生と死

 最も鋭く対立するように見える、生きることと死ぬことと。死んだら永久に帰らない、すべては消え失せてしまう。そこには最大の断絶がある。
 そのようにほとんどの者は考えている。
 しかし、新約聖書、とくにヨハネ福音書はそうした断絶でなく、信じる者には、ずっと続いているということを明確に示している。私たちのこのせいぜい七〇年から九〇年ほどの命は、死によって破壊されたり消え失せるのでない、それは何という大きな啓示であったことだろうか。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ十一・2526
 主イエスは二千年前に、十字架上で殺された。しかし、復活していまも生きて働いておられ、無数の人々を救って来られた。このヨハネ福音書の言葉のように、確かにイエスは決して死ぬことはなかったのである。キリストを信じる者も、またそのように、死んでもなお、生き続けるような存在に変えられる。


飽食と飢餓

 現在の世界は八億人もの人たちが、食物もわずかしかなく飢えた状態にあるという。毎日数万人もの命が飢えと貧困のために死んでいる。アフガンの問題がアメリカの攻撃でにわかに光が当てられると、たちまちアフガンの問題が最重要問題であり、世界の他の地域では、難民とか飢餓の問題はあたかもなくなったかのように、マスコミでもアフガンのことばかり述べている。
 世界の食糧は、必要量の一・七倍もあり、飢える人たちが大量に出るのが不思議なほどである。しかし、日本やアメリカ、ヨーロッパなどの豊かな国々が、そうした貧しい国々の食料を大量に輸入し、それの相当部分を家畜の餌にして、肉を食べているのである。牛肉一Kgを生産するには、最低でも八Kgの飼料が必要。その餌になるトウモロコシや大豆はほとんどが外国から輸入されている。
 飢えた貧しい国々からそうした貴重な食物がなんと動物の餌にするために、外国に流れ、自分たちは食べるに必要なものすらごくわずかしか残らないという状況になっている。
 なんと不正な状況だろうか。
 これは政府の政策や啓蒙も必要だが、根本的にはそのようなぜいたくな食事でなくとも、十分に満足を感じるような、心の変革が必要だといえる。
 その変革のためにキリストは来られた。そしてキリストを本当に受け取った人は自分から少しずつでも変わっていくのがわかる。
 どんなに貧しくとも、悲しみに包まれていても、もしその人がキリストを知ったなら、神の国が与えられ、そこから満足と喜びがわいてくる。
 それを主イエスはつぎのような有名な言葉で述べている。

 イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。
「貧しい人々は幸いである、なぜなら、神の国はあなたがたのものだからである。
今飢えている人々は、幸いである、なぜなら、あなたがたは満たされるからである。
今泣いている人々は、幸いである、なぜなら、あなたがたは笑うようになるからである。
しかし、ああ、災いだ、富んでいるあなたがたは!あなたがたはもう慰めを受けているからである。ああ、災いだ、今満腹している人々は。なぜなら、あなたがたは飢えるようになるからである。
ああ、災いだ、今笑っている人々は。なぜなら、あなたがたは悲しみ泣くようになるからである。
(ルカ福音書六・2021

 極度に貧しい国で生きていながら、他人の苦しみを見て分かち合うということを実際に経験して、心動かされた、日本人の経験が一冊の絵本になっている。
 そのような分かち合う心、それはキリストがそこにおられてそのような気持ちにさせているのである。それこそ、ここで言われている、「貧しい者は幸いだ、神の国はその人たちのものである」ということの一つの意味だと言えよう。
 そして豊さを存分に味わっている人たちは、飢えるようになる。事実、そのようにぜいたくな食べ物でなければ気がすまないというところに、すでに精神の貧困があり、「飢え」という状況がある。


高価な香油を注ぐ

 主イエスが十字架に付けられる少し前に、高価な香油を注がれるという出来事があった。これは、マタイ、マルコ、ヨハネの三つの福音書に共通して書かれている。そしてルカ福音書においても、少し違っている点があるが、やはり香油を注ぎかけたという点では共通している。
 これを見ても、この香油を注ぐという記事の重要性がうかがえる。マタイ、マルコ、ルカの福音書はだいたい共通点が多いが、ヨハネ福音書は相当内容が異なっている。
 そのため、この四つの福音書すべてに記されている内容は、五千人のパンの奇跡など少ししかない。

