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今月のみことば
主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。  (詩篇一〇七・31


 自民党の総裁選挙のことが連日報道されている。選ばれた人が日本の首相になるのだから、その重要性は当然である。日本の前途を任せる人であるから、少しでもましな人が首相に ってほしいというのはごく自然な願いである。

 韓国や中国、アメリカ、ロシアといった国々との関係も首相の考え方次第でずいぶん変わってくる。

 戦前では、悲惨な戦争にすらなってしまったし、現在もイスラエルのように、首相が変わると地域での紛争がとみに激しくなってきた国もある。

 しかし、いかにそうした外部の状況が変わろうとも、私たちの真の幸福そのものは変わらない。

 私たちが自分中心の考えで生きている限り、そして唯一の神がおられるということを信じようとしないかぎり、いつの時代にあっても、真の深い幸いは与えられないからである。

 私たちが実感できる真の幸いは、首相がだれであっても、また社会がどのように変化しようとも、キリストが私たちとともにおられるその実感にあるからである。

 神とともにあること、キリストが私たちの内に住んで下さること、それがキリスト教が約束している幸いであり、それは外側の事情には関わらない。

 最近の十年ほどでは、首相は一年余りで一回代わっている計算になる。だれがなったからといって日本人の幸福の実感はたいした変化はなかったはずである。

 しかし、キリストが私たちの内にとどまって下さることによって、どのような悲しみの折も、苦しむときも、ほかの手段ではかえることのできない平安が与えられる。

 だれが国のトップになるかは私たちが決められない。たとえ首相公選制となっても、わずかに一票しか投票できない。

 しかし、私たちの心の内で、何者がトップになるかは、私たち自身が今すぐにでも選ぶことができる。金や地位か、自分自身か、他人か、それとも主イエスか。


善悪は変わるか

 今年の中学歴史教科書のことが、大きい問題となっている。それは、「新しい歴史教科書をつくる会」が作った教科書の内容が今までにかつてなかった内容のものであるからだ。それは、自民党の文部科学大臣ですら、ずいぶんかたよった記述がしてあると驚いたほどのものだったからだ。

 ここでは、そうした内容の基本的精神が現れている序文について考えてみる。

 新聞報道によれば、その教科書の序章にはつぎのような内容が書いてあるという。

「歴史を学ぶということは、今の時代の基準からみて、過去の不正や不公平を裁いたり、告発したりすることと同じではない。過去のそれぞれの時代には、それぞれの時代に特有の善悪があり、幸福があった」

「歴史に善悪を当てはめ、現在の道徳で裁く裁判の場にすることもやめよう」

 こうした考え方は、キリスト教の考え方と本質的に異なる。キリスト教はまさに善悪について、幸福について永遠に変わらないとのべ、その永遠の真理と幸いを伝えるものであるからだ。

 善悪の基準は現在と昔では同じでない、それは部分的に言えることである。例えば、親が不正なことで殺されたなら、仇を討つのが正しいこととされていた時代があった。しかし、現在ではそんなことをしたら殺人罪となる。また、江戸時代においては身分差別は当然のことであったが、現在ではそれは悪であることはだれでも知っている。

 このような例を考えると、この歴史教科書を作った人たちの考えは当たり前と思う人もいるだろう。過去のことだけでなく、現在のことも、人によって善悪の基準は違うのだなどと考えている人も多い。

 しかし、この教科書においては、このような考え方を最初に持ち出すことによって、過去の日本が行った侵略や戦争などを正当化しようという意図が見えている。

 このような考え方で過去のこと、歴史を見ていくということは、いったいどのようなことが生じるだろうか。

 そもそも過去とは、いつなのか。今からわずか一時間前でも厳密に言えば過去である。一年前のことは過去であるとはだれもが認めるだろう。しかし、その過去のことを現在の善悪の基準で判断することができないなどと言うのなら、あらゆる過去のことについて善悪はいっさい言えないことになってしまう。そんな無意味なことをだれが言うだろうか。

 それとも一年前は、「現在」だというのであろうか。それなら十年前は、どうか、五十年前でも現在というのであろうか。

 このように、過去のことを現在の基準で判断するなというとき、現在とか過去をどんな意味で使っているのかも不明である。数百年前だけが過去でないのである。

 過去を現在の基準でその善悪を判断することを放棄するならば、およそすべての過ぎ去った事柄の善悪は判断出来ないことになる。

 このような矛盾があるにもかかわらず、深く考えない一般の人たちには、過去のそれぞれの時代には、特有の善悪や幸福があった、現在はそれとは違うのだという考え方は、受け入れられやすい。

