分かたれた人々 聖ということ    028-01-7-4

 聖書では、「聖」という言葉が多く出てきます。書名からして、「聖」書という名がついているので、聖という言葉は、なじみがあります。

 しかし、私たちはこの聖という言葉は、「聖人」という言葉を連想して、聖人とは完全無欠な人であり、儒教では聖人というと最高の人格者を意味する言葉なので、歴史のなかでもときどき聖人という人が出てくるのであって、私たちのまわりには、そんな人はもちろん見あたらない。だから、聖という言葉も同様に、私たちと遠く離れた言葉だというイメージがあります。じっさい、日常生活で、聖という言葉を使って会話するなどということはまずありません。
 しかし、聖書のことを中国語では「聖経(sheng jing)」といい、日本と同様に聖なる書という名称です。
 また、聖書には、新約聖書のパウロなどの手紙には、その冒頭に「コリント(ギリシャの地名)における聖なる人たちへ」などというように、しばしば見られます。
 ここでは、聖とはどういうことなのかを考えてみます。

 私たちに最もなじみのある、「聖」という漢字は、語源辞典を調べると、意味を表す「耳」と「口」と音を表す「王」(王でなく、テイ。この音の意味は、「通る」、または「聴く」)から成る。だから、この言葉の意味は、「耳の口が開いて、(通じて)普通の人には聞こえない神の声が聞こえる」という意味だと説明されていたり、「耳」と「呈」から成り、呈は、まっすぐに差し出すという意味であるから、「耳がまっすぐに通っていること」などと説明されています。(*)
 
(*)「漢字源」藤堂明保著 学習研究社、「漢字の起源」加藤常賢著 角川書店、「漢字の語源」山田勝美著 角川書店などによる。

 このように、中国では、「(真理を)聴く耳を持っていること、神の声が聞こえる」ことを聖と称していたのがうかがえます。言葉とは、宗教、思想や文化など人間の精神的なものの結晶であり、化石であると言われるのはこのように古代人の考えの一端をうかがうことができるからです。
 これは、主イエスご自身も、「耳あるものは聴け」と言われたことがあり、また、神の声を聴こうとする姿勢が重要であることは、旧約聖書以来、多くの箇所で示されていることであり、人間にとって、人間の声や意見だけに聴くのでなく、人間を超えたものの声を聴こうとすることの重要性を示しています。

 しかし、聖書において「聖とする」、あるいは「聖別する」と訳されている原語はそうした意味とは異なる意味を本来持っています。聖書でこの言葉が最初に現れるのは、創世記の初めの方です。

この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。(創世記二・3)

 聖という語を見ると、日本語では聖人との関連で、なにか完全無欠のものを連想しますが、聖書ではそういう意味が本来ではなく、「分けて置く」というのが原意だと考えられています。(例えば、BROWN,DRIVER,BRIGGS の ヘブル語辞書には、「離れていること、分離されていること」apartness という意味を最初に書いてあります。 )

 このことは、すでにあげた、創世記の箇所を見てもうかがえます。第七の日を「聖」とするということは、それを普通の日のように仕事とか娯楽などに使うのでなく、別に神のために分けておくという意味です。そうした意味をこめて、新共同訳や口語訳では、「聖別」という訳語をつけてあります。なお、新改訳は「聖」とされたとしています。
 また、現代の英語訳のなかにも、その意味をくんで、「神は第七の日を祝福した。そしてその日を特別な日として別に分けておいた。 He blessed the seventh day as a special day 」と訳しています。(Today's English Version)
  このように理解して初めてその意味がはっきりとしてきます。もし、この聖とするというのを、聖人というのが完全無欠な人だからといって「第七日を完全無欠な日にする」などというように思ったら何のことかわからなくなってきます。

 また、「すべての初子(ういご)を聖別してわたしに捧げよ」(出エジプト記十三・2)
 という言葉も、初めて生まれた子供を神のために「特別に分けて置かれたもの」として、神に捧げよということです。

 また、次のような例も参考になります。 

あなた方はわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なる私は聖なる者だからである。わたしはあなた方をわたしのものとするために、諸国の民から区別したのである。(旧約聖書 レビ記二十・26)

