死ぬと人はどうなるか

慰霊
 日本では死者に関する儀式をするときには必ずといってよいほど、慰霊ということが言われる。毎年八月十五日前後の頃とか、今年では一月十七日には阪神大震災の犠牲者の慰霊祭が各地で行われたというような見出しで記事が書かれている。
 徳島県鳴門市には、ベートーベンの第九交響曲が日本で初めて演奏された場所がある。その近くにそれを演奏した兵士たちで捕虜収容所で亡くなった者たちの石の碑がある。そこには、ドイツ語と日本語でつぎのように書かれている。

第一次世界大戦中の日本での捕虜生活の内に没した兵士たちの霊を祀る。

Zum Gedenken an die im Ersten Weltkrieg in japanischer Kriegsgefangenshaft verstorbenen Soldaten.

ここで注目すべきは、ドイツ語では、「~への記念に」(Zum Gedenken)となっているのに、日本語では、「霊を祀る」という表現になっていることである。「~を記念すること、思い出すこと、覚えておくことと」と、死んだ人の「霊を祀る」というのとでは、全く意味が違うのである。
 霊を祀るということは、神を祀るということと同様に、それは礼拝の対象となる。だから、日本では○○神社では○○が祀られてあるというと、その○○を拝む、神として拝むのである。そして靖国神社のように死んだ人はどんな悪事をした人でも一種のカミになったとして、礼拝したりする。これは物事の善悪にかんする感じ方にずいぶん大きい違いをもたらすことになる。
 しかし、ドイツ語の文を見てもわかるが、キリスト教の浸透している人々においては、このように死者に対して拝むとか礼拝するなどということは決してない。

 さらにこの石碑の別の面には、つぎのような言葉が書いてある。

「この碑はドイツ連邦共和国政府の委託により建立され、一九七六年のドイツ国民慰霊祭の日に

Dieser Gedenkstein wurde errichtet in Auftrag der Deutschen Bundesregierung und eingeweiht am Volks-trauertag 1976…

 ここで、ドイツ政府の委託ということで、この碑は、ドイツ語原文では、「記念の(石)碑」(Gedenkstein*))であるのに、単なる「碑」と訳しており、「記念」という語をわざわざ削除して日本語訳としている。また、ドイツ語の「悲しみの日」(trauertag)を、全く異なる意味の「慰霊祭の日」と訳している。
*)「gedenken」とは「覚えておく」、「Stein 」とは英語のstone で、「石」の意味であり、Gedenksteinとは、記念碑という意味になる。

 このように、死者を記念するということを日本では使わないで、慰霊という言葉を使うのである。慰霊とは、霊を慰めるという意味であるが、死者は生きている人に慰められる必要があるという断定からこの言葉がある。それは死者がみんな一様に悲しんでいる、とみなしているから慰める必要があるということになるが、そもそも死者がみんな悲しんでいるなどということは全くわからないことである。
 例えば、キリストはわずか三十三歳という若さで、なんの罪もないのに、最も重い刑罰を与えられて、十字架上ではりつけにされて殺された。仏教的にいうなら最も呪われた死に方だから、死んで深い悲しみや恨みを持っているからたくさんの供養をし、慰霊をしなければ、その死者は幽霊のようなものになってたたってくるということになる。
 しかし、キリストが十字架で殺されて、あの世で泣いているとか自分を殺した人たちを恨んでいるなどということは、およそこっけいなほどのことである。十字架で処刑されているときからすでに、人々の罪を深く知って、その罪を赦してくださいと、神に祈られていたからである。キリストは十字架で処刑されてのち、三日目には復活して神のもとに帰り、神と等しい存在となられたのであった。
 捕虜として死んだ人たちも、寿命での自然な死もあれば、神を信じて捕虜の境遇も感謝して生きた人もいるだろうし、不満をもって死んだ人もいるだろう。日々を感謝して神のもとに帰った人は、地上の喜びをはるかに越えた清い喜びと平安を与えられているはずであって、地上の悩み多い人間がその死者の霊を慰めることなど、まったく無意味だということになる。
 しかし、日本の方式では、そうした人も一律に、死者としてなぐさめるということになるがこんな不合理なことはない。

