聖書における祝福と幸い    2001/9/3

 私たちが最も求めているのは、「幸福」であり、「幸い」です。どんな人でも、わざわざ不幸を求めてはいないと言えるからです。例えば、人間にはきわめてさまざまの行動をする人がいますが、わざわざ病気になる人、いやな皮膚病をもらいたいとか、エイズのような病気になりたいなどと願う人はありません。それは、そんな病気になるといかなる意味でも幸福ではないとだれもが感じるからです。
 人間のいろいろの行動はみんな、その人にとっても一時的な幸いだと感じるものを求めた結果だと言える。勉強するのもよい会社に入りたい、研究するのもそこで知られるようになりたい、安定した生活がしたい、娯楽も旅行などもみんなそうすることで一種の幸福感があるとそれぞれの人が感じるからです。
 幸福とか幸いはあらゆる人があらゆる方法で求めているように見えます。しかし幸福ということについて大多数の人たちにとって共通しているのは、健康、お金、よい家族たち、よい職業と、よい友達などだと思われます。
 こうしたものが「幸福」であるということは、小さな子供たちでもわかります。病気になること、家族が仲たがいしていることなどだれでもいやなことだからです。
 しかし、このような幸福はだれもが求めているものであるが、それはきわめて不平等に与えられているのがわかります。健康についても生まれつき病気の人、生まれてから自分の足で歩いたことが一度もない人もいます。生まれたときから病気で子供のときにすでに命を終える人もいます。 他方、何十年と病気の苦しみを知らないような人もたくさんいます。
 また、金にしても何億という資産を持っている人も多くいる一方では、その日の食物すらないような人々が世界には数しれずあります。
 家族関係にしても、生まれてから母親も知らない子供がいて家庭の味わいも知らずに大きくなったり、肉親から打たれ、苦しめられたりする子供もいれば両親や兄弟のいるあたたかい家庭に育つ人もいます。 
 まったくそれは、いかに見ても平等ではありません。このような運命的な差別ともいうべきことが、ふつうの「幸福」にはつきまとっています。そのために、英語の幸福にあたる言葉「happy」という言葉は、もともと、hap (運)という語から作られているほどです。幸福とは運だ、生まれつきだ、運が悪かったら生涯幸福ではありえない、事故が起こるとかガンになって途方もない苦しみを味わわされるのも運だ、というように考えていたのがうかがえます。

創世記における祝福

 このような、ふつうの幸福についての考え方や感じ方に対して、聖書にいう幸福とか祝福はどのような意味を持っているだろうか、最も人類に大きい影響を与えてきた聖書はこの問題についても一般の考えとはまったく違った内容を私たちに示しているのです。
 聖書は祝福と幸いをテーマにしている書であるとも言えます。聖書の一番初めから祝福という言葉は重要な意味をもって現れるからです。
 祝福という言葉はもともと、「よき力を与える」という意味だといいます。(*) 神が海や空の生物を産めよ、増えよと言って祝福されたというのが、聖書において現れる最初の「祝福」です。この祝福は、確かに、生き物たちに産み増える力を与えたのがその内容となっています。
 また、天地を創造されたとき、最初の創造されたものは、闇と混乱のただなかに創られた「光」であったのです。

初めに、神は天地を創造された。
大地は混乱を極めた状態であり、闇が深淵の上に立ちこめていて、激しい風が吹き荒れていた。
神は言われた。「光あれ!」こうして、光が存在するようになった。
神は光を見て、良しとされた。(旧約聖書・創世記一章より)

