとに行きます」という流れを現していると言えよう。
 そうした状況と比べるといっそう際だっているのが、日本の現状である。
 キリストの力は、ヨーロッパやアメリカ大陸だけでなく、アジア、アフリカといった全世界に及んでいる。しかし、その中で日本だけは、聖書が毎年何十万部も発行され、信じることも自由であるにもかかわらず、キリストを信じて歩もうとする人がきわめて少ない。
 そして、ふつうの人間にすぎない天皇を神としてもってきて、それを中心にすえようとしてきた。君が代の強制も、グローバル時代のためということはかくれみのであって、それなら、君が代の歌詞が多くの人たちに問題であったのに、その検討をもしようとしなかった。憲法については検討をする会をもうけている(ただし、改訂論者がずっと多くなっている)。
 そのように、君が代についても新しい国歌にふさわしいものを時間をかけて議論し、国民の投票によって決めるべきであったのに、いっさいそのようなことをしようとはしなかった。それはグローバル化に対処することが目的でなく、天皇讃美の君が代を歌わせることが本当の目的であったからである。これは、憲法を改悪しようとする人たちが、よく環境問題が書いてないなどというが、じつはその目的は第九条を変えようとすることが本音であることと似ている。
 田中正造や内村鑑三などは、今から百年も昔、明治憲法の時代であっても、足尾銅山の環境破壊問題に真剣に取り組んだのであって、それを封じ込めようとしたのは、憲法の規定がなかったからでなく、利権目的の権力者(経営者、政治家)たちが多くいたからであった。
 現在でも環境破壊を見逃してきたのは、憲法のゆえでなく、経済界、政治家や自民党などの利権あさりのゆえであり、また将来への正しい展望がなかっからである。
 現在の憲法のもとにおいても環境問題は対処できてきたのであり、むしろ環境問題などに関心を持とうとしなかっ人たちが憲法を変えることに熱心なのである。
 戦後の環境問題として最も深刻な事態となったのは、熊本の水俣湾で生じた病である。それは一九五三年頃から水俣病として広く知られるようになった。その原因については、すでに一九五九年に、熊本大学医学部の研究者たちによって、工場から出されたメチル水銀が原因であると究明されていた。しかし、政府がそれを正式に認めたのは、九年も後の六八年であり、会社側も多くの犠牲者が出てもなお工場が原因であることをなかなか認めようとはしなかった。
 こうした政治や企業の自分たちの利益を守ろうとする姿勢が多くの犠牲を生んだのであって、憲法に環境問題のことを記述するかどうかの問題ではなかったのだとわかる。すでに現憲法第十三条には、つぎのように記されている。
「すべて国民は個人として尊重される。生命、自由及び、幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする。」
 水俣病など環境問題は、憲法に記されてている「国民を個人として尊重」しないところから生じているのである。すでに明確に記されているこの憲法の精神を徹底させることで、環境問題のことも含まれてくるのである。

 日本はどこに行くのか、憲法の平和主義の源流をたどると、は聖書・キリスト教の精神に行き着く。日本は数百万人の犠牲と、アジア諸国の数千万の犠牲のゆえに、今の平和憲法が与えられ、その方向へと曲がりなりに歩んできた。しかし最近ではその憲法の平和主義を変えようとする動きが次第に強くなっている。そしてその方向は、日本の歴史や伝統重視という名のもとに、天皇中心として戦前の日本のような状態へと方向転換しはじめている。君が代の強制、教育基本法を変えて、日本の伝統、文化を重んじることを強調する。(日本の伝統文化の根本に天皇制があると改悪論者は考えている) その平和主義を捨てることは、キリストの方向から転じることなのである。
 我々はどこに行くべきなのか。聖書とキリストこそ私たちがどのようなことがあっても変わることのない目的である。

 こうした国際的、または社会的問題から転じて、個人的な苦しみや悩みに直面したとき、どこに行くべきだろうか。
 重い病気のとき、死が近づいているとき、将来の不安のとき、孤独のとき、仕事で失敗して見下されたとき、職場、家庭その他の人間関係で苦しむとき、どこに私たちはいくことができるだろうか。
 一番簡単なのは、飲食や性など本能的な快楽を満たすことである。酒がいつの時代にもどこの国でも人気があるのはそこにある。もやもやした心を一時的に忘れるために酒に行く。酒が介在する人間の交わりに行く。
 どんな人でも人間に頼ろうとする。人間からの励まし、語らい、愛を受けることで自分の闇を解消しようとする。病気の重いときにも医者という人間に行く。たしかに多くの苦しみは医学によって取り去られた。しかし心の苦しみは取り去ることはできない。また、どんな医者も死を取り去ることはできない。
 いかなる世の変化、私たちの変化があろうとも行くべきところは、はっきりと示されている。それがキリストである。「はじめに言(キリスト)があった。」とあるように、ヨハネ福音書では冒頭から、キリストが時代の流れとは無関係に永遠に存在し続けていることが強調されており、そこにこそ、私たちは行くべきことが示されている。
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