伝統とそれを超えるもの(教科書問題 二)    2001-7-3

 多くの問題点を持ちながら文部科学省の検定を合格した「新しい歴史教科書」の問題点はいろいろあるが、ここではとくに日本の伝統と文化を強調していることの問題点をあげたい。
 この教科書では、最初のカラーグラビアに縄文時代の土器や、半分以上を占める仏教関係の内容がある。そこですぐに気付くのは、つぎのような記述である。
「それらの形は、世界美術の中でも類例のないものである。」
「飛鳥時代は、ギリシャの初期美術に相当するといってよい」
「興福寺の・中ヲなどはイタリアのドナテルロや、ミケランジェロに匹敵するほどである。」
鎌倉時代の項には、「十七世紀ヨーロッパのバロック美術にも匹敵する表現力を持っている」
 これらを見てすぐにわかるのは、何かというと、ヨーロッパの○○に匹敵するとか、相当するなどという言葉を使うことである。自分よりずっと能力のある人物に向かって、自分はその人に匹敵
する、相当するのだと一生懸命に背伸びして言い聞かせようとしているかのような雰囲気がある。
 この最初のグラビアの書き方でもうかがえるが、この教科書の底に流れている考えは、日本はこんなに立派なのだ、日本の伝統はこんなに優れているのだ、日本は悪くないのだ・中ヲという自画自賛である。
 もし、ある人間が、自分はこんなによいのだ、自分は○○の有名な人と匹敵するのだ、などと繰り返し言っていたらどうだろうか。そして自分のかつての罪や失敗、欠点を極力伏せて、なかったことにすらして自分の自慢話ばかり言っていたらそのような幼い状態、狭い心では相手にされないだろう。
 そしてこの教科書の最後には、つぎのように書いてある。
「日本人が外国の文化から学ぶことにいかに熱心で、謙虚な民族であるかということに気がついたであろう。外国の進んだ文化を理解するために、どんな努力もしてきた民族であった。」ここでも、やはり自画自賛である。
「・中ヲそれでも(日本は)自分の国の歴史に自信を失うということがずっと起こらない国であった。・中ヲところがここ半世紀は必ずしもそうとはいえない時代になってきた。なぜ・中ヲ自国の歴史に自信を失わないできた日本が、最近そうでなく、ときどき不安なようすをみせるようになったのだろうか。・中ヲ」と述べて、その理由として「外国の文明に追いつけ、追い越せとがんばっているときには、目標がはっきりしていて、不安がない。・中ヲところが今は、どの外国も目標にできない。日本人が自分の歩みに突然不安になってきた理由は、たしかに一つはここにある。・中ヲ
 本当は今は、理想や模範にする外国がもうないので、日本人は自分の足でしっかりと立たなくてはいけない時代なのだが、残念ながら戦争に敗北した傷跡がまだ癒えない。 ・中ヲ何よりも大切なのは、自分を持つことである。」
 この教科書は、自信を持つとか、自分の足で立つということを、日本は優秀だ、日本は悪いことをしていないなどと、自らの弱さや、罪を見つめることをしないで、自分で自分を誉めて、日本はこんなに偉大なのだ、などと思いこませようとしている。
 最近日本人が自分の歩みに突然不安になってきた、という。しかし、戦前はどうだっただろう。自分の歩みに不安であったからこそ、国民をあざむき、アジアの無数の人たちの犠牲を生みだすことになった戦争を始めたのである。
 また、江戸時代にしても、キリスト教迫害のためにわざわざ、鎖国をしてオランダ、中国だけに限って、それ以外とは通商や来航も禁止してしまった。しかも、その二国とも、長崎一港だけに限ってのことであった。これは、著しい国家的不安からの政策である。それ以前においても、戦国時代といって、長い混乱の時代が百年も続いた。この時代に一般の民衆は到底自分の国に自信を持つなどという判断を持てなかっただろう。生活に必死にならねばならないのであり、多くの戦乱で生活が踏みにじられる人たちも多かったからである。
 なにもこの教科書の著者が言っているように、一般の民衆が自分の国に不安を感じるのは、今に始まったことでない。いつの時代にも食物も十分でなく、病気になっても医者にもかかれず、そもそも外国のことなど、ほとんどわからないのが普通であった。
