キリスト者の戦いと武器    2001/11

悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる(*)悪の諸霊を相手にするものなのです。
だから、邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。
立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。
また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。
どのような時にも、霊(聖霊)に助けられて祈り、願い求め、すべてのキリスト者たちのために、絶えず眼を覚まして根気よく祈り続けなさい。
また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。

*)新約聖書の時代には、天といっても、単一でなく、さまざまの天が階層をなしていると考えられていた。ヘブル語やギリシャ語でも、「天」という語は聖書では複数で用いられていることも、古代人が天というのをさまざまの層からなっていると考えていたことを暗示している。「キリストもすべての天を越えて高く上った」(エペソ書四・10)と記されている。パウロも第三に上げられたと言っている。(コリント十二・2

 この聖書の箇所で、キリスト者の戦いとはどういうものか、そしてその戦いに与えられている武器(武具)とは何であるかが詳しく書かれている。
 まずはっきりしているのは、キリスト者の戦いは、「血肉に対するものでない」ということである。血肉とは、人間のことであり、個々の人間やその人間の集まりである社会、国家などであるがキリスト者の戦いはそうした目に見える人間ではないといわれている。 この聖書の言葉が明らかに示していることは、キリスト教は武力による戦争を否定しているということである。歴史の中で、多くの国々がキリスト教国と言われながら、武力の戦争を行ってきた。これらはみなこの聖書の言葉に照らすとき、キリスト教の教えに反する行動であったのがわかる。よく一般の人が十字軍などの例をとって、「キリスト教も戦争をしてきた」などというが、それは大きな間違いであるのがわかる。
 キリストご自身も、「剣を取る者は剣によって滅ぶ」と言われ、弟子のペテロが剣を抜いて敵に切りかかろうとしたのを戒めて、剣を納めさせたことが記されている。
 また「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と教えられ、自らもいかなる敵対者に対してもいっさいの武力を用いようとはせず、捕らえられて十字架刑にて殺されるに至ったのである。
 これは、キリスト教の歴史で最初の殉教者となったステパノの例でもよくわかる。彼は、ユダヤ人の歴史上での罪を指摘したとき、彼らの激しい憎しみを受けて、町の外まで引きずっていかれ、ユダヤ人から石を投げつけられて死ぬほどになった。その時であっても、なお、ステパノは敵対する者たちを撃退しようとせずに、「主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい!」と祈って息絶えたのであった。
 キリスト教とはこうした生き方を究極的なものとして指し示している。
 この時、ステパノは敵と戦わなかったのか、そうでない。彼らを支配する目には見えない力、悪の霊との激しい戦いをしていたのであった。悪の霊との戦いは、神を見つめて、悪事をなす人たちの心からその悪の力(霊)が除き去られるようにと祈ることである。ステパノはまさにそうした戦いを最後まで続けていたのであった。
 そしてこのような憎しみのなかにあってもなお、神を見つめ、神の愛をもって祈りを注いだことで、悪の霊との戦いに勝利しつつ、天に帰ったのである。
 ここでわかるように、初めての殉教者であるステパノも武器を持っていた。身を守る武具を身に着けていたのがわかる。
 それはどんな武具であり、どんな武器であったのだろうか。
 ここにあげたエペソ書でそれを見ていきたい。
 まずつぎのように言われている。

立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、
平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(エペソ書六・14

 まず、衣服を身に着けるとき、帯をしっかり締めることが最初になすべきことであり、そのために、パウロは、真理の帯を締めよと言われている。ここで真理と訳された言葉は、アレーセイア(aletheia)といって、他の箇所では「真実」とも訳されているし、文語訳聖書では「誠」とも訳されている。(「汝ら立つに誠を帯として腰に結び・中ヲ」)
 私たちが歩みを始めるときにまずなにをもって立つのか、それは真理であり、真実である。主イエスは別のところで、こう語っておられる。

まことの礼拝をする者たちが、霊と真理(真実、まこと)をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。(ヨハネ福音書四・23

 このように、神を礼拝するということは、形式や特殊な宗教的な服装、あるいは場所とかが重要なのでなく、まず、真実の心をもって、神の霊を受けつつなすことである。
 このような姿勢こそが、悪の霊と戦うときの出発点なのである。
つぎに、「正義を胸当てとして身に着けよ」と言われている。
 このようなたとえは、私たち現代人にはわかりにくく、読み飛ばしてしまうことが多いのではないだろうか。なぜパウロがこうしたたとえで語っているのか、立ち止まって考える必要があるだろう。
 正義の胸当てを着けるとは、人間の自然な正義感をしっかり持て、ということなのだろうか。そもそも、正義とは私たちが持っているものだろうか。
 それに関しては、世の中で自分こそは正義の側に立っていると思っている人がいるかも知れないが、聖書の立場に立つときそうした自分の正義、人間が持っている正義などというものは根本から崩れ落ちてしまう。
 パウロは旧約聖書を引用してその代表的な文書でつぎのように述べている。

