悲しみを知って下さる神 (詩編五十六編より)    2001/11/3

神よ、わたしを憐れんでください。
わたしは人に踏みにじられ、私に敵対する者が、絶えまなくわたしを苦しめる。
彼らの力をなぜ、私は恐れるのか。わたしはただ、あなたに依り頼めばよいのだ。
彼らは、わたしの言葉をたえずあざけり、その計画はわたしを害なうことに向けられる。
あなたはわたしの歎きを数えられた。
あなたの皮袋にわたしの涙を蓄えてください。

神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわかる。

神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。
神に依り頼めば恐れはない。人間がわたしに何をなしえようか。
神様、あなたに誓ったとおり、感謝の献げ物をささげよう。
あなたは死からわたしの魂を救い、
突き落とされようとしたわたしの足を救い、
命の光の中に神の前を歩かせて下さる。

 私たちはどうすることもできない苦しみにあるとき、ただ、「神様、憐れんで下さい!」と祈るほかはない。その叫びを発する相手(神)を与えられていることが幸いなのだ。この詩の作者は、著しい苦しみと圧迫のただなかにいたのがうかがえる。
 絶え間のない圧迫と苦しみにおいて、もう耐えられないと思うほどであった。この詩を作った人の周囲には、どのような理由かは分からないが、この作者に対しては絶え間なく攻撃がなされていた様子である。つぎつぎと混乱が生じ、そこに乗じて侮辱し、嘲笑する者がいる。
 しかし、そのような誰一人わかってもらえる者がいないような状況において、この作者は、神に叫ぶ。神こそはそうした魂の孤独な戦いにおいて支えて下さる唯一のお方であるから。
  そのことをこの作者は、神が自分の嘆きを数えて下さっている、と実感しているし、さらに私の涙を皮袋にたくわえて下さいと祈っている。
 神と祈りのなかでの交わりを持つとき、ほかの人にはわかってもらえない心の奥深い嘆きと苦しみをも神は一つ一つ知って下さっている、という実感を持つことができる。日夜変わることのない苦しみであり、それが数えられぬほどのものであっても、なお神だけはその一つ一つを見ておられる。また、私たちの悲しみの一つ一つをも覚えて下さるお方でもあること知っていた。神の皮袋に自分の涙の一滴一滴をたくわえて下さいとの祈り、それはどんな奥深い悲しみもただ、神だけは知って下さっているという実感から生まれた祈りなのである。
 そうした個人的にふかく神と結ばれた魂は、その時が来たならばその重苦しい闇から救い出される。この作者もまた神の言の力を知らされ、その言の通りに救いを受けて、神の言への深い感謝と讃美を捧げるようになる。
 信仰に生きるとは、こうした経験を重ねていくことであるだろう。死ぬほどに苦しい事態から助け出された経験、もう闇に沈んでしまうという絶望的な状況から、命の光のなかへと移された奇跡を実感すること、それが神を信じる者に与えられた恵みだと言えよう。


キリストが変えて下さったこと

 聖書は旧約聖書と新約聖書の二つがあり、その二つを合わせて聖書といいます。しかし、旧約聖書と新約聖書では大きく異なっている点があります。キリストによって変えられたことはきわめて大きいのです。
 旧約聖書で言われている神と、新約聖書での神とはもちろん同一であり、その神の本質は変わることがなく、神への信仰の本質も変わりはありません。そのことはつぎのように表すことができます。

 唯一の神がおられ、その神は、天地万物の創造者であり、愛と真実、そして正義の神であること。それゆえ、罪を悔い改める者は、赦しを与えるが、真実に背き続ける者に対しては必ず裁きを与えるお方であること。神は、永遠に存在すること。神は生きて働いておられること。
 このことは、つぎのような箇所にもはっきりと記されていますが、旧約聖書の全体がそのことを示していると言えます。

主は彼の前を通り過ぎて宣言された。「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」(出エジプト記三十四・67
 旧約聖書の神は、義の神であり、裁きの神であるが、新約聖書の神は愛の神であるなどということが言われたりします。しかし、旧約聖書をよく読んで見ると、すでに引用した箇所以外にも、神は愛の神でもあることがはっきりとわかるのです。旧約聖書の詩編はそうした神の愛に動かされた人の心が深く刻まれています。また、旧約の預言者たちは、神の愛と義を宣べ伝えていたといえるのです。
 