法事
 日本の宗教的な考え方では、死んだら信仰あつい人も悪人でも同じように、死後は行き先が決まらないので、地上に残った人が、その人の魂の安定化のために法事と称するいろいろの儀式をすることになる。死んだ後の魂は不安定で生きている人にたたりや災いをもたらす恐れがある。だからそれを防ぐために、法事をするというのが、もとにある考え方である。そしてこれは仏教の教えだと思われているが、インドで生まれた本来の仏教にはそのような、魂を鎮め安定化するためのものでなく、四十九日の間に天界や人間界、畜生界などに生まれ変わるのであり、その行き先が決まっていないから、儀式をするのだとされていた。
 (「日本の仏教」渡辺照宏 108P 岩波新書他)
 それが中国に入って三回忌までするようになった。さらに日本に入ると、魂が鎮まるまでは死後三十三年から五十年かかるとされていたので、七回忌、十三回忌、三十三回忌と追加されていったのである。これは時代とともに増え続け、現在では五十回忌が行われるようになった。五十回忌は一九五五年ころ以降になって追加されていったと言われている。
 このように、日本では仏教と思われているが実はそうでなく原始的な日本の宗教の習慣から来ている風習に仏教の衣を被っているという状態になっているのである。

ギリシャの哲学の場合
 また、死後の魂に関する、このようなことは、キリスト教以前のギリシャ哲学の英知ある人々もすでに知っていた。今から二四〇〇年ほども昔に、ギリシャの哲学者、ソクラテスはつぎのように述べている。

私がこれから行く死後の世界は、第一にこの世の神々とは別の賢明で善い神々のもとへであり、またこの世の人々よりもすぐれた、すでに亡き人々のもとへであると考えている。だから私は死を厭わないのである。この上もなくよい主人(神々)のもとへ行くということは、なにかこのようなことで断言できることがあるとすれば、これこそまさにそうだということを知っておいてもらいたい。私は死んだ人にとっては、何かがある、しかも昔から言われているように、善き人々にとっては悪しき人々にとってよりもはるかによい何かがあるという希望を持っているのだ。(「パイドン」63BC

 このように、これから裁判を受けて、毒殺されることを予感していたにもかかわらず、殺された後は、最善の世界へと導かれることを信じていた。ソクラテスの弟子たちの後に残った者が、ソクラテスの霊を慰めるなどといえば、それは逆であって最善の神のところに行ったソクラテスの方が、地上の闇に生きている者を慰めるのだというだろう。
 このように、キリスト教以前の四百年ほども昔の、ギリシャ哲学の時代から、死者の霊を一律に慰める必要などはないということを一部の英知ある人は知っていた。
 また、今日の仏教式の法事では、遺族が死者のために食物などを供することで、死後にたたるような霊にならずに静まった霊になると考える。あたかも人間が死者の運命を左右する力があるかのようなことを言う。しかし、すでに述べたプラトンはこの点でも、すでにそのようなことは無意味であるとその最晩年の著作で語っている。

人が死んだときには、その人の真の自己(魂)は、他の神々のところに行っている。それは、自分が生きているときになした言動の説明のためなのである。
 死後に神々のところに赴くということは、善き人々(正しく生きた人々)には自信をもって迎えられることであるが、悪しき人にとっては(神々の裁きを受けるのであるから)きわめて恐ろしいことである。
人間がいったん死んでしまうともうどんな助けも届かない。生きている間にすべての近親者は彼(不正に生きていた人)を助けるべきだった。(プラトン著 「法律」第十二巻9より)

キリスト教では
 この点ではキリスト教も同様である。死んだ者のために祈ってその人が受けるべき刑罰を軽くできるというようなことは全く記されていない。死後の魂は主イエスも言われたように、神の手にあり、人は生きているときの言動や、地上にある間に神に心を向けたか、キリストを仰ごうとしたかなどによって神が適切なさばきをされるのである。

体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄(ゲヘナ)で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。(マタイ福音書十・28

 キリスト教では、地上の命ある間に、神とキリストを信じるようになった者は死後は復活して、主のように変えられて、主とともに永遠の命を与えられる。

わたしたちは皆、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていく。これは主の霊の働きによる。(コリント三・18

 主と同じ姿に作り変えられるなら、主と同じように霊的存在となり、時間や空間を越えた存在になると考えられるし、主イエスの言葉によると、天使のような存在になるとも言われている。

主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っている。(コリント二・14

 また、このような言葉によって私たちは復活のとき、ほかの復活した人々とともに神の御前に置かれるとあり、復活した人々はともに出会うことになるだろう。主と同じすがたに変えられるのなら、当然肉体を持っているときのような制限がなくなるので、イエスのもとに復活している人たちとともに会うことになると考えられる。 
 また、キリストのもとには神の国の賜物が満ち満ちていると記されている。つぎのように生きているときからすでに信じる者にはキリストの恵み、すなわち神の国の恵みがあふれるばかりに与えられたのであって、死後はキリストのすがたと同様に変えられるのであれば、なおさら完全に与えられるであろう。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。(ヨハネ福音書一・16

