奪われること、与えられること    2001/12/3

 この世では長く生きるにつれて、得ることも多いが、次々と奪われることも多い。その第一は、健康であり、体力である。職業も定年ということで止めざるを得なくなる。家族もまただんだん少なくなる。そして趣味とか娯楽などもだんだんとできなくなっていくし、食事などの楽しみもまた、次第になくなっていく。ことに病気の種類によっては、いちじるしい食事制限を強制されるし、病気が重くなると歩くことも、食事すらできなくなる。あげくの果てには、ベッドに縛られた状態になってしまうことすらある。
 若いときのあれほどの健康、自由、楽しみ、旅行、友人、職業、家庭、遊び等などはすべて徐々に奪われていく。自分がどんなにそれらをしっかり持っていたいと思ってもむりやりにもぎ取られていく。
 老年になって病気で入院するとき、そうした喪失が一挙に押し寄せてくる。 
 その時、もし逆に与えられるものがなかったら、到底心を安んじて毎日を過ごすことはできないだろう。
 聖書にある有名な言葉「求め続けよ、そうすれば与えられる。門をたたき続けよ、そうすれば開かれる。探せ、そうすれば見いだす。」は、こうした老年期になっていっそう光を帯びてくる。
 つぎつぎと失われていくことばかり多い日々にあって、なお、新しく与えられることがあるのだ。「求めよ、さらば与えられん」という主イエスの言葉は、老年になったらこの言葉は通用しない、若いとき、元気な時だけに通用する約束だなどとは言われていない。奪い取られていくただなかにあっても、私たちが真剣に主を仰ぎつつ求めるときには与えられるものがある。目には見えない宝、神の国の宝が与えられる。
 ああ、幸いだ、心の貧しい者は。
 というのは、その人たちには、神の国が与えられるから。

 と主は言われた。次々に奪われていくこの世にあって、心(霊)において高ぶりや自慢を持たず、人間の持っているものの限界を知り、幼な子のような心で主を仰ぐときには、最大の宝といえる神の国が与えられるという。すべてが失われ、奪われていく過程で、心が砕かれるとき、信仰なくば、絶望でありいい知れない悲しみや淋しさであるだろう。しかし、信じる者には神の国が与えられる。

わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(ピリピ書四・19

 私たちが不十分と感じても神は十分なものを下さっている。パウロのような歴史上で最大のはたらきをしたキリスト者であっても、なお、自分に欠けたところ、病気の苦しみを訴えて求めたが、神からは「神の恵みはお前には十分である」との言葉があった。あれほど聖霊がゆたかに与えられた人であっても、なおそのようにいつも十分に神の答があるとは限らないのがわかる。長く、繰り返し祈り続けて、それが聞かれない苦しみをもさんざん味わったあげくにようやく神からの応答を受けたということである。
 私たちもいくら祈っても聞かれないと思うような時でも、それが神の十分な恵みだと、神からの直接の語りかけを受けるとき、初めて主の平安を与えられるのだと思われる。


死に勝利すること 

 死とはどういうことなのか、単にすべてがなくなってしまうことなのか、私たちはすべて死というものに向かっていると言える。死とは何かを知らないで毎日を過ごすということは、いわば列車に乗っていてその目的地を知らないで乗っているということになる。目的地を考えないで、列車に乗る人などいない。しかし人間の最終駅と言える死ということを考えないで生きている人が実に多いのは不思議なほどである。しかもその目的地のことを間違って受けとめている人が圧倒的に多いのである。
 列車の目的地が列車ごとすべて破壊されるような所なら誰も平気で乗ってはいない。しかし、死んだらすべてが終わる、身も心もなくなり、破壊されると信じていながらその重大性を心に留めないで生きている場合が多数を占めているようである。
 哲学も宗教もみんな死とは何かということ、死を克服する道はあるのかという問題に特別な関心を抱いてきたのは当然である。
 ギリシャ哲学の代表的人物であるソクラテスは殺される前につぎのように述べている。

 死を恐れるということは、英知がないのに、あると思っていることにほかならない。なぜなら、それは知らないことを知っていると思うことだからだ。というのは、死を知っている者は、誰もいないからである。もしかしたら、それは一切の善いもののうちで、最大のものかも知れないのに、彼らはそれを恐れている。あたかもそれが害悪の最大のものだと知っているかのようにだ。
 私は死後のことについてはよく知らないから、そのとおりに知らないと思っている。しかし、はっきり知っていることがある。不正なことをするということ、神でも人でも自分よりすぐれている者があるのに、これに従わないということは悪であり、醜いことであることを知っている。だから私は、はっきりとはわからない死を恐れたりは決してしない。(ソクラテスの弁明二九A~B)
 