この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。
過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を三百グラムほど持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。(ヨハネ福音書十一・53~十二・7より)

 マリアが注いだ香油は高価で純粋な香油で、値は三百デナリオンだという。当時の一日の賃金が一デナリオンであると記されているからこれは現在の日本の状況で考えると、一日の賃金は一万円ほどと見るならだいたい三百万円もの高価な香油だということになる。
 これを主イエスの足に注いで使ってしまうということは、じつにもったいないことだ、そんなことをしないで貧しい人たちに与えたらたくさんの人を喜ばすことができたのに、というユダの言葉はごくふつうの考えだと言えよう。ユダとはキリストを裏切った者であり、ダンテの神曲でも最も深い地獄に置かれているのであるが、このあたり前と思われる言葉がユダの言った言葉だとされているところに、聖書がいかに常識的な考え方と異なるものであるかがよく現れている。
 貧しい人たちがいるとき、お金を分かち与えること、一時の食物を与えることは、社会に福祉的な制度がなかった時代には特別な必要性があっただろう。そして実際にキリスト者たちは多くの貧しい人たちに食物やお金を与えた。しかし、お金とか食物、衣服などは一時の必要としては重要であるが、それが永続的になると、依頼心を起こして仕事をしなくなるし、強いものが多く奪っていくという事態も生じる。そこで新たな混乱や紛争が生じることになる。
 目にみえる物を与えても、それだけでは永続的な力を発揮することができないのである。ヨハネ福音書の著者はこの点を深く見抜いていた。それゆえに、マリアが持っていたような主イエスへの深い信仰と愛、捧げる心こそが、永続的な力と影響を生み出すのであると言おうとしている。
 これは今日のようにたえず経済問題、要するに金の問題が最大の問題であるかのように、毎日の新聞やテレビなどで報道されていることへの鋭い反論だといえよう。主イエスのためという純粋な心があるとき、そこには計算がなくなる。損得もなくなる。一度しかない命すら捧げてもよいとまで心は変えられていくのである。
 当時の最も地位のある人たち、祭司長、律法学者、パリサイ派の人たちが揃って主イエスに敵意を持ち、殺そうとまでしていること、そして弟子たちすらイエスの死のことが受け入れられなかったとき、このマリアという女性は、自分では気づかないうちに、キリストの死のために準備をしていたことになった。
 この女性の名はマリアと言われ、それはマルタの姉妹であった。この姉妹についてはルカ福音書に記されている。マルタは、イエスをもてなすことに一生懸命になっていたが、妹のマリアが手伝うことをせずに、じっと主イエスの言葉に聞き入っていたことに心が揺れ動いてイエスに対して、妹のマリアを叱ってくださいと頼んだことがあった。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ福音書十・3842
 常識的には接待をしないで、じっと聞き入るばかりの妹が叱責されるのが当然と思われるが、主イエスは、マリアがみ言葉にじっと聞き入る態度を祝福された。これによって最大の主イエスへの接待とは、その語るみ言葉に聞き入ることだということが暗示されている。
 いま取り上げているヨハネ福音書においても、マルタは準備をしていたが、マリアは高価な香油を持ってきて注ぎかけたという。
 イエスの言葉にじっと聞き入るということは、イエスの持っているものを受けようと真剣になっていることである。ここでの高価で純粋な香油を注ぐということは、自分の持っている最もよいものを主イエスに差し出すことである。なぜこのような心が生じたのか、それは、主イエスにまず聞き入るということから、イエスに満ち満ちているものを受けるということがあった。

わたしたちすべての者は、キリストに満ちあふれた豊かさの中から、めぐみの上にさらにめぐみを加えられた。(ヨハネ一・16
 マリアは主イエスにじっと聞き入ることによってこの豊かさからの恵みを受け取り、そこから捧げる心が自然に生まれたのである。
 主イエスから受けることなくして、イエスに捧げようという心は生まれない。神から受けたと感じたことがないものは、むしろ神をのろうことすらある。どうして運命はこんなに自分にきびしいのか、なぜ神がいるならこんな目に自分を会わせるのか等など。
 マリアはイエスのみ言葉に聞き入ることから深い平安と力、そして励ましを受けたのであった。さらに、「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」と記されているように、死んでしまった兄弟のラザロを復活させて頂いた何にも代えがたい経験があった。この一言はマリアがいかに感謝していたかを示すものである。それを言葉で表すことなく、行動で示したのであった。
 マリアが三百万円にも値するような高価な香油を注いだということから、どのようになったか。それを福音書はつぎの一言で言い表している。

