リストボタン休憩室  2001/6

○ビワ 六月の果物のなかで昔から日本になじみが深いのが、ビワです。私たちの集会場の庭にあるビワも実を多くつけています。日本では、ただビワの実を食べるためだけの樹木として見られているし、その葉が大きいので嫌がられることも多いようです。
 しかし、私の手元にあるアメリカ発行のある園芸図鑑を見ますと、ビワの園芸樹としての特質を次のような一言で説明してあります。
「立派な(美しい)葉をもった、常緑の木」(an evergreen tree with handsome foliage. なお、handsome という語は、普通に知られている美しいという意味の他に、堂々とした、立派なという意味があります。)
 またその用途としても「その装飾的な葉のゆえに、ほかの木とは隔離して用いられる。または温かい地方では果樹として」用いられると説明してあります。
 このような記述からわかるのは、ビワはアメリカなどでは、その立派な(美しい)葉が主たる目的で用いられるということなのです。
 ビワの木をこうした目的で植えるなどということは日本では聞いたことがありません。ましてビワの葉を立派とか堂々として美しいというようなニュアンスでは決して見ないのです。むしろ逆にその常緑の大きい葉が日陰を造るので嫌われることが多いのです。 
 同じ一つの植物であっても、いかに異なる受け入れ方があるかを知らされます。
 一つの物事も同様で、ある人によっては全く違ったように受け取られることがあります。
 ある習慣とか伝統も他国では、まったくなされないこともよくあります。
 しかし、キリストの真理は、どんな風俗や習慣の人にも、またどんなに伝統や生活が違っている人にもそのままで全世界共通に通用するということは、驚くべきことです。人間にはじつに多様な性格や習慣があるのに、そうしたあらゆる伝統、習慣を越えて共通して伝わるものがある、それがキリスト教の真理だと思われます。

○六月の野草
 ・野山に咲く野草のうちでは、私にとってとくにウツボグサとオカトラノオが身近なものです。ウツボグサは、その青紫色の美しい花がその素朴な姿とともにだれにでも心に残る野草と思われます。咲けば心安らぐような美しい花ですが、それが終わって花が枯れるとその花穂(かすい)が、茶褐色となり、それ全体がその方面ではよく知られている薬草となります。それは夏に枯れる草という意味で夏枯草(かこそう)と言われます。
 薬草というと、たいてい根や葉が多いのですが、このように花の終わった後の枯れたものが用いられるというのは少ないように思われます。
 オカトラノオは純白の花が、トラノオのように美しい花穂となって次々に咲いていく花です。これも見つければ誰もが心に残る花だといえます。
 こうした花を山野で見つけると、神の国の静けさや美しさ、あるいは清さなどをしのばせてくれるものです。

○ホトトギス
 五月の終わりから六月にかけて、わが家の裏山で、ホトトギスの印象的な鳴き声(キョッキョ・キョキョキョ)がよく聞こえてきました。小さな谷を越えて朝や夕方、そして時には夜でもその強い鳴き声は響いてきたものです。鳥には多くの種類があり、さえずり、鳴き声はいろいろですが、ホトトギスはとりわけ心になにかを訴えようとしているような力を感じます。
 ホトトギスは、万葉集、古今和歌集、源氏物語、枕草子などにも取り上げられ、古くから特別な鳴き声が多くの人の心を引きつけてきたのがうかがえます。
 近代においても、徳富蘆花の有名な長編小説「不如帰」(ホトトギス)の題名にも使われ、正岡子規が援助して創刊され、高浜虚子が継承した日本の俳句誌として広く知られている「ホトトギス」にもその名が用いられています。

返舟だより

○祈りによる支え
 高齢であって、しかも以前に大きい病気をしてきた方が、最近入院され、一時は重い症状となって案じられましたが、最近退院されました。その方からの来信です。
「地上の命を延ばして下さった聖心を神様のご用と祈りで過ごしていきたいと願っております。
 この度の病床で一番感じたのは、多くの主にある兄姉の方々の祈りに励まされたことで、祈りの大切なことを知らされました。」

 病の苦しいときに、私たちは医者と身近な家族に頼ります。薬にも頼ることが多くなります。しかし、心の奥深いところでの支えはそうしたものでは与えられないのです。病気の痛みや不安は何ものも埋めることのできない闇ができることです。
 そのような闇に光を与え、支えてくれるのは神であり、主イエスです。そしてその主イエスのお心を具体的に現している同じ信仰の友の祈りです。祈って下さっているという実感によって、自分は苦しくて祈れないけれども、友人のとりなしの祈りによって不思議な安心が与えられたことを私も記憶しています。

 また、近畿地方のはこ舟読者の方からはつぎのような来信がありました。
「想像もしなかった苦難の日々でしたが、これも皆様がたの温かいお祈りと御支え、そして学びなどを通して、まず私がいつも主に結び合わされて支えられ、一歩一歩、歩んでこれましたこと、感謝いっぱいです。
 まだまだ、さまざまの試練がありますが、・激D放さず、見捨てず、共に歩んで下さる主・を泣cいで祈り続けてまいります。」

 自分の祈りが不確かなものに感じられるとき、他者の祈りにいっそうの確かさを感じることが多いものです。自分が非常な悩みとか苦しみにあるときには、十分に祈れない、祈りの気持ちになれないことすらあります。ただ叫ぶだけしかできない状態にもなります。しかし、そのような時でも、同じキリストにつながる人が祈ってくれているという実感があるときには、大きい支えになります。
 キリストを信じる人はキリストのからだである、一つのからだであると言われました。これは決して言葉だけのことではありません。苦しみをともに苦しんで下さっている人がいるということで、その祈りが伝わってくることから、実際に一つの体なのだ、と実感するのです。

○「今日のみ言葉」への来信から
 何時も今日のみ言葉を有り難うございます。主人の方から社員にメールで送らせていただいております。聖書に接した事のなかった人々に、聖書の言葉を、眼にしていただくだけでも、意味のある事と、感謝申し上げております。
 今回の、"今日のみ言葉"「立ち帰って」の箇所は、矢内原忠雄先生が、特愛の箇所と聞きました。先生の最期のご病室にはこの聖句が書かれていたと、聞いたように記憶しております。 戦時中も戦後も先生の心の中にしっかり置かれた聖句であると思いますし、今生きる私にも、「立ち帰って、静かに」「安らかに信頼して」と、平安と慰めと力を与えられる「み言葉」でございます。(東北地方の方から 「今日のみ言葉」への返信より)
・ここで触れられている「今日のみ言葉」は、一か月に数回希望の人にインターネットメールでお届けしているものです。聖書の言葉と、その英語訳、そしてその聖句への簡単なコメント、それに私が撮影した植物などの写真を添付しています。ご希望の方は、つぎのアドレスに申込していただければ、お届けします。(費用は不要です。)
 typistis@m10.alpha-net.ne.jp (なお、このアドレスのうち、TY は私の名前より、pistis とはギリシャ語で「信仰」という意味です。)
 現在は、私からは九十名ほどに送っていますが、受け取った方の中にはここに返信をあげた方のご夫君のように、経営している会社の社員にそれを転送されている人、また自分の出している定期的なメールなどに転載して用いておられる方、あるいは個人的に知人、友人に転送しているとの連絡を頂いた方、印刷して別の人に手渡す人などもいます。
 神の言こそ、過去から現代にいたるいかなる時代の混乱や闇にも光と命を与える唯一のものであり、インターネットという新しい手段を神が用いて下さることを祈っています。

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