「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。・中ヲ誰一人神の前では義とされない。(正しいとはされない)」(ローマの信徒への手紙三・1012

 このように、正義の胸当てを着けるといっても、私たちは生まれつきの正義などは持っていない。生まれつきの正義感は、時代や状況によって大きく変化する。例えば、江戸時代であれば、親が不正な仕方で殺されたら、その仇討ちをしなかったら、正義感が許さないだろう。忠臣蔵が有名なのは、その正義感、忠実さに感動するからでもあるだろう。しかし現代において、仇討ちといってだれかを殺せば、それは殺人という最大の罪になる。また太平洋戦争では、ほとんどの人が、鬼畜米英といって、アメリカやイギリスなどを攻撃して多量に殺すことが正義だと思いこんでいたのである。
 このように、人間の正義感などというものは実に当てにならないものである。だからパウロも、神という絶対的な正しいお方の前では、一人も正しいと言える人はいない、みんな不正なものにすぎないと言っているのである。

 こうした事実を知っている者にとって、「正義の胸当て」を着けるとはどういうことなのかと戸惑うだろう。
 しかし、私たちには、まったく別の正義があり、神の前ですら、正しいとして下さるような正義を与えられると約束されている。それは、キリストを信じることによって、だれもが神の前で、もうそれでよいのだ、正しいのだとされるというのである。それが「信仰によって、義とされる」という意味なのである。義という言葉は、聖書に特有のものであり、一般の人は現代ではほとんど、「義」などという言葉を使わない。しかし、このもとにある原語(ギリシャ語)は、「義」も「正義」も同じ言葉なのである。(ディカイオシュネー dikaiosune
「信仰によって義とされる」という表現は、新約聖書で最も重要な言葉のうちに含まれるが、それは、キリストが私たちのために十字架で死んで下さった、それが私たちの罪をぬぐい去るためであったと素朴に信じるだけで、神は私たちの過去の罪をないものとして扱って下さり、私たちが、驚くべきことに、神の前でも正しいとみなして下さるということなのである。
 私たちが正義の胸当てを着けるとは、キリストを信じる信仰によって、神に義とされたという実感を深く持って初めて、悪の霊との戦いが可能になると言う意味なのである。
 私たちの心の奥で、やましさが残っていてそれが絶えず私たちの魂の奥で攻撃してくるとき、私たちの魂は揺さぶられ、到底悪との戦いにはならない。
 
 つぎに、言われていることは、次のことである。

平和の福音を告げる準備を履物としなさい。(15節)

 平和という言葉は、国家どうしの戦争がない状態を連想させるだろう。とくに現在の世界情勢のようなときには、いっそう国家間の平和を思い出すと思われる。しかし、ここでは、そのような意味での平和を告げることは内容としては言われていない。キリスト教の福音でいう平和とは、第一義的には、神と人との平和のことである。(この神との平和があってはじめて、そのような人間の集まりも全体としての平和が生まれる。)

このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており・中ヲ(ローマの信徒への手紙五・1

 神との間の平和とは、ふつうのマスコミや、一般の日本の文学などではまったく使われない表現である。私たちはふだんは、真実に反すること、愛に背くことを数々行っているし、そのようなことを実際に行っていなくても心の中で、行っていると言えるだろう。神とは、真実そのもの、愛そのものであるから、そうした人間の状態は神に背いている状態であり、神との戦いの状態にあると言える。そのような状態が変わるためには、人間の側の背きが根本から変えられねばならない。キリストを信じて、そうした背きが十字架でキリストが死ぬことによって変えられたのだと、信じて初めて、私たちの背きが赦されて神の前に正しいとされる。
 そうして初めて私たちは神との間に平和を与えられたと言える。このような神との間の平和こそ、キリスト教が最も力を入れて宣べ伝えている内容だといえよう。
 そうした神との平和、神によって罪が赦されて神を心から「父よ!」と言えるようになること、それが福音の内容なのである。
 こうした神との間の平和を告げ知らせること、その準備をいつもしている。それがパウロがここで勧めていることだ。悪の霊との戦いのさなかにおいても、福音を告げる備えをしている、それほどに何が生じようとも、福音伝道を第一にしていたことがうかがえる。 
なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる。(16節)

