025-01-5-6
靖国神社はなぜ問題になるのか

 靖国問題とはなにか、どうして靖国神社に首相などが公式に参拝すると問題があるのか、多くの人にとってはよくわからない問題だと思われる。外務省に不正な金の使用があるといったことは、だれでもすぐにその大体の意味がわかる。こまかなことでなくとも、おおよそのイメージが浮かぶ。不況だから経済のかじとりが重要であるとか、国が莫大な借金を持っているから改革せねばいけないなどという主張も、だいたいはわかる。
 しかし、なぜ戦没者を祭ってある靖国神社に首相が公式参拝するといけないのか、その理由についてあまりよくこの問題について聞いたことのない人のために書いてみる。

 靖国神社とは、一八七九年六月四日に東京招魂社を改革して、靖国神社と改称したもので、一八五三年以来の国事殉難者、戊辰戦争(ぼしん)の戦没者に加え、西南戦争の戦死者をはじめ、以後日本の対外戦争における戦死者を「靖国の神」となして国家がまつった神社である。
 靖国神社は、戦死者を国のために犠牲になったものとして「靖国の神」とし、肉親を失ったことへの悲しみや国家への怒りなどをしずめ、戦死者の遺族には、肉親が「靖国の神」となることによって「靖国の家」という優越感を抱き、誇りとするむきもあった。こうして、戦争を引き起こした責任者である天皇や政治家、軍部への怒りが打ち消されて、逆に靖国に現人神である天皇が参拝してくれるのだ、感謝するべきなのだなどという、逆の感情をすら育成する施設となった。これは日本の軍国主義が考え出した巧妙な施設なのであった。
 靖国神社とは、数百万という膨大な人間を「祭神」としている、ほかには類のない神社なのである。これが政治的な大きい問題となるのは、そこにひそかにA級戦犯十四人(東条英機、広田弘毅、板垣征四郎ら)が一九七八年に、ほかの人たちとともに一緒に「神」として祭られたからである。
 こうした太平洋戦争での最高責任者たちが、英霊として、神として祭られている神社に、国の代表者である首相が公式に参拝することは、あの戦争がまちがった戦争であるということを、認めないということになる。
 英霊とは、本来の言葉の意味は「すぐれた霊(魂)」ということである。アジア、とくに中国のおびただしい人たちの命を失わせ、傷つけてその生活を破壊した侵略戦争を指揮した人たちが「すぐれた霊」であるというのは明らかに、間違ったことである。
 そうした過去の侵略戦争への反省と悔い改めがあるのかということと関連しているが、もう一つは、憲法二十条の「国およびその機関は宗教活動をしてはならない」ということに違反するという問題である。
 なぜ、このような憲法の規定が生まれたのだろうか。それは、戦前には、天皇が軍隊の最高指揮者でもあり、現人神として崇拝され、その天皇への忠誠を利用して国民を戦争に駆りたてたことへの反省から生まれた。
 戦前は、教育勅語への礼拝、皇居への礼拝、神社への参拝、祈願などを国やその機関、とくに教育の場においても強制した。そのことが中国との戦争や太平洋戦争などへと駆り立てていく力ともなったために、国が特定の宗教を国家権力とともに用いて国民を引っ張っていくことを禁じたものであった。
 首相として公式に参拝するということは、日本国民の代表者として参拝することであり、太平洋戦争を引き起こした人たち、彼らは無数の人たちが殺戮されたことへの重い責任を持つのであるのに、その人たちの霊を慰め、感謝するということになる。それは、日本の国がそのような姿勢を持つということにもなってしまう。
 また、そもそも政府や軍部によって戦地へと引き立てられ、なんの罪もないアジアの人たちを殺し、もともと全く知らないはるか遠くにいた人である、アメリカなど外国の人たちも殺傷し、自分たちも多くが死んだり傷ついた、そのような事態にどうしてなったのか、それは国のほんのひとにぎりの人たちの会議で戦争が決まってしまったからである。戦死者の霊をもし慰めるというのなら、過去の過ちを認め、そのような戦争が二度と生じないようにすることこそ、ふさわしいことである。
 さまざまの政治的な打算とか思惑をもって、政治家が靖国神社に参拝したところで、どうして戦死した人たちの霊が慰められるなどということがあろうか。
 また、そもそも参拝によって死者の霊が慰められるというのは、まったく根拠のないことでもある。そこには、死者というのは、恨み、苦しんでいるということが仮定されている。しかし、死んだ人間がいまも恨んでいるとか苦しんでいるなどと、どこに根拠があるのか、それはまったく根拠のない思いこみにすぎない。
 なぜ、あんな戦争が生じたのか、その反省も悔い改めもしないで、たんに参拝したところで、もし、死者に意識があるとしても、そんな浅い考えで参拝する者を喜ぶこともないであろう。
 そんな根拠なき想像でことをするのでなく、明確なことは、戦争があのように膨大な死者を生みだしたということであり、そのような戦争を二度としないあらゆる方策をとるべきことである。そしてそのためにこそ、憲法第九条が作られたのであり、その精神を守ることこそ、戦死者の死を無駄にしない最も確実なことである。
 キリスト教においては、死者の霊のために祈ったり、死者の霊を慰めるということは、新約聖書には現れない。励ましとか愛は、生きている者に対してなされるべきものだということははっきりとしている。
 死者は神の御手に委ねられたのであって、どのような死に方をしようとも、神の御心にしたがって生きた者は、神のもとに帰って大いなる祝福を与えられているし、神に背き続けた者(真実や憐れみを持とうとせずに偽りや悪意をもち続けた者など)は、生きている時からすでに真の平安をもてないというさばきを受けるのであるが、死後もそうした裁きの続きを受けることになるであろう。
 また、靖国神社は、自民党政治家が、選挙のときに票を獲得するための手段としても用いられてきた。靖国神社には二五〇万人余りの人がまつられていて、その遺族たちは日本遺族会を作っている。その会員がおよそ百万人ほどいる。この日本遺族会は、選挙のときには重要な票を集める組織と変貌する。
 そのために靖国神社に参拝する議員たちがぞろぞろと合同で参拝したりするのである。それはマスコミを通じて自分たちは靖国に参拝しているのだと報道させることで、日本遺族会などの支持を得ようとする意図がある。もし本当に死者への哀悼の気持ちを参拝によって表したいのなら、朝早く行って個人的に静かに参拝すればよいのである。
 戦死者がもし、口があるなら、自分たちの死をそのように利用するなと叫ぶであろう。彼らは、若くして悲惨な侵略のための戦争に聖戦だと偽り称して駆り立てられ、死んでいったのであるからだ。
 こうしたさまざまの問題が靖国神社問題にはつきまとっている。過去の戦争の反省、平和憲法との関わり、自民党政治の選挙の道具、死者をどうみるかの宗教問題などなどである。
 靖国神社問題は国民を間違った方向へと向けようとする動きである。戦争を引き起こしたことへの悔い改めをせず、戦死した人を神々として英霊としてまつるということが、戦争の反省とは逆の方向へと引っ張っていく力になりかねない。戦死すると天皇や大臣などが参拝するほどの、偉い存在になるのだ、などという受けとめ方になり、戦死がきれいなこと、よいことと感じさせ、そこから戦争そのものの悪魔性をあいまいにさせてしまうことになるのである。

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