 このような善悪や幸福は時代や国とともに変わっていくのだという考え方は、よく検討してみると大きい矛盾を持っているのがわかる。

 例えば、「人を理由なくみだりに殺してよい」とか、「男女の不正な関係をいつでも誰とでも自由に持ってもよい」などというきまりはいかなる国でも成立したことはなかった。

 先ほど例にあげた、仇討ちが認められていたような時代でも、「みだりに人を殺してよい」などという法律は全く有り得なかったのである。

 また、「嘘をいくらでも言ってもよい」とか「他人のものでも何でも盗んでもよい」「親をバカにしてもよい」などというのも同様である。

 こういうことを考えてもすぐにわかることは、どこの国でも、いつの時代においても、永遠にかわらないある種の決まり(真理)があるということである。

 善悪の基準が時代とともに変わるとか、人によって違うなどという人は、こうしたことを考えたことがあるのだろうか。

 善悪の基準というものが、永遠に変わらない内容をもっている、それこそ聖書が力をこめて語っていることである。

 今から三千数百年も昔にモーセが受けた、神からの十カ条の基本的な言葉(十戒)は、そうした永遠の真理だと言える。さきほど述べたことも、すでにそのなかにすべて含まれているのがわかる。

 真実で正義の神のみを拝せよ、ということから、嘘をついてはいけないというのも自然に含まれてくる。殺すな、不正な男女関係を持つな、盗むな、などもみな人間がどのようにあっても変わらない真理である。

 モーセが受けた真理をさらに完全なものとしたのが、キリストが示した真理であった。「神を愛し、隣人を愛する」「敵を愛し、敵のために祈る」「弱い者を心から愛する」といったような規定は、それを超えるものがないということは明らかであり、だからこそ、二千年ものあいだ、一貫してキリストの示した真理は受け継がれてきたのである。

 キリストの真理を超えるものは、この二千年の間、現れたことがないし、今後も現れることはないであろう。なぜなら、キリストは永遠の真理たる神ご自身と同質のお方であるからだ。

 こうした永遠の真理に照らして歴史の出来事も考えて判断するべきなのである。キリストやパウロ、ペテロといった初期の弟子たちはまったく武力や権力などを使わなかった。そして他人の命をどこまでも大切にした。その結果自らは殺された。

 しかし、数百年してからキリスト教が国教となってくると、権力や武力をもった人たちが表面はキリスト者だといいながらも、武力や権力をもって人々を苦しめるということも生じた。

 これは、すでにキリストによって示された、永遠の真理に背くことであった。戦争が宗教の名によって行われたこともあった。しかし、そのようなときでもキリストが「敵を愛せよ、敵のために祈れ」と言われたその内容は永遠の真理であり続けた。

 時代によって善悪の基準が変わるのでない。移りやすい人間の心が、すでに示された善悪の究極的な基準を無視しているだけのことである。

 真理とは、時代の変化にも場所にも変わりなく通用する力をもったものである。そしてその真理と一つになることこそ、人間の究極的な幸福であることは当然の結論となる。

 こうしたことを知らない人たちが、過去のことは現在の善悪の基準で判断できないとか、幸福は時代によって変わるなどという主張をする。

 こうした主張をする人は、自分が言っていたことも簡単にくつがえすだろう。そしてそれもなんとも思わないということになる。彼らの言い分のように、善悪は時とともに変わるのだと釈明するだろう。

 確実なことは、そのような考え方は真理を知らない者であり、そこには深い平安や心の潔められるという喜びを知ることができないということである。

 私たちは、このような間違った考えを日本の「国」が認めていること、そして歴史を歪めてでもこのような間違った考えを教科書として採用していこうとするその発想に強い警戒心をもたなければと思う。


キリストの復活はなぜ重要か

 キリストの復活というのは、世界の歴史上でも最も重要な出来事であった。

 キリストが復活しなかったら、キリスト教はなく、キリスト教がなかったら、ヨーロッパや南北アメリカ、そして世界の国々の状況はまったく異なるものとなったであろう。

 そして、いたる所の国々で弱い者は圧迫され、踏まれ、苦しめられる状況がずっと後まで続いていたと考えられる。

 キリスト教から、障害者や一般に弱い者への配慮を重んじる福祉という考え方も生まれた。

 その例として盲人福祉(教育)や、女性の教育などとキリスト教との関わりを取り上げる。

盲人の世界を広げたこと

 日本では、盲人やろうあ者、肢体不自由など、障害者の人たちへの見方は、何かがたたっているとか、先祖が悪いことをしたとか、先祖への供養をしなかったからだとか言われて、放置されていたばかりでなく、いまわしい存在としてさえみる人が多かった。

 そのような状況のなかで、キリスト教はまったく新しい見方を人々に示した。それは、そのような障害者もまた、神の栄光をあらわすための存在であり、神がとくに慈しまれる存在であるということであった。キリストご自身がそうしたハンセン病や重い病人、障害者といった人たちに特別な愛を注がれたことがその源流にある。

