リストボタン休憩室    2001/11

十一月中旬に、松山を経て四国の西の端、佐多岬半島を経て大分から阿蘇を通り、熊本にまで初めて車で通る機会がありました。ちょうど、秋の紅葉の季節で、山々の随所に赤く、黄色、褐色の葉が見られ、彩りゆたかな行程でした。佐多岬半島の山間では、あちこちに真っ白い花びらをもつ、リュウノウギクが見られて目を楽しませてくれました。このキクは徳島ではわずかしか見られないのに、佐多岬半島では多くの群生が見られて、大分県に渡った所でも、海岸沿いの山肌にこの白いリュウノウギクがよく見えました。地域によってある野草の分布が大きく異なる例だと感じます。

冬が近づいて夜空は星たちの美しさが目立つ頃となっています。夜十時頃に東の空に向かって立つと、まず目に入る際だって明るい星、じっとまばたきせずに輝いている星が見えます。それが木星です。またその南(右方)にはオリオン座が見えています。そしてオリオン座の上方に雄牛座の一等星(アルデバラン)が赤く輝きそのすぐ横に並んで見えるのが土星です。土星はまはたきをしないこと、アルデバランは赤い星であることなどから、この区別はすぐにできます。一年中で最も明るい星が多く、しかも天の一部分に集まるようにして輝いているので、月のない澄んだ夜には壮観ともいうべき星の輝きを見ることができます。
 
柿の木
 わが家にはもう五十年以上も実をつけ続けている渋柿の木があります。なにも肥料もやらず、剪定などもほとんどしないのに、毎年実をつけます。柿の実る頃は葉も色づき、実も秋の空や緑の山に映える赤い色となり、秋らしい雰囲気をたたえてきます。そのような中で、実は熟柿となり、甘く柔らかくなります。柿は葉が薬用ともなり、実は栄養豊かな食物、そして秋になると外観は秋らしさを添える木であり、日本で古来親しまれてきたのもうなづけます。また柿の学名は、Diospyros kaki(ディオスピロス カキ) と表され、その前半の Dios とは、ギリシャの神を表し、pyros とは、穀物(小麦)を意味します。それで、柿の学名は、「神の食物」という意味になります。このような学名がつけられたのはそれが栄養豊かで美味であるからだと思われます。


返舟だより

九州への旅
 十一月十六日(金)から十九日(火)まで、松山、大分、熊本、福岡県などにて聖書の言を語る機会が与えられ、広島県では二箇所の教友を訪ねて讃美や聖書の言とともに主にある交わりを与えられて感謝でした。また、最後の日には、以前から訪問したく思っていた愛媛県東部の若干の「祈の友」会員を訪ねることができました。
 み言葉それ自身の力がはたらき、各地でいっそう神の言が一人一人の心に留まり、力を発揮するようにと願っています。
 やはり、パウロも言っているように、手紙とか電話だけでなく、「顔と顔を合わせて見る」ことの大きい意義を感じます。主を信じる者が二人、三人と集まるとき、主がそこにいて、よきものをそれぞれに与えて下さるという気がします。し
 大分市から、秋色濃い山々の連なるただ中にある、九州中央部の竹田市を通り、阿蘇方面に向かいましたが、途中で、気温の低さなどから竹田市が山々に囲まれたかなりの標高の場所だとわかりました。今年の三月号の「はこ舟」に書いたことですが、江戸時代のキリシタン迫害が厳しくこの山里の竹田の村にもなされ、つぎのような出来事があったと記されています。
 大分県竹田のある村はキリシタンが多かった。村長もキリシタンで、二人の息子と長男の妻もその子たちも信徒であった。領主は、この一家がキリシタンをやめるならば他はみのがしてやろうともちかけた。村長はどうすればよいかと困り果て、家族の反対を押しきって、独自の判断でキリシタンをやめるという誓いの文を提出した。
 村長である父は息子にいった。
「おまえたちは自分で誓いの文を提出したのではないから、知らぬふりをしておればよい。それが多くの人々を苦難に会わせないためなのだから」と。
 しかし、二人の息子は承知せず、領主のいる城へ、わざわざ自分たちはキリシタンであると名のりでたのである。
 幕府にキリシタンはいないと報告したばかりの領主は動揺し、二人を捕え、父にキリシタンを辞めるよう、説得させようとしたが、父は息子たちの真実な信仰に動かされて拒否した。こうして二人の息子は火刑に処されることになった。
 けなげであったのは殺されることになった長男の妻である。彼女は役人の脅迫に従わなかったため、腰巻ひとつの裸にされ、ざらざらして肌を刺す俵の中に頭だけだして入れられ、七日間、部屋にとじこめられた。
 七月の暑いさかりであった。それでも屈しない彼女を、役人は夫と義弟の処刑場に引きだし、かれらが火あぶりにされて殺されるすさまじい光景を見せ、背教しなければおなじ刑罰をうけることになろうと説きつけた。
 しかし、彼女はただ、「どんなことがあってもキリシタンであることをやめはしない」と答えるだけであった。
 役人は、いった。「もしおまえが死んだら、七人の子どもたちは身よりのない孤児になってしまうだろう。そんな不人情な母親になってよいのか」。
 これに対して、その女は答えた。「無慈悲なのはあなた様方で、わたくしではございません」。
 ついに問答に疲れはてた役人の手で、彼女は斬首された。首斬り役人が刀をふりあげてから二度、背教の意志はないかと聞いた。髪をたばねて首をすっかり見えるようにした女は、二度ともはっきりと「否」と答えた。(「日本の歴史・第十七巻」より。小学館刊)
 私は竹田市を通る間、このキリシタン迫害のことが念頭から去りませんでした。数百年の昔、この美しい自然のなかで家族とともに平和に生きることより、キリスト信仰のために、苦しめられ、殺されることをあえて選んだ人たちのことがたえず心に浮かんできたのです。それで、その記事を再び引用しました。