 盾とか、火の矢などという表現もまた、現代人にはわかりにくい。しかし、パウロが言おうとしていることは、よくわかる。悪をなす者たちは、つねに悪意の火の矢を射ようとして待ちかまえている。そしてその悪人や迫害する者たちの放つ矢は火の矢であるという、それは人間に当たれば、効果が大きく建物ならば、火で燃えてしまう強力なものとなる。
 先ごろのテロ事件もイスラム原理主義の一部の人たちの激しい敵意や憎しみがアメリカの最大級のビルに、いわば火の矢となって打ち込まれた事件であった。そしてそのすぐ後、アメリカは逆に報復の火の矢、憎しみの火の矢をもって、テロを起こしたと見られる人々に向かって攻撃しているのである。
 私たち一人一人の生活においても、憎しみの火の矢は信仰なければ、心の奥深く突き刺さって苦しみ続けることになる。聖書に現れる人たちは、神こそ、私たちの頼るべき岩であり、またさまざまの危害を防いで、私たちの心身に悪意の矢が当たらないようにして下さる。こうしたことは詩編にも多く歌われている。つぎのはその一つである。

主はわたしの岩、・中ヲわたしの盾、(詩編十八・3より)

 ここで言われていることは、悪の霊との戦いにおいても、つねに悪は人間を使って、その攻撃をしかけてくる。その時、神は万事を支配されているという信仰こそ、主が私たちの盾であることを知らされるのである。

 次にキリスト者の攻撃の武器は何だろうか。

また、救いを兜(かぶと)としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(17節)

 救われたという確信こそが、兜(かぶと)となる。兜は最も重要な頭を守る武具である。救いを兜としてかぶるとは、救われたという確信をしっかりと持っていたら、私たち人間の中心にあるものは、破壊されない、ということであろう。主イエスによって救われたという確信がなかったら、到底悪そのものと戦うことはできない。それどころか、悪のただなかに引き込まれてしまうだろう。
 それではキリスト者の攻撃の武器となるものは何であろうか。
 霊の剣、だと言われている。それは神の言。どうして神の言が聖霊の剣だと言えるのだろうか。
 剣とは最も攻撃的な武器である。剣で相手を一撃のもとに倒すことができる。それと同様に、私たちに悪の霊が襲ってくるとき、神の言にすがることによって、悪を撃退することができるという意味が含まれている。
 このことで、よく知られた例は、キリストご自身が示されたことである。主イエスはその伝道の最初に、悪魔によって誘惑を受けた。そして神から与えられた力を自分の欲望のために使おうとするのか、あるいは神のため使おうとするのかが、問われた。そのとき、主イエスがその誘惑を退けたのは、複雑な議論とか、自分の考えとかでなく、神の言であった。旧約聖書で主イエスより数百年も昔に言われた神の言そのものであった。

イエスは答えた。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」 (マタイ福音書四・4

 このようにして、悪魔からの重ねての誘惑をすべて、旧約聖書に書かれた神の言をただ持ち出すだけで、悪魔は退いて行ったのである。ここにもいかに神の言が力あるものかがはっきりと示されている。
 私たちにとっても、この世のさまざまの出来事や誘惑に動揺するとき、神の言にあくまですがっていくときには、そうした誘惑する悪の霊を退けることができるというメッセージが込められている。
 このように、キリスト者が悪の霊との戦いをなすにあたって、自分を守る武具と、敵を攻撃する武器をゆたかに与えられていることを覚えて、戦いへと歩みだすよう、うながされている。
 この霊の戦いの記述に並んで、次は何を書いてあるかというと、パウロは自分自身のためにも祈って欲しいと繰り返し求めている。

また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
わたしはこの福音の使者として鎖につながれていますが、それでも、語るべきことは大胆に話せるように、祈ってください。(1920節)