 視覚障害者の福祉の方面では、日本で初めてライトハウスを大阪に創設した岩橋武雄や一九二二年以来、現在も発行が続けられている点字毎日という世界でも珍しい点字新聞を作った人々はキリスト者たちであった。点字毎日は、内村鑑三によって信仰に導かれた好本 督(ただす)やそのキリスト者仲間が創刊したものであった。

 ライトハウスはその後、つぎつぎと作られて現在では名古屋、京都など九箇所に作られている。東京には、内村鑑三の信仰の弟子であった秋本梅吉が、東京光の家を創設した。

 明治の後半になっても、盲人教育がいかに遅れていたかは、つぎの数字が示している。一九〇一年(明治三四年)には、一般の小学校の就学率はすでに九〇%に達していたが、盲ろう児の就学率はわずか二%でしかなかった。

 また、日本の盲人教育の中心となった東京盲学校もそのもとは、一八八〇年という古い時代に、アメリカの宣教師や津田仙(津田塾大学の創設者である、津田梅子の父)などキリスト者によってつくられた楽善会という組織が建てた、訓盲院であった。(訓盲とは、盲人を教えるという意味)

女性の高等教育とキリスト教

 女性の高等教育ということも、以前には考えられないことであった。それは女性は男性とは一段低い存在として考えられていたからである。そのような女性の高等教育は、明治になってから外国のキリスト教の宣教師などが始めたものであった。

 日本で最初の女子高等教育は、江戸時代の末期(一八五九年)に来日した、ヘボンの夫人がはじめた塾に始まる。それを引き継いで、一八七〇年にヘボンの治療所において始まったのが、日本の近代女子教育の出発点となり、それは後のフェリス女学院となった。

 また、そのすぐ後、一八七三年に神戸にて、アメリカからの女性宣教師が日本の女性への伝道と教育のためにつくった学校が現在の神戸女学院である。

 津田塾大学は、津田梅子が、自分が幼少のときと、成人してからも受けたアメリカでの高等教育を日本の女性にも受けさせたいと、一九〇〇年に始めたのがその始まりであった。

 東京女子大学は、一九一八年に、キリスト教の女子高等教育を授ける目的で設立された。それは、アメリカとカナダのプロテスタントの六つの教会代表と日本側の有志によって設立された。そしてその初代学長には、現在、五千円札に写真が入っている新渡戸稲造がなった。

 また青山学院大学も、一八七四年にアメリカの女性宣教師であったスクーンメーカーという人が、前述の津田梅子の父、津田仙の協力を得て、創設した女子小学校がその出発点となっている。

 日本女子大学はキリスト教主義の大学ではないが、それを設立したのは、牧師で、女子教育につよい関心のあった成瀬仁蔵であった。彼が日本女子大学校を創設したのは、一九〇一年。

 以上のように、現在も知られている女子の高等教育はキリスト教の強いリーダーシップによって始められていった。

ハンセン病の施設とキリスト教

 ハンセン病(らい)の病院の設置もまた、明治になって外国のキリスト教の人たちによって始められている。

 一八八七年(明治二〇年)にカトリックの神父がハンセン病の女性が極貧の生活をしているのを見て、引き取りそこから出発してその二年後には、静岡県御殿場に病院が作られた。そ
の後も、東京、熊本、群馬など各地に、キリスト教宣教師たちがもとになってハンセン病の病院が造られて行った。

幼児教育とキリスト教

 また、小さい者への特別な愛は、幼稚園創設となって現れた。これは、ドイツのフレーベルという教育学者が、一八四〇年に世界で初めて設立したものである。今でこそ幼稚園などの幼児教育はごく普通となっているが、当時は、幼児を集めて教育する必要などは考えられなかった時代なのである。

 その名前は、フレーベルが植物についてとくに深い関心を持っていたために、キンダー・ガルテン(Kindergarten)と名付けた。キンダーとは、子供たちという意味で、ガルテンとは、英語のガーデン(garden)であり、植物が人の世話を受けて庭園で育つように、幼児の教育もそのようになっていくことを願って付けられている。

政治や社会問題とキリスト教

 ガンジーはインドを独立に導いた類まれな人であったが、彼がそのような大きい働きをしたのは、真理の力を信頼する非暴力の信念であった。ガンジーはその基本的な考えを学んだのは、新約聖書の「山上の垂訓」のおかげであったと語っている。彼が一九三五年以降に住んでいた住み家には、十数冊の本があったが、それにはインドの宗教書とともに新約聖書のヨハネ福音書が含まれていて、壁には、キリストの絵が掛けられ、文鎮には、「神は愛なり」が彫り込まれていたという。

 また、ガンジーは、「私が宗教に関心を持つようになったのは、ひとえにキリスト者たちのおかげであった。今後永久に彼らとの交わりを忘れないつもりでいる。それ以後は彼らとの交わり以上の喜ばしい交わりを経験することはできなかった。」とも言っている。