この迫害の事実からもわかりますが、信仰を与えられたからといって、私たちの悩みや苦しみが消えるわけではなく、時には、また人によってはそのゆえにさらに大きい悩みや問題を抱えることになる場合があります。旧約聖書にもそのような例は多く見られます。もう、神は助けては下さらないのか、という深刻な悩みも生じることがあり、モーセやエレミヤ、エリヤ、ダビデなど、またヨブといった代表的人物にもそのようなことが見られます。それでもその困難な道を主がともに歩んで下さっていると信じて歩むとき、たしかに主はわが岩、わが助けとなって下さるのであろうと思われます。

読者からの来信より
 季節によっていろいろの自然のことが述べられていて、そこに神様が創られた自然の美しさや、やさしさ、また偉大さが読んでいる文章のなかに現れています。神が言っていることや、救いのこと、気付かない点をいつもたくさん気付かされます。また聖書を読むときに以前よりもっとわかりやすくなりました。自分のなかに、神の言に関して知恵と知識が増し加わっていることにうれしく思っています。 私は盲人が見えるようになったという聖書の記述は、自分とは直接に関係のないひとつのイエス様の奇跡だとしか思っていませんでした。しかし、本当は私自身が目の見えない、また、足の悪い、耳の聞こえない者だったのですね。・中ヲ(最近「はこ舟」を送付希望されたある読者から)

・聖書はいつもほかの本やマスコミ関係の情報からは知ることのできない視点や英知を与えてくれます。書かれた神の言ですが、そこに聖霊の働きが加わると、生きて働く力となるのを感じる書物だといえます。しかし何らかの説明がなされないと分からない場合も多く、私自身も数多くの書物や人から聖書の真理を教えられてきたものです。日本に今後ともいっそうこの聖書の真理が広く知られて、唯一の神を知る人が起こされますように。


お知らせ

来年の四国集会
 来年度、徳島市で行われる、第二十九回 キリスト教四国集会(無教会)は、徳島市の眉山会館にて、五月十一日(土)~十二日(日)までの二日間で行われることになりました。従来の会場は障害者用の設備がなく、不便なこと、やや狭くて収容人員を越えたことなどの理由から、会場を変えました。また、冷房で体調を崩す方もおられるので、冷暖房の要らない気候のよい時を選びました。予定に入れておいて下さい。詳しい内容は、来年にお知らせします。

毎年発行しています、文集「野の花」の原稿を募集します。
・対象 集会員、「はこ舟」読者の方。
・字数 原稿用紙で二千字以内。
・内容 聖書の学びから、証し、信仰にかかわる体験、意見、今後の希望、集会のあり方等など自由です。ただし、内容や表現を若干縮小とか訂正することがあります。
・提出方法 パソコンでインターネットに加入している方は、インターネットで送って下さい。(それと共にコピー紙に印刷して手渡して下さい。校正がはやくできるからです。)
 またワープロはできるがインターネットに未加入の人は、ふつうのコピー紙に印刷して提出してください。(原稿用紙よりもワープロで印字して頂いた方が好都合です。スキャナで読みとりできますので。)いずれも経験のない方は原稿用紙に書いて提出して下さい。
・締切 十二月十六日(日)
・提出先 吉村まで 〒7730015 小松島市中田町字西山91の14 電話0885323017
今年のクリスマス特別集会は十二月二十三日(日)午前十時からです。


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