 このように、最初に創造された光も、その後の創造されたものも、神はみな「良しとされた」の言葉があります。完全な神の目からみて良きものとして創造されたということは、すなわち、祝福された状態として創造したということでもあります。
 また、創世記の第二章には、第七日(安息日)を祝福したといわれています。それも、第七日に特別な力を与えたために、その第七日を守る者にも特別な力が与えられると考えることができるのです。
 たしかに旧約聖書においても、イスラエル民族が長い歴史のなかで、周囲の大国による侵略や攻撃、捕囚などによっても滅び去ることなく、続いてきたのは、そうした大国の攻撃にも滅びることのない、ある力を与えられてきたということであり、それは、一つには安息日を厳守しようとしてきたからだと言えます。
 そしてこの安息日の精神がキリスト教時代になってからは、主イエスの復活が日曜日になされたことから、日曜日へと移って、その日曜日が旧約聖書の安息日と同様なものとなっていきました。そして日曜日をも確かに神は祝福され、日曜日を守って礼拝に捧げる人たちが核となってキリスト教は続いてきたとも言えるのです。
 つぎに、創世記には人間の創造のことが書いてあります。彼らにも祝福が与えられ、産み増やす力を与えられ、ほかの動物たちをも支配する力を与えられたのです。それだけでなく、人間が最初に創造されたところは、エデンの園と言われています。
 そのエデンの園とは、どんな所であったでしょうか。

主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらすあらゆる木を地に生えいでさせた。・中ヲ エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。(創世記二章より)

 このように、最初の人は何も努力もせずしてはじめから食べるのにふさわしい果実を豊かに与えられ、さらに見るにもよい美しいものを与えられていたのがわかります。水もエデンの園の源流となって世界をうるおす四つの大河となって流れて出ていたと記されています。これは実に大いなる祝福された状態です。
 聖書が言おうとしていることは、この宇宙、自然や動物の世界、そしてそれらの創造の完成として創造された人間においても、本来はすべてが祝福されたものとして創られたのだということなのです。
 しかし、そうした完全な祝福された状態を、人間が自ら破壊し、その祝福を捨て去ったというのが聖書の言おうとしているところであり、祝福から見放された人間がいかにして再び祝福を与えられるのかということが聖書のテーマとなっています。

 その祝福の回復への道を、創世記において、アブラハムという一人の人間を通してくわしく述べています。
 それはメソポタミア地方に住んでいた、多くの人たちのうちの一人でしかなかったアブラハムの受けた祝福への道です。
 彼が受けた祝福は、まず神からの呼びかけを聞き取ったこと、そしてその声に従っていったことから始まっています。
 そしてこの祝福が聖書全体を流れているのです。もし、アブラハムが神からの呼びかけを聞きながら、それを受けなかったなら、彼が受けた祝福は消えていったのです。
 祝福の出発点は神からの一方的な声を聞き取ることだといえます。そして第二段階は、その声に従っていくことです。
 つぎにアブラハムがどうしたか、彼は神の言葉に従って旅立って行った。創世記の十五章によれば「わたしは、あなたをカルデアのウルから導きだした」とあります。ウルとは、メソポタミア地方、現在のイラクという国の領域にあり、ユーフラテス川の下流です。 そこから、目的地のカナンまでは、途中でその川の上流のハランという所を経由して行ったために、直線距離にしても千五百キロほどもあるのです。
 なぜ、アブラハムだけに呼びかけられたのか、なぜ、ほかの多くの者には呼びかけがなかったのか、アブラハムはメソポタミアに住んでいた多くの人間のうちの一人にすぎないのです。
 これはアブラハムが熱心であったとか、まじめであったとか、信仰深かったなどというのではないのです。そうした理由は全くあげられていないからです。
 それは、ただ、神の選びであり、ご計画なのです。
 このとき、アブラハムに語りかけた神はつぎのように言われました。

主はアブラム(アブラハムのこと)に言われた。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。
あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の民族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
アブラムは、主の言葉に従って旅立った。(旧約聖書・創世記十二・1〜4より)
 