(「マハトマ・ガンジー」スタンレー・ジョーンズ著。なお、著者はアメリカの宣教師。日本にも来て、大きい影響を及ぼした。榎本保郎が始めたアシュラム運動もスタンレー・ジョーンズが始めたものであった。 

 アメリカで現在にいたるまで、最も深い印象を残している政治家は、リンカンであったが、彼は、神を信じるが故に奴隷解放宣言を出した。

 また、黒人の自由のために大きい働きをしたマルチン・ルーサーキング牧師はアメリカの黒人差別を撤廃させる運動の歴史においては、リンカンの奴隷解放宣言と並んで最も重要なものとなっている。

 このような、政治的にも大きい働きも、たどってみると、キリスト者、あるいは新約聖書がそのもとにあり、究極的にはキリストが動かしたと言える。

 また、日本の士農工商という身分差別や人権無視の考え方は、従来の日本の伝統でもあったが、そうしたまちがった考え方を撤廃させていったのが、ヨーロッパから伝わった考え方であり、その背後にキリスト教がある。

 アメリカ合衆国も、イギリスから渡ったピューリタンと言われるキリスト者たちがその出発点の精神を刻みつけた。

 一六二〇年、102名がメイフラワー号というわずか180トンの船に乗って、二カ月を超える困難をきわめた船旅の後に北アメリカの大西洋岸に着いた。上陸前に作ったのが、有名なメイフラワー契約であって、そこには、「神の栄光のため、キリストの信仰の増進のために」そこに住み着こうとしているのだということが記されている。こうした信仰をもとにして、一人一人が平等であり、尊重されるという考えがそこにあった。この考え方が、以後のアメリカ社会のなかに深く流れていくことになったが、こうした形で国家や社会の形成にもキリストが働いている例といえよう。

 人間の活動のあらゆる領域、すなわち音楽や美術、建築、文学、哲学、語学、福祉事業、教育、人間のあり方、学問一般などに及ぼしたキリスト教の影響ははかり知れないものがある。

 こうした絶大な影響力は、例えば世界的に日曜日を休むのは、じつはキリストの復活を記念する日から始まっているし、年号を数えるのもキリストが生まれたとされる年を基準にしていることにも現れている。この二つだけとってみても、世界中の人々がいまもキリストの大きい影響のもとに置かれているということができる。
 このように、復活したキリストはたんに個人の心の平安を与えるだけにとどまることは決してなく、国家社会に絶大な影響を及ぼし、人類の歴史に決定的な刻印を押し続けてきたのである。

共に歩まれるキリスト

 こうした比類のない影響を及ぼすことになったがゆえに、世界歴史での最大の出来事は、キリストの復活であるということができる。

 このような人類の歴史においても比類のない重大な出来事を知らせるのに、どんな方法を主イエスは用いたであろうか。

 ちょうどこの日(イエスが処刑されてから三日目)、二人の弟子が、エルサレムから十キロ余り離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。

 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。(ルカ福音書二十四・1316
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 それは、名も知られていないような二人の弟子たちの背後から、静かに近づいて語りかけるということであった。ルカが書いた福音書によれば初めてキリストがその復活の姿を現したのは、意外なことに、いつも従っていた十二人の弟子たちではなかった。主イエスが特別に選んだ十人余りの弟子、その人たちにこそ、まず最初に復活の大いなる出来事を知らせるだろうと予想されるところである。

 しかし、そうはならなかった。復活のキリストは、クレオパという人と、もう一人は聖書には全く名もあげられていない弟子に現れたのである。クレオパにしても、ほかの福音書や使徒たちの記録、使徒の書いた書簡などどこにも記されていない人物であった。

 名も知られないような人のところに、いつのまにか近づいて共に歩まれるイエス、それこそ、復活のキリストを象徴していると言えよう。

心の重い病から救われた女に

 このことは、ヨハネ福音書においても見ることができる。

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。

 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」

 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。

 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」

 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。(ラボニとは、「わが主」、とか「先生」という意味)

 復活したキリストと最初に出会ったマグダラのマリアとは、どういう女性であったのだろうか。この女性は、すべての福音書に現れる。

イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。

 七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、・・それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。(ルカ福音書8:1-3

 このように、マグダラのマリアは、その特質が一言で言われている。それは、七つの悪霊を追い出してもらった女性であったということである。霊というのは、本来、目には見えないもので り、数えることなどできない。それゆえに、ここで七つの悪霊と言われていることも、象徴的な意味であり、完全なとか徹底したというような意味があり、ここではこの女性が絶望的なまでに、精神の異常をきたしていたこと、もうだれもその状態をいやすことなど考えられないほどに人格が崩れていたことを暗示している。