 ここでは、「聖とする」ということを、神がとくに「区別した」と言われています。この区別すると訳されている語は、分ける、分離するという意味を持った言葉です。アブラハム以来、次第に増えて広がった民の特徴とは、神がとくに一般の民と区別して、分離して神の特別な用に用いるためであったというのがこの箇所からもうかがえます。

 このような意味が、新約聖書になっても、受け継がれています。多くのパウロの手紙が新約聖書におさめられていますが、そこでつぎのような言葉がしばしば見られます。
「神に愛されて召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(ローマの信徒への手紙一・7)
「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。」(Ⅰコリント 一・2)

 ここで、「聖なる人々」と言う言葉が出てきます。これは日本語では、この世の最高の徳を身につけたひとたち、つまり聖人たちというような意味に受け取ってしまう可能性が大きいのです。
 しかし、例えば聖なる人たちと言われている、コリントの信徒たちがどんな状況であったかは、その人たちに宛てた手紙の内容を見ればわかります。

 わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされている。あなたがたはめいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っているという。
 キリストは幾つにも分けられてしまったのか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのか。(Ⅰコリント 一・11~13)
 また、別の箇所では「あなた方は、霊の人でなく、肉の人である。互いの間にねたみや争いが耐えないようでは肉の人であり、ただの人として歩んでいるではないか。」(同三・1~3より)
 あるいは食事のときに、パンとぶどう酒でキリストが死なれたことを記念し、信仰によってパンをキリストのからだとして受ける際にも、ある人は勝手に先に食べてしまい、あるひとは、すでに多くのぶどう酒を飲んで酔っているほどであり、その状態をパウロは厳しく非難しています。(同十一章)

 このような箇所を読むと、この手紙が、コリントの「召されて聖なる者とされた者へ」と書かれていても、聖なる人々という言葉は、決して、私たちが想像するような「完全な徳に達した人々」などではなく、キリストから呼ばれたことを感じて、キリストの集会に集まるようになったけれども、まだまださまざまのこの世の汚れや習慣を持っていて、自分中心の考えに流されて、聖霊中心まで到底達していない人も含まれていることが分かります。
 新約聖書で「聖なる人々」と訳されている言葉は、このように、およそ私たちの想像するような「聖人」ではないのです。
 このように、聖書の日本語訳のままで理解しようとしても、どうしてもうまくいかない場合もあります。それは、もとの原語と日本語に訳された言葉の意味が必ずしも同じでないからです。場合によっは、相当違っていることがあるからです。

 例えば、愛という日本語で思い出すのは、大多数の人たちは、男女の愛であり、それから親の愛であり、隣人への愛ということも思い出す人も少しはいるでしょう。
 しかし、新約聖書で愛というとき、それか神からの愛、その愛を受けて、神を愛する愛を指しているのであって、男女の愛や親子の愛などはまったく現れてこないのです。
 
 聖なる人々とは、神とキリストを信じて「神のために分かたれた人たち」ということです。召されて聖なる者とされたということは、とても不十分な人であっも、神(キリスト)から呼ばれて、(「召」
すと訳された原語は、「呼ぶ」という意味」、神のためにとくに用いるべく、分かたれた人たちということになります。どんなに欠点が多くても、またいかに過去において、重い罪を犯したものであっても、そして人々から見下されているような病気や障害を持っているような人であっても、ひとたび神から呼び出されてキリストを信じるようになった人は、神のために分かたれた存在となったのです。
 分かたれた者は、そのことを深く知るようになり、それとともにいっそう神を求め、神からの聖霊を受けたいとの願いを起こすことになります。そして与えられた聖霊こそ、私たちを内からも外からも変える力を与えてくれることになります。
 新約聖書が書かれた時代は、キリスト者(原語のギリシャ語では、クリスティアノス christianos 英語では、クリスチャン)言葉はまだほとんど使われていなかったので、キリスト者のことを、「聖なる人々 ギリシャ語では、ホイ・ハギオイ hoi hagioi 」と呼んでいたのです。これは本来、「神のために分かたれた人々」というような意味だからです。