 アブラハムがこの時、神の言葉に従わなかったら、彼は祝福を受けず、祝福の基(もとい)となることもなかった。聖書で言われている祝福とは、このように、神の言葉に従っていくということと結びついているのがわかります。
 アブラハムが受けた祝福は彼自身の最も深い幸いとなり、喜びとなり、生きる力となったのはいうまでもありませんが、その後に続く無数の人々をうるおし、ほかのものでは全く与えられない心の平安と力を与えられてきたことがわかります。
 アブラハムが、当時はだれも知らなかった、全世界、そして宇宙をも支配しておられる唯一の神がおられるということを示され、その神を信じて、その神の言葉に従っていったというその生き方は、後にキリストが現れてから、キリスト教という形になって受け継がれています。そして確かに、地上の民族はすべて、アブラハムが持っていたのと本質的には同様な信仰によって祝福されていったのです。キリスト教は、全世界のおびただしい言葉に訳されて、世界のいたるところに入って行ったからです。
 しかし、このアブラハムはこの祝福を安易に受け取ったのではありません。彼は、すでに述べたように、現在のイラク地方、ユーフラテス川の下流地方に住んでいたごくふつうの人であったと思われます。そのアブラハムがともに住んでいたり、交わっていたいろいろの人たちのなかからただ一人、唯一の神からの呼びかけをはっきりと聞き取り、従っていく、その過程はたいへんな苦しみと迷い、悩み、悲しみがあったことと思われます。
 なぜ、住み慣れた故郷を離れるのか、そこでは家族も友人も、慣れ親しんだ郷里の自然、風土がある。そこをどうして離れる必要があるのか、目的地はどんなところかも全くわからない。だれも知らないような遠い所だからです。出発するときまでのアブラハムの心の迷いはどれほどだっただろうか。どれほど遠い所かも最初はわからなかった。行くところを知らずして、アブラハムは出発したのです。それが実に千五百キロほどもある遠い所、砂漠地帯を超えて行かねばならない所であったのです。そして、そこにはるばる砂漠や乾燥地帯を超えてやってきて、初めて神から「あなたの子孫にこの土地を与える」との言葉がアブラハムに与えられたのです。
 その途中も長い長い旅路において、きびしい暑さ、砂嵐など気候の変動による予期しない苦しみ、飲み水がない、食糧の確保などたいへんであったと思われます。そしてそのような未知の遠いところに行くにあたって、共に行った少数の人々からも強い反対や不安、攻撃が投げかけられたことと思われます。
 アブラハムのずっと後の時代にモーセが砂漠地帯を通って人々を導いていくときも、人々から強い反対や攻撃があり、モーセは死を求めるほどに心は苦しみにさいなまれたことがあったのです。
 目的地に行けとの言葉を聞き取ったのはアブラハムただ一人であって、同行した人たちにとっては、なぜそんな遠い所、何があるかわからないような所、さらに途中で事故や略奪などに遭うかも知れないのであって、途中ではアブラハムに対してもいろいろの非難や不満などもあったことが考えられます。自分たちが住んでいたところが災害があったとか、自然環境の変化などで住むのが困難になったということなら、一致して未知の所にでも行く合意があります。しかしアブラハムにとってはそのようなものはなく、ただ神が行けと命じる言葉を聞いたというだけです。
 聖書には、そうしたさまざまの現実に起こったであろうことはいっさい書いてありません。そうした困難や苦しみは省いて、ただ出発のときに神の言葉を聞いたこと、アブラハムが実際にその神の言葉を聞いて未知の土地へと出発したこと、目的地に着いたこと、そしてその目的地でアブラハムが何をしたかということだけを書いてあるのです。
 遠い目的地とは、カナン(現在のパレスチナ地方)であったのだとわかったのは、そこに着いたとき、神がアブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と語りかけたからわかったのです。アブラハムはその神の言葉でようやくそこが目的地であることを知り、長い旅の終わりを知ったのでした。
 彼がそこに着いて最初に何をしたのだろうか。

アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、・中ヲ天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。(創世記十二・7〜8より)

 このように、彼がしたことは、神への礼拝であったのがわかります。それまでの長い困難な旅路を守り導いてもらったことへの感謝と、さらに今後の守りへの祈りであったと思われます。
 しかし、このように神に聞き、神に従って現実の困難をも進んでいくアブラハムの前途には、決して安全な状況ばかりではなかった。せっかくはるばる砂漠を超えてたどり着いた目的の土地では、まもなく飢饉となり、そこでは生きて行けなくなったのです。そのため、そこから数百キロもあるエジプトへと食糧を求めて進んで行ったのです。
 そこでアブラハムは意外な言動を見せています。