 べつの聖書の箇所では、ある悪霊につかれた人の状態が記されているが、それはつぎのようである。

イエスが陸に上がられると、この町の者で、悪霊に取りつかれている男がやって来た。この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとしていた。・・

 この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足かせをはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた。(ルカ福音書八章より)

 このような記述から想定されることは、このマグダラのマリアという女性も周辺の人たちにも知られているようなきわめて異様な状態であったために、とくに七つの悪霊を追い出してもらった女性と言われているのだと考えられる。 

 このような絶望的な状態になっていた女性に、復活のキリストが初めて現れたということに、意味深いものがある。

 このことは、復活したキリストがとくに心を注いでおられるのが、このような苦しみから救われた人、弱い立場の人であるということを暗示している。

 マグダラのマリアは、復活したキリストが現れてもそれが、キリストだとわからなかった。ほんの数日前まですぐそばで主イエスに仕えていたにもかかわらず、そのキリストがそばにいて「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」と語りかけているのに、それがイエスだとはわからなかった。それは不可解なことである。

 それならいかにしてマグダラのマリアはこのように語りかけたお方が、復活したイエスであるとわかったのだろうか。それは、主イエスが、「マリア!」と彼女の名を呼んだときであった。

 その時、マリアは、イエスに向かって「ラボニ」(*)と呼んだ。

*)この言葉はアラム語で、ヘブル語の「ラビ」と同じ意味である。ラビとは、律法(神の言)を教える者であって、その元の言葉は「ラブ」である。これは、「大きい、偉大な、多い」という意味で、これは名詞としても使われる。その言葉に「私の」という意味の接尾語が付いたのが、「ラビ」という言葉である。これは、新約聖書の書かれた時代には、ユダヤ教の律法学者の公的な称号になっていた。

 イエスご自身は、人々からラビと呼ばれていたので、ここで、マリアが、イエスに向かって「ラボニ」と言ったことは、マリアが目の前にいて呼びかけたお方が、イエスであると悟ったことを意味しているのである。

 その一声によって、その直前までまったく信じてもいなかったし、目の前にイエスが復活してもわからなかったマリアが、イエスは復活したのだ、とはっきりとわかったのである。

 ここで、名前を呼ぶということは魂の深みに語りかけることを意味している。復活したイエスが私たちの心の深いところに個人的に呼びかけること、それによって私たちはキリストが今も生きて働いておられる、しかもどのような人間よりも深いところに呼びかけることのできるお方であると実感する。

 門番は羊飼い(キリスト)には門を開き、羊(キリスト者)はその声を聞く。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。

 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。

 わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞く。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。

 わたしの羊はわたしの声を聞く。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。(ヨハネ福音書十章より)

わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(ヨハネ十八・37

 このように、ヨハネ福音書では、多くの箇所で「キリストの声を聞く」という表現がある。キリスト者とは、復活したキリストの声を聞いてその声に従っていく者であるとされている。単にいるかいないかわからない者を信じているというのではない。現在も生きて働いておられる復活したキリストが私たち一人一人に語りかけておられる声に耳をすますこと、それがキリスト者の基本となっている。

 しかし、この世には、さまざまの声があふれている。それは、洪水のように、毎日テレビ、新聞、ラジオ、雑誌、インターネットなどという形によって押し寄せている。それらの声は多くの場合、人間を本当に正しい道に導くよりは、間違った道へ引っ張るものとなっているといえよう。だからこそ、そうした雑多な声があふれるにつれて、人間の心が荒廃していくのである。

 そうした人間の声にくらべるとまったく違った清さを持っているのが、自然の奏でる声である。風に吹かれる樹木の葉の音、谷川の水の音、小鳥のさえずりなどはさながら天からの響きのようである。

 しかし、自然は破壊されることがあるし、都会の人々には近づけないとか、病弱な人はそうした自然の豊かなところにも行けない。そしてそのこととも関連しているが、悩み苦しむ人を立ち上がらせ、導いていくことのためにはもとより不十分なものである。

 後の多くのキリスト者たちは、復活したキリストの個人的な呼びかけによって、どんな理屈や反論や攻撃をも超える確信を与えられていった。

 復活したキリストの実在は、いかに議論しても納得するものでもなく、またキリストが地上で生きていたときに、どんな奇跡やよい教えを聞いたからといって信じられるものでもなかった。
十二人の特別に選ばれた弟子たちも、主イエスが殺される前から、「自分は十字架につけられて三日目に復活する」と預言したにもかかわらず、まったく信じなかったことが記されている。

 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。

 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」

 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(マタイ福音書十六章より)

