後ろを振り返る
そこに道が続いている
船が海原を通っていくときに後に道を残していく
そのように、はるか遠くまで、道すじが続いている
いろいろのことがあった
敗戦の混乱のただなかで中国で生まれ
幼少のころに重い病で死に瀕したこともあった
はっきりと記憶にあるのはその頃からのことだ
脇道もあった
危険な道をも通った
それらのさまざまの分かれ道は薄らいで
今残って見えるのは、遠くから今に至る一筋の道
それはただ、見えざる御手によって導かれた道

そして前方を見る
何が生じるかわからない
人は自分でその道を決めることはできない
いかに安全であろうとしても
思いがけない困難が降りかかり
今までのすべてが崩れ落ちるようなこともあるだろう
脇道に引き込まれそうになることもあるだろう
地雷を踏むように、突然足もとが炸裂し
死の蔭の谷を歩み
孤独と病の苦しみにさいなまれる状況に追い込まれるかもしれない
前途を覆いそうになる雲が見えることもある
現にそのような状況に置かれている人たちもたくさんいる

しかし、後方はるかから続いてきたこの道は
必ず現在のこの地を通って、かなたの御国へと続く
私はそれを信じる


戦いの主

 キリスト教は戦いの宗教である。
同時に愛の宗教である。このふたつは相容れないと思われるだろう。たしかに我々の戦いというイメージは殺戮と結びついている。それは愛とは正反対である。
 旧約聖書ではじっさいに武力を用いての異民族との戦いが記されている。万軍の主という言葉は、そうした戦いの神というイメージに合うものであった。
 しかし、キリストが現れてからそうした武力による戦いというのは意味を失った。そしてはるかに深い霊的な戦いこそが本当の戦いであることが明らかにされたのである。
 愛されるとは何か、それは私たちの苦しみの根元を取り除いてくれることである。そしてその上で、最もよきものを与えられることである。苦しみと悩みの根元をそのままにしておいては、いかによいものであってもそれが本当によいものと感じられないからである。
 私たちの一人一人の心に苦しみの根元を置こうとする、ある力が存在する。そのような闇の力はだれの心にも働いている。
 ある人が「自分ではどうしてこんな心が、と思われるような暗い心が、ふと他人に対して生じることがある、冷たい気持ちが、また高ぶる心が、ときに残酷なような気持ちすらが生じることがある」と言われた。
 程度の多少はあっても、人には自分ではそんな気持ちや心の動きはあって欲しくないのに、どこからともなくそんないやな気持ちが飛び込むことがあるだろう。この世のあらゆる問題や不正、困難、犯罪などはすべてそうした闇の力、暗い衝動に動かされての結果である。
 キリストはそうした悪の力に対する戦いを真正面から行うお方なのである。
 その意味で、キリスト教は戦いの宗教なのであり、たしかに人間性の奥深くにひそむ闇の力を明らかにし、そこに光をあて、その闇の力の根元を除くために、この世に来られたのであった。
 闇の力とは、たんに殺人や盗みなどをさせるだけでない。私たちを自分中心にしてしまうことも、人から評価されなかったらその人を憎んだり、ねたんだりする心、あるいは、病気や事故などで苦しみに会ったとき絶望しそうになる心、この世の真実を疑い、そんなものはないと思わせるような力、それらはみんなそうした闇の力のはたらきなのである。
 そうしたさまざまの闇の力との戦いこそ、キリストの目的であった。
 私たちがたとえ大事な家族を事故で失ったときであっても、その悲しみにうち倒されないようにしてくれるなら、また憎しみが燃えそうになるときにも、その憎しみの炎を消して、しずかな祈りの心を生み出すように導く、そのためには、その闇の力との戦いがなければならない。そしてその戦いに勝利してはじめて私たちは本当の平安が与えられるし、そのような勝利への力を与えるものこそ本当の愛である。
 キリストが十字架にかけられたのもそうした闇の力との戦いに勝利するためであった。悪との戦いに完全に敗北したように見えるあの、十字架での死が、歴史上で最も大いなる勝利の
 キリストの生涯は単なる教えでなく、また奇跡をおこなって人々を驚かせるためでもなく、こうした戦いこそがその本質にあった。これは目には見えない戦いであって、最大の使徒パウロもまたそのキリストの戦いをキリストの力によって続けるのがその生涯の目的となったのである。

わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足りる。(コリント十・4
 キリスト者の戦いとは、肉のものでない、つまり、目に見える武器や策略を使うのでく、神からの力そのものが武器である。それがあれば、どんなに強い敵の力をもうち破ることができると言われている。パウロはキリスト教伝道の生涯であったが、それは言い換えるとこの神の力による戦いの生涯であった。
 「私はすでにこの世に勝利している」という主イエスの最後の夕食での言葉は、私たちが自分の力で戦わねばならないと、恐れるとき、そうでない、あなた方の戦いはすでに私が代わりになしとげて、勝利しているのだという励ましであり、約束なのである。

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