この意味は、私たちにとってよきものはあらゆるものがある、しかも地上で経験されたことの完全なものがあるということである。だから肉親や親族、友人などで、最もよき心情のつながりで結ばれていたものは、そのような最もよき感情をさらに完全にした心が与えられるであろう。

 このようなことから考えると、たとえ死に方がどんな状態であっても、生きているときの心によって神が一人一人を裁き、神のみもとで永遠の命に安らうか、または何らかの裁きを受けるかということになる。これは生きているときの言動、心の方向によって神がなさることであって、人間は関わることができない。また、ある人が息を引き取る寸前までどのような心が動いたか、罪を悔い改めたか、神を仰いだのかなどは、他人にはその本当のすがたは決してわからないのであって、ただ神のみがそれを知っておられる。だから元気なときに信仰がなかったから滅びるなどと簡単に決めしてまうことはできないのである。
 死後の魂の運命について人間がどうこうできるとは聖書では記されていない。
 私たちは死んだ人のことについては、何ら根拠のない習慣によって縛られるのは意味のないことであるし、これから育っていく若い人々に、宗教とは無意味な面倒なことだと思わせることにつながる。
 すべてを最善にして下さる神、どんな重い罪であっても心から悔い改める者にはすでに生きているときから、その罪の赦しを与え、神の国の賜物をゆたかに与えて下さる神を信じて、死後もそのような愛をもって死者を扱ってくださるのだと委ねることができる。


ことば

118)聖書と活けるキリスト

 聖書は大である。しかし活けるキリストは聖書よりも大である。我らがもし聖書を学んでキリストに接することがなかったら、われらの目的を達したと言うことはできない。聖書は過去における活けるキリストの行動の記録である。
 われらは今日キリストの霊をうけて、新たに聖書を作るべきなのである。古き聖書を読んで新しき聖書を作らない者は聖書を正当に解釈した者ではない。聖書はなお未完の書である。それゆえわれらは、聖書にその最後の章の材料を提供すべきなのである。(内村鑑三「聖書之研究」一九〇四年十二月号)

新しい聖書をつくるべし、といわれてキリスト者の中には驚く人が多いと思われる。聖書は完結したものであってそれは神の霊が書かせたものだ、それに付け加えるなどととんでもない、と思う人がほとんどのはずである。内村は人間がさらに書き加えたものを聖書として出版せよなどとはもちろん言っていない。
 ここで内村が言っているのは、キリストは今も活きて働いておられる。過去に聖書を書いた人たちは活きたキリストに働きかけられて、み言葉を与えられ、それを書いたのが聖書となったのである。それなら、今も活きたキリストが働いて、キリスト者に語りかけているのであるから、キリスト者はその神からの語りかけを受けて何らかの各自ができる方法によって、世に提供するべきだし、そうできると言っているのである。今も活きておられるキリストの言葉を受けて、この世のなかに聖書のいわば終わりの章を、祈りや言葉、文章や行動という形で書き加えていくべきなのである。それほど神は昔も今も永遠の命を人々に注ぎ続けておられる。

119)不幸の極

 病気になってもよい、私はただ神の聖意を知りたい。貧しくともよい。私はただ神の聖意を知りたい。人に憎まれてもよい。私はただ神の聖意を知りたい。
 私の不幸の極(きわみ)は神の聖意を知ることができないことにある。私は病気を怖れず、貧困を怖れず、孤独を怖れず、私はただ神に棄てられてその聖意が私に伝えられないことを怖れる。
 神よ、私にいかなる苦しみを下されようとも、あなたと私との間に霊の交わりを断つことがないように、と祈り願う。(同右 一九〇二年六月)

この世には、人間の意志と神の意志がある。人間の意志、それは至る所にみられる。まず自分の利益、自分の楽しみ、自分が評価されること、自分を守ることを第一にしようとする心、それは人間の意志である。しかし、神の意志とは、最善のこと、最も愛に満ちたお方の心である。
 宇宙を創造されたお方、万能の神が最も求めておられることは何だろうかと尋ねる心、それは神のご意志を第一にしようとする考えである。神のご意志がわかるということは、神にまっすぐに向かっているということであり、そこから正しい判断力とか、苦しみに耐える力、汚れたことに染まらない勇気、弱い立場の者への共感などが自然に与えられる。それゆえ、内村はまず神のご意志を知ることを第一の願いとしているのである。