 日本においても、せいぜい外国といっても、大多数の民衆にとっては、朝鮮半島や中国のことがごくわずか知られている程度であったろう。文字もわからず、新聞やラジオもなく、教育もない時代であれば当然であり、生きていくだけでも、たいへんであったのであり、一般の人々にとっては、自分の国は他の国と比べて立派なのだとか考えることもできなかったわけである。
 個々の人間やその集まりから成る国家の不安、それは、自分の優秀性を知らないからでない。自信を持たないからではない。
 それは確固不動の真理を知らないところから来る。永遠の真理を知った者は、いたずらに自分はこんなに優秀だなどと繰り返し言い聞かせる必要もなくなる。逆に、自分の弱さや欠点を深く知り、その上で、人間を超えた力を持っておられる存在である神からの力と導きを受けようとする。その上で自分に与えられた役割を知って果たそうとする。
 こうした基本的な考えは、個人と国家であっても同様に成り立つ。個人にとって、真理であることは、その個人の集合体である国家、社会にとっても同様に成り立つというのは、聖書の一貫した主張である。

正義は国を高め、罪は民の恥となる。(箴言十四・34)

 この聖書の言葉は、国を偉大なものとするのは、自信を持つとか、伝統を重んじるとかでなく、正義だと言っているのである。そこに住む人々、指導的人物たちが、何が正しいことかを知り、それを実行していくところに、国が高められる道があると指摘しているのである。
 伝統と文化というが、伝統にもいろいろある。人間にしても、昔からの伝統を守って、女は汚れていると見なすのがよいのか、また部落民とか障害者を差別して見下すのが従来からの長い伝統であったが、そんなことをしてよいのか、女性には教育させないというのが、日本の伝統ではなかったのか、女性は名前すら与えられない、金や権力のある男は何人の妻を持とうとも当然とされていたのも、日本の伝統的考えであった。人間は休みなく働かせる、それが日本の伝統ではなかっただろうか。死んだ者は汚れているという伝統的な考えが残っているが、それは全く根拠のない迷信にすぎない。
 このように、昔からの伝統、文化を重んじるということをそのまま採用するなら、例えば、大相撲の土俵に女性が上がることを禁じるなど、それは女性は月経という出血があるから汚れているというおよそ、古代の無知な時代からの伝統的考えを守っているからそうなるのである。
 そもそも、今の日本の伝統、文化を重んじるなどといっている人は、それなら日曜日を休むという基本的なこと、生活の根本にしみこんでいることは、日本の伝統でないことを知っているのだろうか。それは全く、キリスト教の伝統なのである。日曜日とは、キリストの復活の記念と安息日のふたつの精神が一つになって続いてきた伝統なのである。
 また、ふだん圧倒的な人たちが用いて着ている洋服はその名の通り、西洋の服であり、西洋の習慣と伝統なのである。あるいは、椅子やテーブルでの生活、ガラス窓、カーテン、洋間・中ヲなどなど日本の伝統でないものばかりである。
 それらを日本の伝統でないからといって、軽視したり廃棄する人がいるだろうか。今回の教科書で日本の伝統と文化をと繰り返し強調している人たちもやはり、日常生活では洋服を来て、椅子やテーブルを使う生活をしているのである。こうした生活の基本的なところで、わざわざ日本の伝統といって、学校でも畳でするなどという必要など全くないからこそ、圧倒的多数がそうした日本の伝統でないものを用いて生活しているのである。
 日本の伝統、文化の代表的なものとして天皇制がよく引き合いに出される。しかし、これも、戦前のように、天皇を現人神だとして、ただの人間であるのに、神だとして崇拝を強要し、天皇の名によって戦争をし、多くのアジアの人々を苦しめることになったなど、単に伝統、文化などを重んじてもそれだけでは何にもならないということをはっきりと示すものである。
 また、古くから日本に住んでいたのはアイヌ人である。現在もアイヌはごく少数になったが、日本を構成する国民の一部となっている。この国土にきわめて古い時代からある伝統といえば、アイヌの伝統もそれに含まれることになる。
 しかし、日本の伝統を重んじるべきだという人たちはアイヌを重要視するとかいった主張は耳にしたことがない。それどころか、天皇中心の政治を目指して日本の伝統を重んじた明治政府は、一貫してアイヌの人たちの伝統を奪う方式を取ってきた。男子の耳輪の禁止、アイヌ固有の生産方式である、狩猟、漁労法を禁止して、アイヌ側の反対を押して強引に実行され、日本語への移行と日本文字の使用が奨励された。そして、たびたびより悪い土地への強制移住をさせられ、対等に産物を売買できる関係から、漁場の労務者へと変質させられ、徹底的に酷使されるようになった。