 パウロほどのキリスト教史上で、最も大いなる働きをした人であっても、なお人々に対して祈って欲しいと願っている。というより、そのようなキリストの霊を豊かに受けていたからこそ、互いに祈り、祈られることの重要性を深く知っていたのである。
 キリスト教の集会や教会(エクレーシア)というのは、キリストのからだであると言われている。目には見えないキリストのからだであるからこそ、互いに祈り合うということが自然なはたらきとなる。
 こうしてキリスト者の戦いという内容についての箇所は、祈りへの言及をもって終わっている。
 祈りがいかに戦いにおいて重要であるか、それは、すでに旧約聖書にも記されている。
モーセが手を上げていたら、戦いに勝ったが、手を下げると敵が勝った。しかし、モーセの手が重くなったので、他の人が、モーセの手を支えた。(出エジプト記十七・11より)
 手を上げているとは、神に祈っているという象徴である。神に祈り続けていることは、神の力を受け続けていることであるから、戦いに勝つ、しかし手を下ろすとそれは祈りを止めることであり、敵が勝ってしまう。そこでモーセの仲間がそのモーセの祈りをともに支えたということである。
 また、イスラエルの人々が長い荒野での放浪を終えて、目的地のカナン地方に入っていくとき、エリコという町全体が、城壁に囲まれていてその門が堅く閉ざされ、だれも入ることができなかった。そのときに、主は民を指導していたヨシュアに言われたことが、つぎのようなことであった。
 
七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい。
彼らが雄羊の角笛を長く吹き鳴らし、その音があなたたちの耳に達したら、民は皆、ときの声をあげなさい。町の城壁は崩れ落ちるから、民は、それぞれ、その場所から突入しなさい。(ヨシュア記六・35

 これは、驚くべき記述である。神への礼拝をつかさどる祭司の人たちが神の言をおさめてある神の箱を先頭にして進んでいき、七日目に七回、町を取り囲む城壁をまわって角笛を吹き鳴らすなら、ほかの方法では打ち破れない堅固な城壁が崩れ落ちるというのである。ここには、七人、七日目、七周というように、七という数字が繰り返し使われている。これは、神の御意志にかなうことを象徴している。私たちの祈りが神の言を第一に重んじる姿勢を保ち、神の力に全面的に頼る姿勢を持っているなら、大きな敵の力も神が崩されるということを意味している。
 
祈りと戦い
 キリスト者の戦いは、目に見える人間やその集まりである国家とかでなく、目に見えない悪の霊との戦いである。とすれば、すでに述べたように祈りはその戦いの最も重要な場になると言えよう。祈りなくば、戦えない。主イエスは、「つねに目を覚ましていなさい。」と言われた。それは、つねに祈れということでもあった。
 これは、パウロの手紙を見てもよく現れている。
パウロはローマにいる信徒に次のように心からの願いを述べている。

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、霊(聖霊)が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください。
わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ、エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように・中ヲ(ローマの信徒への手紙十五・30

 ここで、「熱心に祈って下さい」と訳されている箇所の原文(ギリシャ語)は、
「祈りの内で、ともに戦って下さい」(*)であって、単に祈りが熱心であることを求めているのではない。

*)この箇所の原語は、シュナゴーニゾマイ(sunagonizomai )であって、シュン(共に)と、アゴーニゾマイ(戦う)の二つから成っている言葉である。この後の方の、アゴーニゾマイ(戦う)という語は、実際に例えば、つぎの箇所のように、「戦う」と訳される言葉である。

わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。(ヨハネ福音書十八・36

 このような祈りにおいて戦うということは、他にもみられる。

彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています。(コロサイ書四・12

 ここでも、「熱心に祈っている」と訳された原文は先にあげたのと同じ表現、「祈りの内で、戦っている」という表現なのである。

 福音伝道はつねに戦いがつきまとう。それは自分の内なる罪、他の人間を動かしている罪との戦いであり、悪の霊との戦いである。キリストの生涯ははじめから悪との戦いから始まっていた。
 主イエスが生まれたとき、当時の王は、イエスを殺そうとして、行方がわからないとみるやそのあたりの幼児を皆殺してしまったと記されている。このように生まれたときから悪はイエスに襲いかかってその力を失わせようとしているのがわかる。
 そして、成人してこれから福音伝道の生涯に入るときには、故郷のナザレにて会堂で聖書を読まれが、その直後にユダヤ人から激しい憎しみを受けて、イエスを町の外に追いだし、山の崖まで連れて行き、突き落とそうとまでしたのであった。(ルカ福音書四章より)
 この事件も、主イエスが伝道をしようとしたら、たちまち悪の霊が働いて伝道の働きを破壊しようとしたのがわかる。
 こうして主イエスは生涯の出発点か悪との戦いから始まっているのであって、決して自分だけの研究とか付近の人たちの歓迎するような状態ではなかったのである。
 キリスト者とはキリストにつく者であるからには、キリスト者にもなんらかの戦いが生じるのは当然だということになる。しかし、その戦いには、武器もあるし、すでに勝利している保証すら与えられている。

あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ福音書十六・33より)

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