 この言葉(ハギオス)とその関連語(聖とする ハギアゾーなど)についてイギリスの新約学者、W・バークレイの説明を参考のためにつぎに引用しておきます。

 ハギオス(hagios)というギリシャ語は、ふつうは、「聖なる(holy)」と訳される。しかし、このハギオスというギリシャ語の元にある意味は、「他の物とは異なっている」という意味である。ハギオスである物とは、他のいろいろき物とは、異なっている物だということである。一人の人間がハギオスであるとは、他の人々とは分かたれている、分離されているということである。だから、聖堂がハギオスであるとは、それが他の建物とは異なっているからである。祭壇がハギオスであるとは、その祭壇がほかの通常の物の目的とは異なる目的のために存在するからである。神の日(安息日、聖日)がハギオスであるというのは、それが他の日々とは異なっているからである。聖職者がハギオスであるのは、その人がほかの人々とは区別され、分かたれているからである。(W. Barclay ;The Gospel of Matthew Vol.1 205p)

 聖書という名前も確かに、この世のあらゆる書物から「分かたれた書物」だと言えます。この地上には、今までに無数の書物が書き残された。しかし、それらはほとんどみんな消えていった。
ごく少数は残っていて一部の人たちに古典として読まれています。
 しかし、それでも、全世界の人々が、無学な人も学者も病人も、未開といわれている地域の人たちも、天才的な学者も、あらゆる民族、能力の人たちがいまもなお、熱心に生涯の書物として読んでいる書物、そして二千を超える原語に訳されているのは、聖書のみです。
 聖書のうちの旧約聖書にはカインとかダビデの罪、イスラエルの人々の背信行為とか、複雑な儀式などの、一般的の人にとっては読みたくないような内容も時には含まれています。それは聖なる本というイメージで浮かぶような、完全なよいこと、心をうるおすようなことばかりが書いてあるのでは決してありません。
 しかし、そうした内容も含めて全体として聖書は驚くべき神の御意志を記してあり、書かれたことは何千年を経ても変える必要のない真理がその根本を流れています。そういう意味でたしかに、ほかのあらゆる書物と「区別され、分離された書物」であり、すべての滅びへと向かわせる力を超越している本だといえます。

 神のご計画のために、とくにこの世から呼び出され、選び出されて、分かたれた人々、それこそ、キリストを信じる人たちです。キリスト者となるように呼び出された人たちは、決して人格者でも、心のきれいな人でも、愛のあるでもなかった。それどころか、重い刑罰を受けるほどの罪を犯した人もいました。
 能力的にも、決して学者とか特別な音楽や絵画の才能がある必要もない、ただの漁師であっても呼び出され、神のためにこの世の人々から分けられていく人たちがいます。 
 聖書のはじめの創世記にも、最も劇的に神のご計画のために、呼び出され、分かたれた人がいました。
 それはアブラハムであり、モーセであり、ダビデといった人々がそうです。
 住み慣れた場所、親族、友人、仕事などいっさいを捨てて、ただ神から呼び出され、神が示す土地に向かって旅だったアブラハムは、神に呼び出され、神の特別な計画のために分けて置かれることになった。そしてそのアブラハムの魂の中心にあったのは、唯一の神からの声を聴き、その声に従って千五百キロにも及ぶような距離を旅し、目的地に到着した後も、その神への 信仰を守り続けていったのです。
 今日、ユダヤ人といわれる人々も、元はといえば、このように現在ではイラクという国の南部にあたる所に住んでいたありふれた人であった。
 そのごく普通の人が、なぜそれから数千年もの歳月を経て、本質的な部分をキリスト者たちにも伝わっていくことになって、全世界に満ちるようになっのか、それは神のわざとしか言いようが ありません。
 旧約聖書は、神によってこの世から分かたれた人々の記録でもあります。そして新約聖書は、そうした人が全世界に広がっていく過程で書かれた書物なのです。
 カトリック教会では、特別に認定された人だけが聖人とされます。しかし、聖書ではキリストを信じた人がみな、神のため、キリストのために分けられた人であり、この世から分離して頂いた 者であるから、みんな、「聖なる人(聖徒)」と言えるのです。しかし、繰り返しますがそれは決して完全な人といった意味ではありません。
 神とキリストを信じる私たちもまた、キリストの十字架によって罪を赦され、それによって清くされ、この世の汚れから分かたれ(キリストの聖性にあずかり)、導かれる日々となっていく、それが 神の私たちへのご計画だと言えます。
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