 そしてアイヌの人のことを、蝦夷地に住むゆえ蝦夷人という呼称から「旧土人」という差別的な呼称に変えた上、天皇の民(皇民化)とされて、アイヌとしての伝統や文化が否定されていった。
 また、太平洋戦争のとき沖縄の地上戦においては、伝統や文化が相当違っている沖縄の人たちが日本軍人によって殺害されることも多かった。
 このように、伝統と文化を重んじると称するが、そういう人たちは、他の伝統や文化を強引に踏みにじるといったことを伴ってきたことが多いのである。
 また今回の教科書問題で批判の的になった教科書は、日本の伝統、文化を強調しているが、その教科書でカラーグラビアとして掲載されているのは、仏像や仏画など仏教関係が圧倒的に多い。グラビア全十五頁のうちで、九頁までが仏教関係なのである。そして本来の日本の伝統である神社関係のグラビアは一つもない。
 しかしそうした仏像などはもともと日本の伝統になかったのであり、仏教そのものがはるか遠いインドの宗教として生まれ、中国にはいって、経典も漢訳され、中国文化の色を深く受けた上で
日本に入ってきたのである。
 キリスト教にしても、ヨーロッパの伝統とか文化だと考えている人がほとんどであるが、じつはキリスト教は、ヨーロッパで生まれたものでなく、アジア東部の乾燥した地帯、今日ではパレスチ
ナと言われている地方で生まれたものであって、その砂漠的風土で生まれた本質を色濃く持っているのである。
 このように考えてくると、日本の伝統、文化と思われているものも、実はインド、中国、朝鮮半島の文化、伝統が相当多くあるのがわかる。
 アメリカの伝統、文化といっても、そもそも現在のアメリカ人というのは、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、ユダヤ、スペインなどヨーロッパのさまざまの人種、またアフリカの黒人やアジアの日本人やベトナム、中国、韓国人などじつにさまざまの人間の集まった集合体なのである。
 もし、アメリカの最も古い伝統と文化というのなら、はるかな古代から住んでいた、インディアンと言われる人たちの伝統と文化ということになる。しかしまったく、習慣や風俗、宗教の異なった現代のアメリカ人たちに、そのような特定の民族の伝統や習慣をたんに、古いからといって現代住んでいる民族が重視してそれを取り入れる必要などどこにあるだろうか。
 アメリカやロシア、中国など、多種多様な民族が集まった状態においては、ある人たちの伝統や文化は、他の人たちにとってはまったく異質の文化と伝統でしかないのである。 日本はたまたま大陸から遠く離れた東の果てにあり、しかも島国であったからこそ、昔から一つの民族のように錯覚してきたに過ぎない。日本には、すでに述べたようにアイヌ人が古くから住んでいたし、朝鮮半島や中国からも多くの人たちが入ってきて、日本人と結婚してきた。
 そこにおいて固有の伝統、文化はじつに多くの種類があり、どれか一つを強調してそれがアメリカの伝統と文化だと主張することはできないのである。それぞれの民族によって全く伝統、文化が異なっているからである。
 多くの宗教や伝統の違う民族が集まっているという点では、ロシアや中国、インドなどもそうであり、ほかの多くの国々においても、さまざまの民族が集まってできている国は多くある。
 このように、多くの民族が混じり合って一つの国を作っているのが実態であって、初めから単一の民族でずっと現在まで続いてきたなどという国はそもそも有り得ない。一つの国もたえず、戦争や交流があって、国境自体がたえず変化していくし、いろいろの民族が混じり合っていくものである。そしてその混血や国土がどのように変わっていったか、厳密に確認や証明することなど到底不可能である。
 そうした混じりあっているのが常である国家において、特定の伝統をとくに強調していけば、異なる伝統を持つ人たちは追いやられる。宗教にしても文化の一つの現れだが、それを絶対として他者を受け入れないときには、対立が生じてくる。