家は香油のかおりでいっぱいになった。

 これは何でもないような言葉である。しかし深い意味がこめられた一言だと言える。マリアのこうした行動は決してマリア一人で終わったのでない。その後二千年にわたって全世界で数知れない出来事の象徴的出来事となった。この出来事は初めて聞いたときには、当時のキリスト者にとっても、にわかには信じがたかったのではないだろうか。ふつうの庶民であったマリアやマルタといった女性ばかりに見える家庭に、数百万円もの高価の香油があったこと自体が常識的には不可解だし、それを家族のマルタやラザロの許可もなく勝手にあっという間に使ってしまったこと、そんなことがあり得るだろうか、という素朴な疑問を持たれることがあっただろう。しかし、この出来事はそうした疑問を吹き飛ばすように、この事実が現に当時のキリスト者たちの行動においてつねに生じていたことであったので、自然に受け入れられたと考えられる。
 ヨハネ福音書はキリストが処刑されてから六十年ほども経った、紀元一世紀の終わり頃に書かれたといわれている。その時にはローマ皇帝ネロの迫害が始まってからもうだいぶ経っていて、多くの人たちが殉教していったのは広くキリスト者たちに知らされていた。
 彼らは自分が持っている最も重要なもの、高価なものである命を、キリストのために捧げた。それはこの一人の女性が数百万円ともみなされるような、考えられないような高価な香油をイエスに捧げてしまったのと本質的に同様な意味を持っている。そして香油の香りが部屋中に満ちたと記されているが、キリスト者たちの殉教のすがたが、キリストの香りを徐々にローマ帝国中に満ち広がらせることになったのである。
 キリストご自身が実は、そうした世界に満ちる香りの元となられたお方なのである。使徒パウロのつぎの言葉はそうした意味が込められている。

キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物としてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。(エペソ書五・2

 キリストが香りなら、キリストに従うものもまた香りとなると言われている。

救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りである。(コリント二・15

 このようにして、高価な香油を注いだマリアの行動は、ただ一回きり生じた出来事でなく、以後の無数のキリスト者たちの生涯や存在そのものがこの世界において、香油となり、キリストの香りを漂わせるものとなるという預言的行動となったのであった。