120)菜食主義的な生活法は、原則的にいえば、たしかに最良のものである。けれども、なによりも先ず、文明化した人類をもう一度そういう暮し方にもどし、また一般に、生活法をもっとずっと簡素なものに慣れさせねばならないだろう。いわゆる文明こそが、この単純な生活から人類をひき離してしまい、そのことが結局、人類の損害となったからである。(「眠れぬ夜のために・第二部 一月十一日」ヒルティ著)
 
今回の、狂牛病問題は政府のやり方のずさんさがまたしても露呈したが、このような機会にこそ、食物の問題を考え直すことは重要である。牛肉を生み出すには、アジア、アフリカの貧しい国々から大量の食物を輸入し、それを牛などの家畜に与えて肉を作るとい方法を取っている。そのためにそうした国々の飢餓状態がなくならないということにもつながっている。菜食を主とする食事というと、従来は単に個人の健康維持法といった狭い範囲のことと考えられていたが、今日では世界の貧困や飢えている人々とのつながりにおいても考えねばならない状況となっている。
 タンパク質を摂るのに、肉でなく、大豆などの植物で摂るということ、豆腐、納豆、みそを多用することなどが今後ますます重要になってくるだろう。
 ヒルティはすでに百年も前に、このように文明化した人類をもう一度、簡素な生活に戻って行かねばならないことを説いている。最近では、自転車道路を造り、自転車をもっと多く使うことなどが提唱されているが、冷暖房を使う時間をなるべく少なくし、寒いときは暖房を強めるのでなく、服を多く着る、暑いときはなるべく扇風機で我慢できるようにするなど具体的に一人一人が真剣に考えていかねばならなくなっている。

(121
)愛をもってすれば、あらゆるものにうち勝つことができる。愛がなければ、一生の間、自己とも他人とも戦いの状態にあり、その結果は疲労困憊に陥り、ついにはべシミズムか人間嫌いにさえ行きつくほかはない。
 しかしながら、愛の実行はつねに、初めそれを決心するのはむずかしく、やがて神のみ手に導かれてそれを行いうるまで長い間たえず習得すべきものであって、愛は決してわれわれにとって自然に、生まれながらに備わっているものではない。ついに愛をわがものとした人には、他のいかなるものにもまして、より多くの力ばかりか、より多くの知恵と忍耐力をも与えられる。なぜなら、愛は永遠の実在と生命の一部分であって、これは、すべての地上のものとちがって、老朽することがないからである。(「眠れぬ夜のために」 第二巻 一月九日の項)

ここでの愛はもちろん人間の愛でなく、神の愛、神から受けた愛のことである。それはこの「愛は決して自然に生まれつき備わっているのでない」と言っていることからもわかる。神の愛を受けてそれをもってすれば、あらゆるものにうち勝つ。ヒルティのこの確信は彼の生涯の結論でもあった。それゆえ彼は、その墓碑銘にこの言葉(ラテン語)を選んだのであった。次にその原文をあげておく。
AMOR OMNIA VINCIT」 アモール(愛) オムニア(すべて) ウィンキット(勝つ)


休憩室

ウメと星

 冬の植物といえば、必ず新聞やニュースで目に触れるのは、ウメとスイセンだと思われます。このいずれもが香りがよく、姿や花の色なども美しいものであるためにいっそう昔から人々の心を引きつけてきたのだと思われます。
 また、このいずれも野性的で、温室とか花壇で肥料や温度あるいは害虫などを気にしたりせずとも、たくましく育っていくことも広く知られている理由の一つでもあろうと思います。
 さらにウメはその花や香りもよいだけでなく、その果実もまた薬用として日常の常食としてまた弁当のようなものにまで昔から今に至るまで広く用いられていることもあります。
 ウメと言えば、おそらく現代の多くの人たちにとっては、梅干しや梅酒のほうがずっと身近に感じていると思われます。それらは大都会のデパートやスーパーでもいつも売られているからです。しかしウメの自然の状態の花に接することができるのは、田舎や山間部の地方の人でなければ容易には触れられない人が多いはずです。また、最も寒いときに咲くウメの花を味わう心のゆとりを持っていない人が多くなっています。
 聖書の世界では、花はウメとほとんど同じ白い花を冬に咲かせる樹木があります。それはアメンドウ(アーモンド)です。旧約聖書でも特に重要な預言者の一人であるエレミヤに最初に臨んだのが、このアメンドウの花を神が指し示したことでした。神は自然の風物を用いても語られるという例です。