 これは、第一の弟子であったペテロですら、主イエスが十字架で殺されること、復活することなどをまったく有り得ないことだと思っていたのを示している。

敵対する人に・パウロの場合

 議論とか奇跡を見たとかではキリストの復活を信じることができず、個人的な語りかけによって初めてわかるということは、最大の使徒であったパウロの回心をみてもわかる。

 パウロは、ステパノというキリストの弟子を殺すことに加担していたことが記されている。ステパノが最後まで主イエスを見つめてまわりの人たちへの罪の赦しを祈りつつ息絶えたことも目の前で見ていた。しかしそのような実例を見てもなお、パウロはキリストの復活を全く信じることはなかったからこそ、つぎの箇所で見られるようにその直後も迫害を続けていたのである。

 サウロ(パウロのこと)は、ステパノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムにあるキリスト者の集まりに対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。

 しかし、信仰深い人々がステパノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。

 一方、サウロは家から家へと押し入ってキリストを信じる人たちの集まりを破壊しようとし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。(使徒行伝八章)

 このようなキリスト者への迫害に燃えていたパウロは、国外であるダマスコのキリスト者にまでその迫害の手を伸ばしていった。

 しかし、そこへいく途中の路上で天からの光がめぐり照らして、復活のキリストの一声によってパウロは、キリストの復活を信じて、それまでの考え方が根本からまちがっていたことに気付いたのであった。

・・(パウロが大祭司からの手紙をわざわざもらったのは)この道(キリスト教)に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。

 ところが、サウロ(パウロの以前の名)が旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。

 サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。

「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒行伝九章より)
>
 このようにして、パウロは復活のキリストに出会った。これは、いかなる人の説得や議論でもなかった。

 このパウロの回心ということは、復活したキリストが「サウル、サウル!」と語りかけたことが決定的となった。その点では、マグダラのマリアに対して復活したキリストが一声「マリア!」 と個人的に呼びかけただけで、マリアは、復活のキリストを認め、いっさいを悟ったのと共通している。

 キリスト教は、単なる教えではない。弟子たちは、いかにキリストがなさる大いなる奇跡を見ても復活は信じることはできなかった。そういう意味では、思索も伝統も、教えも、また不思議な現象を見ることもすべて、キリストの復活への確信にはならなかったと言えよう。

イエスから頂いたパンによって

 ルカの書いた福音書ではどうだろうか。

 ここでは、名の知れないような弟子(一人だけはクレオパとわかっている)に静かに現れたキリストが、復活したキリストであるとは、弟子たちはわからなかった。十キロを越える道を、いろいろと聖書のことを聞かされて歩いたがそれでもそのお方が復活したキリストであるとは、わからなかった。

 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

 すると、二人の目が開け、イエスだと分かった・・。(ルカ福音書二十四・2831より)

 ここでは、もし弟子たちが無理に引き留めなかったなら、復活のキリストは通り過ぎてしまい、弟子たちもそれがキリストだとはわからないままになっていたところであった。弟子たちは、ふしぎな力にひかれるように、その未知の人だと思われた人を無理に引き留めて、自分たちとともに留まることを求めた。そしてともに食事をするとき、イエスがパンを取って祈り、それを裂いて弟子たちに渡したときに二人の目が開けて初めてそれが復活のキリストであるとわかったというのである。

 これは不思議な記述である。数時間も歩きつつ、話を聞いてなお、イエスだとわからなかったのに、イエスがパンを裂いて渡したときに目が開かれて復活のキリストだとわかったというのは何を意味するのだろうか。

 少なくともそれは、イエスからのパンを頂いて初めてわかったということである。イエスはいのちのパンであるといわれている。ルカ福音書と同じ著者が書いた使徒行伝には、弟子たちが新しい力を受けたのは、みんなが集まって真剣な祈りを捧げていたときに、聖霊が注がれ、そのときから弟子たちもまったく別人のように変えられたことが記されている。

 このような記述から、私たちが復活のキリストがおられるということが本当にわかるのは、神(キリスト)からの賜物によってであること、それは聖霊であり、それを頂いてはじめて復活ということも本当に体得することだということである。

 そのために弟子たちがしたことは、「キリストに留まって頂くために、無理に引き留める」ということであった。

 私たちもまた、そのことが求められている。現在の私たちにとって、復活のキリストを引き留めるとは、個々の人の真剣な祈りであり、キリスト中心の集会である。「二人、三人が私の名によって集まるところには私もいる」(マタイ福音書十八・20)と主が言われたことは、この主を引き留めることは数人が主の名によって集まることによって、そして互いに祈り合うことによってなされるということを示している。

 日曜ごとの礼拝集会を軽視することは、たいていの場合、信仰の減退を伴うことはしばしば見られる。

キリスト教の土台としての復活

 以上のように、復活というのは、確かな事実として記されており、そこからキリスト教は宣べ伝えられるようになった。

 もしキリストが復活しなかったらキリスト教というものは消えていたのである。

 主イエスが十字架で処刑されるとき、民衆はみな、イエスを殺せとわめいて、重大犯罪人であったバラバという男を赦してもイエスは殺せというほどに生前のイエスは受け入れられなかった。