河口の浅瀬を越えて       テニソン作

日は沈み 夕べの星が輝く
そのとき、私を呼ぶ一つのさやかなる声が聞こえる!
海に私がこぎ出すとき、
浅瀬にうち寄せる潮の音はないであろう。

潮は満ち満ちていて、流れつつも眠るがごとく
波音も泡もない。
無限の深みからやってきた魂が
再び、魂のふるさとに帰るとき。

夕暮れ迫り、夕べの鐘は鳴り、
その後に闇(死)が訪れる。
私が船出しようとするとき、
そこには別れの悲しみはないだろう。

潮の流れは、時間と空間の限界を超えて
私を運んでいく。
わが希望は、わが導き主を顔と顔を合わせて仰ぐこと、
浅瀬を越えていったその時に。


 テニソンとは、十九世紀のイギリスを代表する詩人であった。詩人とは、暇にまかせて響きのよい言葉を並べる人ではない。それは自らの精神にて体験された経験を短い、しかも的確な言葉で表すことであり、一般の人が見過ごす日々の出来事や、自然、歴史などのなかに、宇宙の真理をありありと見てそれを簡潔な、韻律ある言葉で表し、人々を真理の世界へと招くところに深い意義がある。
 旧約聖書のイザヤ書、とくに後半部には多くの霊的な内容が詩のかたちで表現されているし、詩篇の人間の内部で何が体験されるのかということが、特別な言葉の力をもって表現されている。
 ダンテの詩も、苦難のただなかで、歴史のこと現実の世界のこと、そして自らが体験した神との深い交わりが、壮大なスケールをもって描き出されている。
 テニソンのこの詩は、この大詩人が世を去る二年前、八十一歳の秋のある日に、身内の者に語ったところによれば、一瞬にしてひらめいたという。あたかもこの世を去るときの白鳥の歌のごとく、生と死とを見つめて歌われた詩となった。
 テニソンがいよいよ死を迎えたのは、それから二年後であったが、その時、その身内の者に「覚えておいてくれ。私のこの詩は、私の詩集のどんな版にも、必ずその終わりにのせるように。」と言い残したという。
 夕べとなり、暗くなるが、そのときに星は輝き始める。星は、地上にて見えるもので最も神秘なもの、決して人間によって破壊も汚されることもなく、永久的にそのすがたを変えないもの、それは人間の世界を越えたなにかを指し示す。それはこの詩人にとって神の国の光を暗示するものであった。自分が死を迎えるとき、それは暗いだけのものとか不可解な謎の世界に無理やりに引きずり込まれるのでもない。また無になってしまって消えてしまうのでもない。
 そこに地上ならぬ光が輝き、その彼方から、一つの声が聞こえる。それは澄み切った声であり、その響きゆえに神の国からの呼びかけだとわかる。人生の終わりに際してこういった、クリアな声が聞こえてくるのはいかに幸いなことだろうか。この声は、しかし終わりのときになって初めて聞こえるのではない。すでにヨハネ福音書では繰り返し、この声に従うことがキリスト者の日々の歩みであることが記されている。

わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。(ヨハネ福音書十・2728

この詩の題となっている、浅瀬(bar)とは、大きい川の河口にある砂の堆積したところ、砂州をいう。その砂州を越えると、先は広大な海である。その海はこの詩では、死後の世界すなわち神の国を表している。死後の神の国へは、浅瀬を越えていく。死を迎えるときには、死後の無限の世界は音もたてることなく、その深い意味を暗示するかのように、静まって自分を迎えようとしている。その沈黙は神の国は満ち満ちたものが存在するからである。深いものは音をたてずに流れてくる。
 みずからの生涯は、もう終わろうとしている。その予告のように人生の夕闇がひしひしと実感され、死の世界が間近に迫っている。しかしこの世からの最後のときにも、私には別れの悲しみ、つまり死の悲しみは感じないだろう。
 それは、なぜか。
 海、すなわち死は私を時間や空間を越えたかなたへと持ち運んで行くのかも知れない。
 しかし、私には希望がある。
この世を終わりまで導いてくださった主イエスを顔と顔を合わせて見るということがそれである。

わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。(コリント十三・12

 この詩の作者は、地上の生活を導いてくださる主イエスのことを、パイロット(Pilot)と言っている。(英文の原詩参照)現在ではこのパイロットという言葉は、日本語では飛行機の操縦士しか意味しないようになっている。しかし、もともとこの言葉は、ギリシャ語のペードン(pedon)という、舵を意味することが語源であり、舵取りの意味を持つようになり、英語では少し語形が変化して現在の形になっている。それゆえ、もともとは舟の舵取りであり、水先案内人のことなのである。
現在の讃美歌にも主イエスが水先案内人であることを内容としたのがある。

果てしも知れぬ うき世の海の
浅瀬荒波 いわおの中を
主よ、水先の導(しるべ)したまえ。

指し行く浜辺 間近くなりて
磯打つ波の 逆巻くときも
主よ、水先の導(しるべ)したまえ(讃美歌二九二番より)

 ここに引用した讃美歌の原詩は、「救い主なるイエスよ、私を水先案内して(導いて)ください。」Jesus, Saviour pilot me という言葉で始まっている。
 死という未知の世界へと私たちはすべて進んでいる。それは果てしなく広がる大海原へと舟を進めていくのにたとえられるが、それは適切な水先案内人を与えられているとき、暗闇に沈み込むことでなく、光に満ちた主イエスにまみえることなのである。そしてそこに行く前から、この詩人のように、個人的に私たちを呼ぶ声を聞いて主の平安を与えられつつ、水先案内人たる主イエスに導かれていきたいと思う。 

区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。