エジプトに入ろうとしたとき、アブラハムは妻サライに言った。
「お前が美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人がお前を見たら『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、お前を生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってくれ。そうすれば、わたしはお前のお蔭で命も助かる。」 (創世記十二・11〜13)

 ここには、これまで、千二百キロを超えるような長い困難な旅を、主の導きを信じて歩んできた信仰の父というような立派な姿はまったく見られない。そこには、自分の安全だけを考えて、自分の命のためには長く連れ添ってきた妻ですら、捨ててしまいかねない自分中心の姿があります。これは驚くべきことです。
 旧約聖書では、アブラハム、ヤコブ、エリヤ、ダビデなどといった人々は最も重要な人物です。イスラエル民族の根本的特徴となった、信仰の父であるアブラハム、以後の数千年にわたってユダヤ教、キリスト教だけでなく、イスラム教においても信仰の模範、預言者として敬われているほどの人なのです。 そのような歴史上で最も影響の大きかった人のうちの一人です。
 そのような偉大な人物と見なされるような人のことを書くとき、聖書は彼の弱さをも何の遠慮もなく、書き付けたのがわかります。
 ここに神の導きがあります。アブラハムはこの時、それまで最初に神の声を聞いてそれに従ったとき以来、ずっと神に祈り、導きをを受けてきました。カナンの目的地にも着いてすぐにしたのが神への礼拝だったのです。
 しかし、それでもなお、自分の命が危ない状況となったときに、彼は自分中心になり、祈って神の導きを待つことができなかったのがわかります。 
 その結果、妻のサライは、エジプト王の妻として宮廷に入っていくことになったのです。こういう事態になったら、もうふつうの手段では王の妻となった人物を取り返すことはできないはずです。アブラハムは、後悔しなかったのか、祈って自分のやり方の間違いを示されたのではないのだろうか、妻の安否を気遣うことはなかったのか、妻を失ってどんなに異国にあって孤独であるかなどなどを思い知らされていたはずです。
 もし、このままでいけば、「あなたを大いなる国民とし、・中ヲ地上の民族はすべてアブラハムによって祝福に入る」と約束してもらったことは、成就しないのです。
 しかし、神はアブラハムの弱さのただなかに介入され、エジプト王や人々に苦しい病気が生じるようにされた。そうしたことを経て、王は、召し入れたサライはアブラハムの妹でなく、妻であったのを知らされたのです。そこで、何も罰することなく、アブラハムを立ち去らせたと記されています。
 神の助けがなかったら、アブラハムの妻はエジプト王の妃(または側室)となってしまってして再びアブラハムのもとに帰ることはなかったと思われます。このように、祝福の基となったアブラハムも神への忠実を一貫して守り続けることができたのではなく、その弱さのために、神のご計画を無にしてしまうような罪も犯してしまったのがわかります。本来この時のアブラハムの罪は重いものだったのです。神の祝福をすべて無にしてしまいかねない事態になるからです。
 こうして、神は、アブラハム自身の偉大さのゆえに、祝福の基となったのでなく、神ご自身の計画のゆえに、アブラハムを祝福の基としていったのだということを示そうとしているのです。どんな人間でも完全に神に従うことはできない、それでもなお、神はその弱く、不十分な人間を用いて、あるひとを祝福の基とし、それをさらに多くの人へとその祝福を広げていくのがわかります。
 このような人間の弱さを持ち、罪を犯し、失敗をしながらも、なお祝福の基とされていったのは、ダビデやペテロといった重要な人物もその代表的な例と言えます。ダビデは若きときの信仰の勇者であり、いかなる迫害を受けてもなお、自分の主君であった王に武力で反撃したりせず、ひたすら神を信じて、逃げるというだけであったが神の驚くべき導きによって、自分では予想もしていなかった、王となった。しかし、その後に最も重い罪を犯し、神からきびしく罰せられることとなった。それでもなお、心から悔い改めたダビデはその子孫からイエスが出るというように、祝福の基となり続けたのがわかるのです。
 ペテロについては、イエスが捕らえられたとき、三度もイエスなど知らないといって主に背いたにもかかわらずやはり、心からの悔い改めによって、以後二千年のキリスト教の祝福の一つの基ともなったのです。
 このように、旧約聖書で最も印象的な箇所の一つである、アブラハムが祝福の基となり、全世界の民族の祝福もその祝福から出るとまで言われた理由は、神がまず選んだこと、そして神からのその呼びかけにアブラハムが聞いて、慣れ親しんだものと決別して従って行ったこと、その過程においても常に神に信じて、神への礼拝を基本としていったこと、時に恐れから罪を犯すことがあっても、神ご自身が介入され、正しい道へと連れ戻したこと、アブラハムも再び神に立ち帰っていったことなどがその理由だと言えます。
 現在の私たちにとって、アブラハムの持っていた信仰を与えられるとき、私たちもまた祝福が与えられ、小さいながらも一つの祝福の基となると言えます。
 罪を犯して自分の小さいこと、醜いことを思い知らされることがあっても、なお神は私たちを赦し、導き、神ご自身の計画のために用いようとされているのです。私たちは、自分自身がどんなに弱く、みじめなものであっても、神につねに立ち帰る心を持っているならば、なお、神が用いて、他者の祝福の基として下さるのを信じることができるのです。
詩にみられる祝福
 旧約聖書で最も有名な箇所の一つは、つぎの詩編第一編です。

いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、
罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。
その人は流れのほとりに植えられた木。
ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。
その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。(詩編第一編より)

 この詩は旧約聖書の詩集である詩編の冒頭に置かれています。全詩集のタイトルというべきものだからです。
 ここで幸いなこと、祝福されたことと言われているのは、「神に逆らう悪しき人の考えに従って生きるのでなく、また罪ある人の道を行かず、傲慢な者と共に座らない。主(神)の教えを愛して、いつも神の言を心に置いている人」だと言われています。これはその通りだとたいていの人には納得がいく内容です。私たちが、真実でないことを言ったり、したりすれば、それは罪ある人の道を歩いたことになり、悪しき人の考え方に沿って生きていることになります。このように厳密に考えると、私たちはこの詩編第一編の通りには歩いていないことを知らされるのです。
 もし、うっかりと悪しき者の道を歩いてしまったらどうするのか、どんな人でもそうした罪や失敗を数々犯してきたはずです。例えば、戦前のような軍国主義の時代にあっては、戦争という大量殺人を国家やマスコミ、教育などすべてをあげて賛成している状況であって、そのような状況にあって聖書のいうところに反する悪しき道をほとんどの人が歩んでしまったのではないか・中ヲ
 打ち続く不幸なことが心を動揺させ、病の苦しみが恐ろしいほどに身を痛めつけるとき、私たちははたして元気なときのように、主の教えを愛することができるだろうか。旧約聖書にあるヨブという信仰の模範生のような人ですら、激しい苦しみと痛みに直面したとき、神のことがわからなくなってうめき、叫んだのではなかったか・中ヲ。
 このように考えると、悪しき者の道を一貫して歩まないということは、だれにもできることでないのがわかるのです。
 キリスト教史上で最も神の言を聞き取った人、パウロですら、自分が善いことができずに、よくないことをしてしまう、このような奥深い本性をどうしたらよいのか、とふかく嘆いている箇所があります。
 このような私たちの弱さと罪を思うとき、この詩編第一編だけでは、私たちは幸いにはなれないのがわかるのです。
 ここに至って、そのような弱い人間、罪を犯してしまう弱さと醜さにあってもなお、与えられる幸いと祝福を私たちは求めるのです。そして聖書はそのような求めにもはるか昔からすでに答えているのです。

何と幸いなことか、(神への)背きを赦され、罪をおおい消される者は。
何と幸いなことか、主がその人の罪を数えず、心に欺きのない人は。

わたしは黙し続けて、絶え間なくうめき、心身ともに疲れ果てた。・中ヲ
わたしは罪をあなたに示し、隠さなかった。
わたしは言った、「主にわたしの背きの罪を告白しよう」と。
そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを赦して下さった。(詩編三十二編より)

