絶えざる前進    2001-8-1

 私たちの前途にはたえず力を失わせること、落胆させるようなこと、疑問に思うことが生じます。それは、どんな人の毎日においても、自分自身の失敗や罪、この世の不正や悪の出来事、人間関係の困難さ、自分の病気、家族の問題、職業上の問題や経済的問題、将来への漠然とした不安や恐れなどが次々と生じてきます。
 こうしたことばかり考えていると、私たちは前に進めなくなります。私たちに重りがまつわりついて、沈んでいくような気持ちになるのです。
 この世はこうした妨げや重荷で満ちています。それを軽くしない限り前進できず、後ろに引き戻され、あるいは立ち往生してしまう。
 この「はこ舟」という小さな印刷物にしても、私の前の編集者であった杣友(そまとも)さんがかつて、「もうやめようか、と何度も思ったことがある。しかしそのたびに祈りのなかから、止めるなとの声を聞き取ってなんとか続けることができてきた」と、言われたことがあります。
 私も教員となって五年目から、勤務の場(高校)において印刷物を作って配布することを始めたのですが、それを続けていく過程で、いろいろ困難のためにもう止めようと何度も思いました 。しかし、そのたびに私もまた「止めるな、続けよ」との細い、静かなみ声を聞き取って、再び立ち上がることができ、続けていくことができたのを思い出します。
 私たちが直面する数々の悩みや心配ごと、罪、失敗など、どのようなことが起こっても、それでも前進を続けることができるのは、自分の努力や決心ではなく、私たちの心の中にいて励まし、立ち上がらせて下さるキリストだということを、私も日々実感しています。そのような、慰め主、励まして下さるお方を持たないことは、なんと孤独でさびしいことかと思います。


声を聞く

 私たちは、毎日の生活で、どんな声に聞いて生きているだろうか。多数の人は新聞とテレビ、週刊誌、雑誌などの声を聞いて一日を始めているのではないでしょうか。そして、仕事が始まるとその仕事上のことだけに意識が集中してしまうと思われます。
 仕事から、帰ると疲れて、のんびりと新聞やテレビを見て、一日が終わる、そうした状況で何十年が過ぎていくという人が多いようです。
 しかし、聖書の世界では、まったく違った雰囲気が流れています。それは、新聞やテレビ等と違った神の声に聴くという姿勢です。
 旧約聖書の初めに出てくるアブラハムもそのことから始まっています。アブラハムは今から三七〇〇年ほども昔の人ですが、彼こそは、現代のキリスト者の精神的祖先でもあると言えます。
 アブラハムが、自分に語りかけられる神の声を聞き取って、その声に従っていくところから、以後数千年にわたって今日まで続いている精神的な大河が始まったのです。
 今日のキリスト者も神に聴くというところが、その生命となっています。
 主イエスも言われました。

門番は羊飼い(キリスト)には門を開き、羊(キリスト者)はその声を聞く。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。
わたしの羊はわたしの声を聞く。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十章より)

 キリスト者とは、たんに口先で十字架を信じる、復活を信じると言っている人ではありません。日々、キリストからの御声(みこえ)を聴こうとし、その御声に従っていこうとする人なのです。
そしてその声を聞き取るためには、私たちは幼な子のような心で、キリストを見上げている必要があります。そしてそのような姿勢を私たちが保ち続けるとき、罪の赦しを実感し、ほかの方法では得ることができない平安を与えられ、新しい力を与えられます。ここにこそキリストを信じる者の大いなる幸いがあります。
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