 このように、死ということを恐れず、死刑を受けたのは、死そのものが何であるか定かではないが、神からの指図というものに従った結果であるという。

 そして、別のプラトンの著作では、ソクラテスはつぎのように述べている。
 
 私がこれから行く死後の世界は、第一にこの世の神々とは別の賢明で善い神々のもとへであり、またこの世の人々よりもすぐれた、すでに亡き人々のもとへであると考えている。だから私は死を厭わないのである。・中ヲこの上もなくよい主人(神々)のもとへ行くということは、なにかこのようなことで断言できることがあるとすれば、これこそまさにそうだということを知っておいてもらいたい。私は死んだ人にとっては、何かがある、しかも昔から言われているように、善き人々にとっては悪しき人々にとってよりもはるかによい何かがあるという希望を持っているのだ。(「パイドン」63BC
 
 このように言って、死の彼方にあるものを断言できないにしても、善き神々のもとへいくということへの強い希望を持っているのを現している。しかしこの死後どうなるかは、おぼろげで、ソクラテスやプラトンほどの天才的哲学者であっても、なお確言できないことであった。
 こうした死に対する不明瞭な思いは、旧約聖書においてもみられる。
 聖書においても当然死とは何かということは、最大の問題であった。しかし、旧約聖書においては、死とはなにか、死の彼方にはなにがあるのかということについては、驚くほどわずかしか書かれていない。旧約聖書の根本となっている創世記から申命記までの五つの書物はモーセ五書とも言われているがそこに現れる信仰の人たちは、死後の希望ということは何も触れていない。
 最初の人間として名が知られているアダム、ノアたちも単に「死んだ」と記されているだけである。また信仰の父として現在まで計り知れない影響を及ぼしてきたアブラハムにしても、

アブラハムの生涯は百七十五年であった。
アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。
(創世記二五・78
 と記されているにすぎない。現在では国や民族の名として知られているが、イスラエルという名はもともとヤコブの別名として神から与えられたものであったが、そのように重要なヤコブもまた、「ヤコブは、息子たちに命じ終えると、息を引き取り、先祖の列に加えられた」(創世記四九・33)と書かれているだけである。

 また、旧約聖書最大の重要人物といえるモーセについては、つぎのように記されている。
モーセは死んだとき百二十歳であったが、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。(申命記三四・7
 このように活気ある状態であったにもかかわらず、モーセの死後はどうなったのかについては全く触れられていない。
 つぎに旧約聖書の詩編のもとを書いたとされる武人であり、王にもなり、また音楽もよくしたダビデの最期も同様であって、つぎのように書かれている。

ダビデは先祖と共に眠りにつき、ダビデの町に葬られた。(列王記上二・10

 このように、旧約聖書を読んで驚かされることは、死というものに対して、死後はどうなるのかという疑問とか記述がほとんどないということである。いかに優れた神の僕であってもみんな、先祖の列に加えられたとか、眠りについてという、死の別の表現をとっているだけである。

死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、
陰府に入ればだれもあなたに感謝をささげない。(詩編六・6

 このように、旧約聖書においては、死後の世界というのは、はっきりとはわからないが、何の希望もなく讃美も感謝もないような、影のような世界であると考えられていたのがこうした詩からもうかがえる。この点では、ソクラテスやプラトンらが持っていたような、何か善いことがあるという希望も記されていないほどである。
 こうした死後の世界がどうなるのかわからないという状況から、次第にキリストの時代に近づくにつれて、死はすべてのことが終わる時でないということが示されてきた。例えば、キリストよりも一六八年ほど以前に書かれたというダニエル書には、死者の復活ということが記されている。

しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。
多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。
目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこしえに星と輝く。(ダニエル書十二・2

 ダニエル書は、キリストより一六八年ほど昔に書かれた文書だとされている。当時、パレスチナ地方を支配したアンティオコス・エピィファネス四世は、ユダヤ人に対して厳しい迫害を加えた。(そのことは、ダニエル書以外では、旧約聖書続編のマカベア書に詳しく記されている。)
 そのような苦難の時期においてとくに死を越えた命ということが啓示されたのである。主イエスもダニエル書からの引用をしている箇所があり、主イエスが自分のことを人の子と言われたが、その表現もダニエル書に現れる。
 このように、復活ということがだんだんと啓示されてきたが、そのことが、完全に啓示されたのが、キリストが現れて、復活したからであった。
 人間は死んだら終わりでない、死後に復活するということは、新約聖書のあちこちで書かれている。
 そしてヨハネ福音書においてはそのことがとくにラザロという一人の人物の復活のことを詳しく記すことによって、復活ということを読む人に証言している。
 