 ここではどんなことがキリストによって変えられたのかを見ておきます。
(1)旧約聖書では、ただ神だけが崇拝の対象であったけれども、新約聖書においては、神とキリスト、そして聖霊も同じ神の異なる現れであって、同質であるということが啓示されました。このことを三位一体という言葉で表しています。
 ですから、旧約聖書ではただ神だけが罪を赦すことができたのですが、新約聖書では、キリストも罪を赦すことができるお方であることが示されていますし、神に対して祈るのと同様に、主イエスに対しても祈ることができるようになりました。
 このことはきわめて重要なことであり、キリスト教の根本をなすことでもあるので、ヨハネ福音書では、その冒頭にキリストが神と同質であることが明確に記されていますし、ヘブル書でもやはり冒頭にそのことを記しています。

初めに言(キリストのこと)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言は、自分の民(イスラエル)のところへ来たが、民は受け入れなかった。・中ヲ言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。(ヨハネ福音書一章より)
 
 この箇所は、マリアから生まれる前、永遠の昔からキリストは存在していたこと、キリストは神と同質であることが記されていて、そのキリストのことを「言」と言っています。これはギリシャ語ではロゴスと言いますが、これはロゴスというギリシャ語がもともと、単に「言葉」という意味だけでなく、「理性、万物を支配する根源的なあるもの」という意味を持っていたので、その言葉が使われたのです。この箇所はキリストは肉体をもって、普通の人間としてイスラエルの民のところに遣わされたが、人々はキリストを拒んで十字架につけて殺してしまったことを指しています。

 つぎにヘブル書にもキリストが神と同質であることが記されています。

神は、御子(キリスト)によって世界を創造された。御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられるが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座に着かれた。(ヘブル書一章より)

 このような箇所以外にも、パウロの手紙などでも多くの箇所で神とキリストの同一性が語られています。それほどにこのことは重要なことであったのです。

(2)救いはただ信仰による。
 旧約聖書の時代には罪の汚れは、祭司が動物の血を用いた特別な儀式をしてはじめて除かれるということになっていました。

一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、雌山羊を引いて行き、その山羊を殺して祭司はその血を指につけて、・中ヲ祭壇四隅の角に塗り、残りの血は全、祭壇の基に流す。
捧げた人は雌山羊の脂肪をすべて切り取る。祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。(レビ記四章より)

 このような複雑な儀式をして初めて罪が赦されたのです。
 しかし、キリストの時代になってから、ただキリストを信じるだけ、キリストの十字架上での死によって私たちは罪の力から救い出されたと信じるだけで、罪からの救いが与えられるということになりました。旧約聖書の時代から比較すると考えられないほどに単純にして明確となったのです。

(3)復活について
 旧約聖書の時代には死んだら黄泉(よみ)の世界に行って、暗く影のような状態でいると思われていました。死んだ後に復活するという信仰は、旧約聖書の大部分においては見られません。ただ、ダニエル書とか詩編の一部、ヨブ記など、キリストの時代に近い時期に書かれたと考えられている文書には、少し死後の復活ということが暗示されているだけです。
 しかし、キリストが復活されてから、信じる者はすべて復活する、霊のからだに復活すると約束されています。

(4)旧約聖書の神はおそれ多い神であり、一般の人々は神のもとに出ることができなかった。モーセが十戒を受けるときも、民はモーセが神に近づくために上ったシナイ山に近づくだけでも、殺されると記されているほどです。また、人間は汚れているので、神を見ると死ぬとされていたのです。
 しかし、キリストは神のことを「父」と親しく呼ぶことを示されました。これは、旧約聖書時代にはなかったことです。モーセもエレミヤやイザヤ、あるいはダビデなども神のことを「父」と呼んだことはなかったのです。
 神を父と呼べるということは、それまでは遠い存在であった神を、最も身近な存在として私たちは祈り、語りかけることができる存在であることをキリストが初めてはっきりと示されたと言えます。このゆえに、日々の祈りでも、神に向かって親しく「天のお父さま」と呼びかけることができるようになったのです。主イエスが示された、主の祈りでも、その冒頭に、「天にいます私たちの父よ」という呼びかけから始まっています。

(5)旧約聖書では、一夫多妻が認められていたが、新約聖書では明確な一夫一婦となった。
 旧約聖書の最大人物の一人、アブラハムはサラとハガイという二人の女性をめとったとあります。また、ヤコブもレアとラケルという二人の女性以外にも、レアの召使いであったジルパ、ラケルの召使いのビルハという女性たちも妻のようにめとったことが記されています。
 そしてこのようなことは、悪いこととは言われておらず、そうした何人もの女性から生まれた子供は対等の存在であったことがわかります。またダビデも多くの妻を持っていました。
 しかし、キリストの時代以降は、結婚とは、一人の夫には一人の妻が正しい関係となり、それはキリストとキリストの集会を象徴的に表すという重要な意味をもつようになったのです。