 朝鮮半島を支配したとき、日本の伝統である、神社参拝や、人間にすぎない天皇を神とするような日本独自のやり方を朝鮮の人たちに強制したし、日本語をやはり強制的に使わせようとした。それは、深い対立を生みだしただけで、何のよいこともなかった。
 そのような時代の一人の女教師、安利淑(アン・イ・スク)の実際の体験の記録が今から三十年ほど前に、出版された。彼女は、韓国のミッションスクールの女性教師であったが、周囲のキリスト者の教師たちもこうした圧迫のゆえに、神社参拝への押しつけに反対できずに、生徒たちとともに神社参拝ということを不本意ながらもするようになっていた。そして学校では、毎月の一日に神社に強制的に行かされて、神社参拝を強制されたのであった。
 このとき、著者は、本当の神でないものに向かって最敬礼することを、偶像への礼拝であり、なんとしても避けなければならないとの確信が生じてきて、その最敬礼をしなかった。直ちに、捕らえられることがわかっていたので、自分の家からも出て行った。そしてさまざまの出来事ののち、東京において逮捕され、死刑の宣告を受けた。しかし、日本の敗戦によって、解放され、アメリカに渡り、現在はアメリカの韓国人の教会の牧師をしている。
 この書物は戦前の韓国でどのような迫害が行われていたかがわかるが、次のように記されている。

 「日本人は、その八百万(やおろず)の神々を偶像化して、それをアジア東部に強制的に広めるために、都市や郡や村々にまで、一番高くよいところに日本の神社を建てて、官吏たちに強制参拝させた。そして学校や官庁や各家庭にいたるまで、神棚を配り、強制的に拝ませているのである。
 ついに教会の聖壇にまで神棚が置かれた。クリスチャンたちが、礼拝する前に、まず日本の神棚に最敬礼をさせるため、刑事を教会に配置した。日曜日になると、各教会に、刑事たちが鋭い目を光らせて、信者の行動を監視していた。ときには征服の警官が聖壇に立って信者たちを見おろしながら、タバコを口にくわえ目を光らせている。もし、牧師が反対するか、不遜な態度に出たらすぐ引っ張っていって、耐えきれないほどの拷問にかけて半殺しにするのであった。その牧師や伝道師が引っ張られていくと、その家族たちには食物の配給を全然与えずに飢えさせ、虐待を重ねている。・中ヲ」(前掲書 6P)

 このように自国の伝統や文化を特別に重んじるという傾向は、それが権力と結びつくと同じように別の伝統文化を持っている人々を平気で弾圧するという傾向を生むことが多い。
 それゆえに、人間にとって、最も重要なことは、個々の伝統や文化でなく、そうした多様性のある伝統や文化を超えて、人間それ自体の本質にかかわるものこそ真に価値あるものなのである。
 それこそ、聖書で一貫して言われている、真実や、正義、愛なのである。真実のないところで、また不正や殺戮を平気でしているところで、かつて、アジアの国々で行ったように、日本の伝統だといって、神社参拝を権力で強制していったい何の価値があろうか。
 そんなことはなんの意味もなく、有害無益であったからこそ、戦争で日本が負けると、たちまちそんな強制は跡形もなく消えてしまい、それは愚かな政策の見本のようなものとして引き合いに出されるものとなってしまったのである。
 最も日本の伝統と文化が強調され、英語ですら、敵の言葉だといって排斥すらされたのはつい、五十数年前である。
 そのことを考えても、各国の伝統や文化をこえた、どこの民族や国においても、同じように通用する真理こそ、根本なのだとわかる。そのような普遍的な真理を知って始めて、各国の伝統や文化というものも正しく評価できるようになる。
 そして聖書が初めて世界に示した唯一の神とキリストこそは、どのような伝統や文化の人の根源にある人間の本質に関わる真理である。だからこそ、キリスト教は世界のほとんどの地域と民族にわたって受け入れる人が生じてきたのであった。
 この真理を知って始めて、それぞれの民族や国が持っている伝統や文化をも正しく位置づけし、はじめにあげたような、間違っている伝統(女性は汚れているとか、人間を神とするなど)を 正し、人間にとってよき伝統や文化を育てていくことができる。そして、人間の本質に関わる真理であるがゆえに、そうした異なる伝統を持っている人々とも同じ真理を共有して交わりを持ち、共に歩んでいくことができる。
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