 その上、弟子たちもみんな逃げてしまったし、筆頭弟子のペテロはキリストにどこまでも従っていくどころか、三度もイエスなど知らないといって強く否定したこと、そしてその弟子たちは、自分たちも捕らえられるのでないかと恐れて、部屋にこもっていたという状態であった。

 わずかに少数の女性たちが最後まで十字架の近くで見守っていたという。

 もし、イエスの復活がなかったら、このままイエスの宗教は消滅していただろう。教祖が捕えられ、悪人として処刑され、弟子たちも逃げて、民衆も処刑に賛成したという状態からいかにしてそのようなイエスをもとにした宗教が存続していくことができようか。

 しかし、そのようなまったくイエスの宗教は断絶したと思われたただなかにキリストは復活された。そして恐れて隠れていたような弟子たちに聖霊が注がれ、まったく人が変わったようになってペテロたちは、キリストの復活を証言しはじめた。それがキリスト教が広く世界に伝えられていく始まりでもあった。

 主イエスが地上に生きておられたときには、「私はイスラエルの失われた人以外には遣わされていない」と言われ、その働きを限定されていた。復活によってそれが無制限に世界に宣べ伝えられるようになったということができる。

 パウロもすでに述べたように、復活のキリストがなかったら、回心もしておらず、キリストの伝道にも加わっていなかったのである。

 復活とは、キリストが死というあらゆるものを飲み込んでしまう力に勝利したということであり、そこに希望の源泉もある。

 キリスト教で復活と並んで重要なことがある。それはキリストの十字架による死である。その死は、キリストが、人類の罪を担って死んで下さったということであり、それを信じる者は、罪の赦しを受けて新しい命を与えられるということである。

 しかし、このことは、もしキリストが復活しなかったのなら、有り得ない。復活できないキリストなら、死というものに飲み込まれたのであり、キリストを殺した人たちの悪意によって滅ぼされたことであり、それは結局、悪が勝利したということである。

 もしそうであれば、悪そのものである罪の力が打ち破られるということもまた有り得ないことになる。

 しかし、復活したゆえに、あらゆる悪の力、死の力に勝利することを証明したことになった。だからこそ、十字架の死も敗北や滅び去ったことでなく、それは罪をそこで滅ぼしたしるしともなったのである。

 このような点から、使徒たちの最初の宣教は、つぎのように復活の証言から始まった。

あなたがたは、(イエスを)十字架につけて殺してしまった。しかし、神はこのイエスを復活させられた。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからである。

 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。(使徒行伝二章より)

 パウロも聖霊によって送り出されて小アジア(現在のトルコ地方)での初めての宣教においてどのように語っただろうか。

こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬った。しかし、神はイエスを死者の中から復活させて下さったのである。

このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現された。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっている。わたしたちも、あなたがたに福音を告げ知らせている。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのである。(使徒行伝十三章より)

 このように述べて復活こそが、福音の原点であることを明言している。この後、パウロは、復活したからこそ、旧約聖書でも預言されている通りのメシアであり、イエスの死は、それによって罪の赦しを与えるものであったことを続いて証言している。

 神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのである。

 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのである。(使徒行伝十三章より)

 このようにパウロも復活を土台としてキリストによる罪の赦しの福音を述べているのがわかる。それゆえ復活がなければ、十字架による罪の赦しもまた有り得ない。キリスト教とは、たんにイエスの生前の教えとか奇跡などで成っているのではない。

 それはキリストが復活したこと、そこから十字架による罪の赦しが与えられ、それを信じて実感するところにある。キリストが復活していまも神と同じ存在として生きておられるからこそ、パウロにも現れたのであった。パウロは、生前のイエスには会っていなかったと考えられる。それは聖書にもそのようなことを暗示する箇所がまったくないからである。

 そのパウロをキリスト教の迫害者から百八十度転換させたのは、人の説得でも書物でもなかった。それは、復活したイエスからの直接の呼びかけであった。だから、パウロも復活のキリストがいないキリスト教などというのは考えられないのは当然であった。

 こうした観点から、キリスト教の福音として最も重要なことは何であるか、それについて、パウロはこう述べている。

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものである。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと・・(コリント 十五・34より)

 パウロがつぎのように、強い調子で復活が不可欠だと主張しているのも彼自身の経験に基づくものであった。

 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄である。

 更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされる。なぜなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからである。・・キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになる。

 そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々(死んだ人々)も滅んでしまったのである。

 この世の生活で(死んで滅びてしまった)キリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最もみじめな者である。(コリント 十五章より)

