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人生の詩  ロングフェロー   2001-6-4

未来をあてにするな、それがいかに快いものであっても!
死にたる過去にはその死にたる者を葬らしめよ!
行動せよ、生きている今、行動せよ!
内に勇気を持ち、高きにいます神を仰ぎつつ!

偉大な人々の生涯は教える、
われらも生涯を気高くして、
この世を去る時、時間の砂浜に
足跡を残していけることを。
その足跡を、おそらくは他の人が、
生涯のうちで厳粛な大海原に船を進めているとき、
孤独な、絶望的になった人たちが、
目にとめて、勇気を奮い起こすこともあろう。

だから私たちは、奮起して励もう、
どのような運命にも勇気をもって。
絶えず成し遂げ、絶えず追い求めつつ、
学ぼう、働くこと、そして待つことを。

ロングフェロー(一八〇七〜八二)は、アメリカの詩人の中では、世界で最も愛された詩人であったと言われている。母校の大学で六年、ハーバード大学教授を十八年勤めたが、詩を生み出すためには、教授の職が妨げとなることを知って、退職して創作に専念した。ヨーロッパ留学中に最初の妻を失い、その後、再婚した二度目の妻も、火傷で失った。そうした心の傷を受けつつも、ダンテの神曲の英語訳を完成した。ここにあげた「人生の詩」は、一八八二年に日本でも訳され、英語の教科書にもよく採用された。
 なお、私は彼の長編詩「エヴァンジェリン」を三〇年余り前に岩波文庫で読んで、その自然描写の美しさが今も心に残っている。

 私たちは学校教育のなかで、ヨーロッパやアメリカの詩などを学ぶ機会はほとんどなかった。ロングフェローとか言ってもたいていの日本人は知らないのではないかと思います。
 ここにあげた詩は、彼の「人生の詩」の後半部です。これはキリスト教的な内容を持っていて、わかりやすい内容となっています。
 冒頭の言葉、「未来を当てにするな、それがいかに快いものであっても」という言葉は、未来はいっさい信じるなということではありません。
 現在のなすべきことをしようとしないで、いたずらに来るかどうかわからない将来の楽しげなことを思い浮かべて、それを当てにしている人への警告となっています。
 私たちが与えられている三つの時間、過去(Past)、現在(Present)、未来(Future)を取り上げ、それぞれを詩人は末尾の原文でわかるように大文字で書いて、比較対照させています。人間はどうしようもない過去にとらわれ、また実現する何の根拠もない未来を勝手に都合のよいように作り上げてそれに期待し、肝心の現在をおろそかにすることを、この詩は強く警告しているのです。
 人間の都合のよい未来を当てにするのでなく、未来をも神が最終的に最善になされるという信仰はキリスト教信仰の根本をなすことの一つです。
 
「死んだ過去は、死んだ者に葬らせよ」という言葉は、主イエスの、

私に従え。死せる者たちに、自分たちの死者を葬らせよ。(マタイ福音書八・22)

という言葉を用いています。過去のことにとらわれて、自分の過去の失敗とか罪を見つめて苦しんでいても、そこからはよいものは生じない。また、過去のよき時代をいたずらに懐かしがっていてはなんの益にもならない。
 私たちの「死んだ過去」、罪というものを最も根本的に葬ってくれたものは、キリストの十字架であったのです。十字架で私たちの死んだ過去が葬られたと信じるときに、私たちは実際にそうした過去からの自由を感じるからです。
 現在を歩むこと、それもこの世の見せかけばかりの風潮に押し流されるのでなく、変わることのない真理、主イエスに従って前を見つめて進むことがここで言われています。
 今できることを為せ、というのがこの詩のつぎに言われていることです。主イエスに従っていくなら、おのずから為すべきことが示されるものです。

心に勇気(heart)をもって、高きにいます神を仰ぎつつ

 この言葉は、私たちの内に主イエスが住んで下さるようになるなら、実現することです。私たちが主イエスを受け入れるとき、キリストは私たちの内に住んで下さると記されています。キリストは神の力であるゆえに、キリストが内にいるとき私たちは絶えず新しい心とされ、前向きの心を持ち続けることができます。
主イエスも、つぎのように言われています。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書十六・33)

 心の中に上よりの力を実感すること、それがなければ前進していこうとする気力は出てきません。内なるキリストを実感しつつ、あらゆるこの世の汚れに染まずにおられる神を仰ぎつつ歩むこと、それがキリスト者に与えられた大きい恵みだと言えます。
 つぎにそのように生きるとき、私たちは時間という砂浜に足跡を残していくことになり、それは神によって用いられ、後から続く人々に励ましと力を与えることになるわけです。実際私たちは過去の信仰に生きた人たちのことを聞いたり、書物で読んだりして、多くの人が励まされ、新しい生き方を見いだして歩き始めたということは実に多いのです。
 私も書物によって、そのときにはすでにこの世にはいなかった人の足跡を見いだして、そこから大きい励ましと導きを与えられたことが多くあります。
 聖書という膨大な書物は、アブラハム、モーセ、ダビデ、預言者、使徒たちなど、「心に勇気を持って、高きにいます神を見つめて」歩んだ人々の足跡の集大成でもあります。 
 この詩の最後が「待つ(wait)」という言葉で終わっていることも、心に残ります。たしかに私たちの最後の試練は待つことができるかどうかだといえます。
 私たちの家族から始まる身近な人たちの問題を神が最善にしてくださることを信じて待つ、キリストが再び来られることを待つ、神が最終的に悪を滅ぼされることを待つ、病の耐え難い苦しみのときにも、復活の朝を待ち続ける・中ヲ。
 聖書の世界で「待つ」とか「忍耐」というとき、それは単に希望なくして時間の流れるのをいたずらに待っているのではないのです。それは、神が必ず最後にはすべてを最善にして下さるという壊れることのない希望をもって生きることです。
 忍耐と待つと言う言葉はそのまま、神と結びついた希望に他ならないのであって、「信仰と希望と(神の)愛」はいつまでも続くと聖書にある通りです。
 聖書の最後の言葉が、「主よ、来て下さい!」という言葉であり、不屈の希望をもって待ち続ける姿勢を表していることも意味深いものがあります。


Trust no Future, howe'er pleasant!
Let the dead Past bury its dead !
Act, - act in the living Present !
Heart(*) within, and God o'erhead !

Lives of great men all remind us
We can make our lives sublime,
And, departing, Ieave behind us,
Footprints on the sands of time ;
Footprints, that perhaps another,
Sailing o'er life's solemn main,
A forlorn and shipwrecked brother,
Seeing, shall take heart again.

Let us, then, be up and doing,
With a heart for any fate ;
Still achieving, still pursuing,
Learn to labor and to wait.

(*)heart というと、たいていの人は「心」という意味を思い浮かべますが、
この言葉には「勇気」という意味もあります。
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