(6)前項と関係しますが、旧約聖書では、割礼をしていない者は断たれる。とはっきり言われています。割礼という、身体の一部を傷つけるようなことをしなかったら、神の民ではなくなるということでしたが、新約聖書においては、割礼は救いとはまったく関係がないという真理が明らかにされました。

(7)汚れとか、特定の食物の禁止について
 豚やイカのような食物を食べたり死体に触れると汚れるとされ、その汚れを清めるためにはまた儀式が必要となったのです。
 また、旧約聖書では、つぎのように書いてあります。

脂肪はすべて主のものである。脂肪と血は決して食べてはならない。これはあなたたちがどこに住もうとも、代々にわたって守るべき不変の定めである。(レビ記三・1617

牛、羊、山羊の脂肪を食べてはならない。・中ヲ燃やして主にささげる物の脂肪を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。鳥類および動物の血は決して食べてはならない。血を食べる者はすべて自分が属する民から断たれる。(レビ記七章2327より)

 しかし、キリストはつぎのように言われました。

口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。・中ヲ
すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。(マタイ福音書十五章より)

 このように、人間の汚れは、口から入る食物から来るのではなく、心にあるさまざまの悪い思いによって汚されるのだと教え、食物によって汚されるなどということは有り得ないことを指摘されたのです。これを見ても、いかに旧約聖書とキリストの教えが隔たっているかがわかります。

(8)武力による戦争
 旧約聖書では、戦争は数多く記されています。神ご自身がそうした戦いを命じて、敵を滅ぼせと言われることもありました。
 しかしキリストはそうした武力の戦争を全面的に反対され、キリスト者の戦いは、悪の霊との戦いであることを明確にされました。このことは、主イエスご自身の言葉に、「剣を取るものは皆、剣によって滅ぶ」(マタイ福音書二六・52)とあります。また、キリストは、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、人間に対する究極的な姿勢を指し示されました。悪人を殺すことによってでなく、悪人の心に宿る悪が除かれ、聖霊が相手に注がれるように祈ることがキリスト者のあり方だと教えられたのです。そして、キリストの霊を最もゆたかに受けた使徒パウロは、今月号に詳しく書いたように、「キリスト者の戦いは、目に見える人間に対するものでなく、悪の霊に対する戦いである」と明言しています。
 
 以上のように、旧約聖書と新約聖書では大きく異なっている点がありますが、それはキリストがそのすべてを変えられたのです。しかし、そのキリストの重要な変革を無視して、旧約聖書時代のことをそのまま、キリスト教だと言い出す人たちはいつの時代にもいました。
 キリストと神が同一の存在であるのに、旧約聖書のように、神だけを崇拝するといい、キリストは人間だと称するのは、キリストと聖霊が神と同質であることを受けようとしない誤りです。現代のエホバの証人もその誤りを犯しています。
 また、一部のプロテスタント教派には、豚とかタコを食べてはいけないなどという禁令を持っているのも、食物に関するキリストの変革を信じないからです。
 またモルモン教のように、旧約聖書時代の一夫多妻を主張する教派もありますがこれも結婚に関するキリストの革命的な教えを受け取らないところからきています。
 また、エホバの証人のように、血を食べてはいけない、そこから輸血をしてはならないなどというのも、全くキリスト教とは関係のない主張だとわかるのです。
 さらに、善行とか特定の儀式をしなければ救われないというのも、救いに関するキリストやキリストの霊を最もゆたかに受けたパウロの信仰を正しく受け取らないところから生じています。
 前号でも述べたとおり、キリスト教国といわれる国やイスラム教が戦争を肯定しているのも、旧約聖書の聖戦というのをそのまま受け入れているからですが、これもキリスト者の戦いが、特定の人間や国家に対するのでなく、悪の霊に対する戦いであり、敵のために祈れというキリストの真理を受け取らないところから生じたことです。
 私たちはキリストの本当の真理を知るためにも、旧約聖書と新約聖書を共通して流れているものと、大きく変えられた点を正しく認識する必要があるのです。
 そうでなければ、神の御意志でないことを、まちがって神の意志だとしてしまい、多くの罪を犯すことになるからです。

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