 ラザロとはマリアとマルタの兄弟であった。病気が重くなり、マリアたちが人を遣わして、ラザロが病気だと言わせた。
 しかし、主イエスは、「この病気は死で終わるものでない。神の栄光のためである。」と言われた。しかし、ラザロは死んだ。その後でイエスは、そのラザロのところにやってきた。
 少し前に、マルタたちは、主イエスを信じて昔から預言されていたメシアであると信じた、そして主イエスから直接に、私を信じる者は、死んでも生きる、といわれ、このことを信じるか、と念を押されたのであった。そしてそのとき、マルタは「はい、主よ、あなたが、世に来られることになっている神の子、メシア(救い主)であると信じます」と言っている。
 このように主イエスを何百年も昔から預言されていたメシアであると信じていても、マルタは、一度死んでしまった者が復活するということはとうてい信じられなかった。そこまでは信じることができなかった。マルタは、死んで四日も経っている人は復活することは有り得ないのは当然だと堅く信じていた。これは、主イエスをメシアと信じてもなお、変わらなかった。それほどに死というのは、メシアですらも取り返しのできないことだという思いが存在していた。
 そのような考えは現在のほとんどの人間が持っている。死んだら終わりだ、死んだ者が復活するなど有り得ないということである。
 主イエスはこうした世の常識を根本からくつがえす目的でこの世に来られた。死に対する勝利こそは主イエスが来られた最大の目的なのであった。罪の赦しということも、じつは罪に死んでいる人間の罪を赦し、清めてよみがえらせるためであった。復活も、四日も経って生き返らせることは不可能な状況から、神の命を与えてよみがえらせることである。このような最大のことをするために主イエスはすべてのものを奪っていく悪の象徴としての死への憤り(怒り)を持って墓に入って行かれた。
 入り口は、石でふさがれていて、四日も経っている、死の臭いがする、それはいかなる観点からしても命があるなどとは考えられない状況であった。そのようなところにイエスは入って行かれる。
 これは現在の世界がそうではないか。私たち自身の魂がそうではなかったか。石で塞がれているような、閉じこめられたところであるうえに、死の臭いがするような人間の心に、また人間社会のただ中に入って行かれる。そしていかなる人間もできないようなわざをして下さる。
 主イエスがラザロのところに入っていくときに祈りがあった。死から生への大いなる奇跡をなすための準備というのは、悪の力への怒りを持ちつつなされた神への祈りであった。
 「父よ、私にいつも聞いて下さったことを感謝します。また今もいつも聞いて下さることを知っています」と言われた。原文は単にこのように「私に聞く」という表現である。これはつぎのようにヨハネ福音書に繰り返し出てくるのと同様な表現である。

「羊は羊飼いの声を知っているから、ついていく。しかし、ほかの者には決してついていかない。その声を知らないからである。」「わたしの羊はわたしの声を聞く」(*)(ヨハネ十・4527など) 
*)羊とはキリストを信じる人、羊飼いとは、主イエスのこと。
 
このようにキリスト者とは、キリストの声を聞いてそれに従っていく者であると言われている。キリストご自身が、父なる神の声に耳を傾け、その声の語るままに、自分も語り、また神のわざをなす力も与えられていたのである。 
 人間は悩みや苦しみが深いほどに、だれに言っても聞いてはもらえないという気持ちになる。そして何も言わなくなる場合もある。しかし、主イエスは心から仰ぐ者を必ず聞いて下さる。
 キリストが、死んで四日も経っているラザロをよみがえらせるという、最も困難なことをなすにあたって、つねに聞いて下さる神であることを確認している。

イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。」(ヨハネ十一・4142
 この霊的なつながりがないところでは祈っても聞いてはもらえないだろう。
 私たちも自分の心の願いや苦しみを神(主イエス)が聞いて下さっていると実感できていれば、すでにそのときに、何にもかえがたい神の愛を受けているのがわかるので、そのような愛を注いで下さる神だから、必ず私の願いも聞いて下さって、最善にして下さるとの安心感が生まれる。神が聞いて下さっているのを実感することができるということは、神と心のつながりが保たれているということであり、神からの静かな語りかけをも聞くことができているということである。
 こうして私たちの心(霊)が神と結びついているとき、まちがったことを求めることがなくなる。こうした心持ちを、聖書では使徒ヨハネが神から受けた言葉として、つぎのように語っている。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞いてくださる。これが神に対するわたしたちの確信である。
わたしたちは、願い事は何でも聞いてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かる。(ヨハネ第一の手紙五・1415
 ラザロの復活に関する長い記述の最後はどんな内容で締めくくられているだろうか。それは、イエスの一言である。
 「ラザロよ、出て来なさい!」
 この一声によって、死んで四日も経って死の臭いがたちこめるような人間が、起きあがって出てきたと記されている。
 ここには、私たちの世界の最大の問題がいかに解決されるかが、きわめて簡潔に、驚くべき単純さで記されている。
 これは実際に二千年ほど昔に生じたことであった。
ほとんどの人は、こんなことは有り得ないと思っている。
 しかし、キリストは二千年間、無数の人をたちかえらせ、新しい命を与えてきたし、今も与え続けている。キリストの存在は人類の歴史のなかで、最大の奇跡であり、そのキリストならこうした奇跡もできるはずである。神の子であるとはそういう意味なのである。万能の神と同じ力を持っているということなのである。
 このキリストの一言が重要であるのは、それが昔起こった一回きりの奇跡でないという点にある。今もどうすることもできないほどに弱りきった魂、死んだも同然の人間に対して、個人的に名を呼び、その死のような世界から、「出て来なさい!」と力強い声で呼びかけられているのである。
 その呼びかけは過去二千年にわたって、世界に響いてきた。そしてその呼びかけによって死んだ者が本当に新しい命を与えられて、墓場のような暗い世界から脱することができてきた。
 自分は死など関係ない、という人もいるだろう。元気はつらつとして仕事に精を出している人も多くいるかもしれない。
 しかし、人間は本当に正しいこと、真実なこと、無条件的な愛を持って生きているのか、と問われるとき、いったい誰が自分は正しい、神という絶対的な正しさや真実さを持った方の前でも正しい、正義の人だなどと主張できるだろうか。だれもできない。
 そのことを、使徒パウロは彼の最も重要な著述、ローマのキリスト信徒への手紙の中で旧約聖書の記述を引用しながらつぎのように述べている。

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのか。全くない。すでに指摘したように、・抽F、罪の下にある。
次のように書いてあるとおりである。
「正しい者はいない。一人もいない。
悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ・三・912
 このように、誰もが、神の前では正しいとは言えない。それは善いことができない、どうしても不純なものが混じってしまう、自分中心という目には見えないもので縛られているという状態なのである。それは、死んでいるとも言える状態である。

 このことを、パウロはやはり同じ手紙のなかで次のように述べている。
「死はすべての人に及んだ。すべての人が罪を犯したからである。」(ローマ五・12
 このように、より深い観点から見ると、人間はみんな死を帯びている。そして戦争や殺人、性の乱れなど数々の悪事は、いわば死の臭の現れだと言えるだろう。
 世界はいつの時代にもそのような意味では死の臭いがたちこめている。
 キリストはそういうところに来て下さり、死という最大のものを克服し、勝利するために来られたのであった。死臭のするところから、出てきなさい! それがキリストの呼びかけでありその声を聞いて従っていく者がキリスト者だということになる。
 ヨハネは自分の魂の奥深くにてイエスの声を聞き取り、その声こそは世界を死から救うということを感じとったのである。そしてこのラザロの出来事に託して、全世界の人、あらゆる人たちにそれを伝えようとしたのであった。
 使徒パウロ自身が、やはり自分はどうしても善いことをすることができない、自分は死のからだであると嘆いているが、そこから主イエスによって「パウロよ、出てきなさい!」との呼び声を聞いて、その死の体に新しい命を与えられて、立ち上がることができたのである。
 ラザロの復活ということが特別に詳しい記述がされているのも、すべての人間にとって根本的な死ということへの勝利はどこにあるのか、それはだれによってなされたのか、ということが内に秘められているからである。
 「あなた方はこの世では苦難がある。しかし、勇気をだしなさい。私はすでに世に勝利している」
 これは、十字架につけられる前夜の最後の夕食のときに語ったと伝えられている。ここで勝利しているとは、この世のさまざまの誘惑や憎しみ、敵意、本能的欲望などすべてに勝利したということであるが、究極的には、最大の破壊力を持っている死の力にも勝利して下さったことをも意味している。
 いかなる絶望の状況にある人でも出てくることができる。死の世界から脱して命を与えられる。さらにイエスは、死を象徴する巻いた布をほどいて、行かせよ、との言葉でこの長いラザロの復活の記事が終わっている。私たちも罪の力にひどく縛られていた者であったが、その罪の束縛から解放されて、神の国目指して「行け!」と言われている。
 ここに、死という最大の力に勝利するイエスの力が劇的に表現されているし、それが、死の世界のただなかに住む、私たちへのメッセージとなっている。

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