 この詩において、最も深い幸いとは、神によって自分の罪が赦され、神がそれをなかったかのようにして下さることだと言われています。自分には罪などない、自分は正しいのだと言い張るときには、心は平安を与えられず、疲れはててしまいます。それは幸いな気持ちとは正反対です。私たちが最も苦しいのは、他人からの攻撃とか無理解、中傷でなく、じつは私たち自身のなかにある赦されていない罪だというのです。
 自分が正しい道を歩けなかった、歩こうとしても途中でまちがった道に入り込んだ、あるいは、これは違った道だと感じていたが、どうしても正しい道に帰ることができなかった、そしてつぎつぎと罪にまみれてしまった・中ヲ。
 そんな罪深い者にもこの詩は大いなる幸いを告げているのです。
 このことは、私も聖書を知るまでは考えたことがなかった。自分の苦しみは自分の外にある何かである、○○という特定の人間、社会、政治、あるいは、病気、事故などなど、せいぜい自分の生まれついた性格など、とにかく自分のうちに気付かないほどに深いところにある神、完全な真実と清さを持った神への背きがあるからなのだということがわからなかったのです。
 もし、そうした背きや罪がなくなったら、そのときには、何よりも幸いな「主の平安」に心は満たされます。それは神の国からのさわやかないのちの水が魂に流れ込んでくるからです。
 人間の幸いで最もふかいものは、何かをもらったとか、文化やなんらかの領域で大きい業績を上げた、そして誉められたとか、あるいは心の合う異性に出会ったとか事業で成功したとか・中ヲそのような外的なことでなく、私たちの魂の最も深いところにて、真実に満ちた神への背きの罪がぬぐわれ、赦され、そこで神(キリスト)と出会い、神の愛に満ちたまなざしを受けること、そして新しい力を与えられることだと、この詩は言おうとしているのです。

新約聖書における祝福

 罪の赦しを受けることの幸いは新約聖書の時代、キリストの時代に入っていっそう完全なものとなり、求める誰でもが与えられることとなりました。この罪の赦しの喜びと平安こそは、キリスト教が与える幸いの中心をなしていることなのです。新約聖書全体がその祝福と幸いを告げているのですが、ここでは新約聖書のはじめに出てくる最もよく知られた箇所をあげておきます。
 
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「何と幸いなことか、心の貧しい人々は!
なぜなら、天の国はその人たちのものだからである。
何と幸いなことか、悲しむ人々は!
なぜなら、その人たちは(神によって)慰められるからである。
何と幸いなことか、義に飢え渇く人々は!
なぜなら、その人たちは(神の国の賜物によって)満たされるからである。」(マタイ福音書五章より)

 新約聖書の初めに出てくるこれらの言葉は、聖書を少しでも手にとったことのある人はたいていの人が思い出す箇所です。最初の「心の貧しい者」こそは、聖書の祝福と幸福の基本になっています。すでにあげた詩編三十二編で述べたように、自分の罪のために打ち砕かれている心こそは、ここで言われている「心の貧しい者」です。
 私たちが今、神を信じて、キリストによる罪の赦しを与えられているということは、神から特別に選ばれたということであり、神の呼びかけを聞いて、それを受け入れたということだといえます。
「私が示す地に行け」それは、現在の私たちにとっては、日常の具体的な生活の中で、どうしたらよいか、分からないときに示されることです。そのままにしておくこともできる、思い切って困難な道を取ることもでぎる。そのとき、神を見つめ、神の光のある方へと、歩んでいくこと、その道をとれば、どんなことになっていくのかわからなくとも、まず神の国と神の義を求めよといわれる主イエスの言葉に従っていく、そこに祝福がある。それが現在の私たちにも与えられている道なのです。

(*)Dictionary of New Testament Theology Vol.1 207P
区切り線
文字サイズ大文字サイズ中
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。