 復活によってキリストはイスラエルという地上のきわめて狭い領域でだけ働くのでなく、全世界のどんな場所においても働く神と同質のお方となった。それによって確かに以後の二千年という長い間、無数の人々はその復活したキリストに出会い、救いを与えられ、その復活のキリストの声を聞いて導かれてきたのである。

 復活ということは、肉体の死からの復活だけではない。新約聖書においては、人間が永遠の真実な実在であり、愛そのものであるお方(神)に背を向けている状態は、当然不信実で、自分中心の生き方であるゆえに、それはいわば死んだ状態だとしている。パウロ自身、「死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるのか!」(ロマ七・24)と叫んでいるが、そうした死んだも同然のものを救うために来て下さったのがキリストであると悟ったのがパウロであった。

 真実そのものである神に背いている状態は死んだも同然という見方は、べつの福音書にも見られる。

 それは放蕩息子のたとえとして有名なものである。

 一人の息子が父親がまだ生きているうちから親の財産の分け前をもらって、遊びに出て、放蕩のかぎりを尽くした。そして長い苦しみののちにようやく自分が真実な父に背いてきたことに目が開かれ帰ってきた。それを見て、父親は、「一番よい服を着せ、肥えた子牛を持ってきなさい。食べて祝おう。この息子は死んでいたのに、生き返ったからだ。」(ルカ福音書十五章より)

 このように悔い改め、すなわち父なる神に立ち帰ることが、死から命への転換であり、万人が神への方向転換をするためにキリストは十字架で死なれた。

 現在の私たちが新しく生まれ変わって、日々生きていくことができるかどうか、それはまさにキリストの復活によっている。それはつぎの言葉にも現れている。

神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて、生き生きとした希望をいだかせ・・(ペテロ 一・3

 キリスト者がこの地上での生活において、新しく生まれ変わり、生きた希望を与えてくれるのは、キリストの復活があったゆえであると言われている。

 このようにキリストの復活は、それがなかったらキリスト教なるものも存在せず、キリスト教が世界に伝わることもなかったし、したがってキリストの復活がなかったら世界の歴史はまったく異なるものとなっていただろう。

 このような意味で、世界史の最大の出来事は、まさにキリストの復活であった。

 今日では日曜日を世界的に休む日となっているのも、もとはキリストの復活が日曜日であったからである。金曜日に殺され、三日目、すなわち日曜日に復活したからこそ、その日曜日を「主の日」として集まるようになった。主の日という言葉は、黙示録に現れるが、それ以後のキリスト教の文献に見られるようになる。

 旧約聖書以来の土曜日を安息日として休むその精神と、キリストの復活を記念する日曜日の精神が合わさって、週に一度、日曜日に仕事を休んで、キリストの復活を記念し、礼拝を捧げるのが日曜日となった。

 しかし、日曜日のこの意味を日本人はほとんどの人が知らないままで今日に至っている。これは、この日曜日に休む制度を取り入れた明治政府が、一八七三年(明治六年)までは、江戸幕府と同様に、厳しくキリスト教を邪教として迫害していたのであって、そのようなキリスト教の根本制度を取り入れるにあたっても、人々に日曜日の意義を知らせることをしなかったので、それが現在にいたるまで、日曜日の意義についてなにも知らないという状態を作り出してしまったのである。

 聖書においても、復活の重要性ははっきりと記されている。多くの人は、キリスト教で最も重要な行事はクリスマスだと思っている。しかし、聖書を見ればわかる通り、クリスマスの記事、イエスの誕生の記事よりもはるかに復活に関係した記述が多く、かつ詳しいのである。クリスマスの記事は、マタイ福音書とルカ福音書の二つだけである。

 しかしすでに述べたように、使徒たちのはたらきをくわしく述べた使徒行伝においては、その最初に、復活のキリストが弟子たちに命じた言葉が記されているし、復活のキリストのべつのあらわれである、聖霊のはたらきを中心に記されている。

 ペテロや、パウロも復活の証言をその伝道の中心においたし、彼らの経験の出発点でもあった。

 それゆえ、使徒パウロの書いた手紙のうち最も重要なローマの信徒への手紙、コリントの信徒への手紙、ガラテヤ書、エペソ書、ピリピ 書、コロサイ書などにもすべて復活の重要性が記されている。

 復活があるからこそ、信じる者はいつまでもすたれることのない希望を持つことができる。信仰と希望と愛とはいつまでも続くとパウロは言った。この三つはいずれも復活とかたく結びついている。キリストの復活を信じる信仰、そこから、キリストは神の子であり、その十字架の死により、私たちの罪が赦されたという信仰も生じ、どんなことがあっても、たとえ死ぬことがあっても、復活があるのだからという強固な希望となり、それは、神の愛ゆえにそのようにして下さるということである。そして最終的に私たちは神の清い愛の満ちた神の国へと招き入れられるのである。

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