主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「アメンドウの枝を見ます」。 (エレミヤ書一.11

 アーモンドには二種あって、野生のアーモンドは白い花をつけ,その種子は苦味を帯びています。もう一つは栽培品種で赤い花をつけ,種子はおいしく、菓子として用いられています。聖書に出てくるのはもちろん野生種の白い花を咲かせる方です。
 まだ若かったエレミヤに対して、神がたえず目を見開いて民を見張っている姿をアメンドウの白い花に目を向けさせることによって象徴的に述べています。


星と詩

 興味深いのは、日本の古代での代表的な歌集である万葉集には、サクラの歌は38首、ウメの歌は104首と、圧倒的にウメが多く歌われているということです。ウメよりはるかにサクラが華やかで春の暖かい頃に咲くのでよく目立つから多く歌われていると思われますがそうではないのです。
 もっとも当時のサクラといえば、現代のようなソメイヨシノでなく、自然の山に多いヤマザクラが多かったと思われます。古代人の方が、現代人よりもウメの花の良さをより深く知っていたのがうかがえます。寒中に単独で花を開くウメの良さを感じ取る心は、夜の闇のなかに清い光を沈黙のうちに投げかけてくる星の良さを感じることに通じると思われますが、意外なことに万葉集では星はほとんど読まれていないのです。夕方に断然他の星の輝きを圧して光る金星は夕づつの名で詠まれていることと、天の川などをのぞくと、星の歌は万葉集の四千五百首のなかでわずかに二首しかないということです。
 それに対してギリシャや中国の古代の詩には星は多く現れるし、聖書には旧約聖書では七十回近く現れ、新約聖書では三十回ほど現れることと考え合わせても、日本の万葉集に星がきわめてわずかしか現れないのは特異なことだと思われるのです。
 地上の制約を超えた、遠大なものを見つめるという心が乏しかったのだろうかと思わされるのです。唯一の神を見つめる心とは、星を見つめる心と通じるものがあります。キリストも明けの明星にたとえられているほどです。


お知らせ

四国集会
 今年の徳島でのキリスト教四国集会(無教会)は、以前の「はこ舟」で五月開催と書きましたが、いろいろの都合で変更となり、六月十五日(土)~十六日(日)となりました。会場は徳島市の眉山会館です。予定に入れておいて頂ければ幸いです。四国集会という名称ですが、従来から県外の方々の参加も自由なので、京阪神方面とか九州、関東方面からも参加者がありました。今年もそうしたいろいろの地域からの参加者も交えてともにみ言葉を学び、主にある交流が深められ、ともに前進していくための場となればと願っています。この会が主の祝福を受けるものとなりますよう、ご加祷下されば幸いです。

私たちの集会で発行している「野の花」文集ができました。この文集も誌上のエクレシアとなり、それらの文が主によって用いられること、そして御名があがめられることを目的としています。


返舟だより

 ある若い友人からつぎのようなメールがありました。現在は外国にいますが、旅立つ直前に送られてきたものです。少し長いのですが、一部を引用します。

 本当のことを言うと僕の方も今にも倒れそうで悩み続けています。本当に何も手につかないといった状態です。
 けれど聞かずにはおれません、死んでしまうとはいったいどういうことなのでしょう?死ぬとどうなってしまうのでしょう?
 母や父やほかの人達の言うように何も無くなってしまうのでしょうか?
 これは、ぼくにとって本当に悲しいことです。今まで生きてきたことも全て消えてしまう、人生に何の意味も見出せなくなってしまいます。
 自分がこの疑問についてずっと悩んでいたからというのもあるのです。はっきり言って不安で一杯です。いくら悩んで、答えを見つけようとしても答えが出ません。
 僕は人よりも「死」というものが幼い頃から人よりも身近にありました。最近の飛行機事故など、そういった一連の事件を目のあたりにしたからかもしれません。本当に神様はいるのでしょうか?
 永遠なんて本当に在るのでしょうか?僕はここ何年間か自問自答してきました。死ぬってどういうことだろう
 どうして生きているのだろう。生きるって何だろう。本当に死んでしまうと真っ暗になって、何も無くなってしまうのだろうか?

 このような疑問はこの友人が書いているように、どんなに考えても答えが出てこない、それは当然だと思われます。
こうした問題に対して平安が与えられるのは、人間の思索や、経験、学校の学びなどではないからです。
それは神からの啓示が必要だからです。
私もそれについて説明しましたが、その説明とか祈りを、神ご自身が用いてくださって、この友人に神からの啓示が臨むのを待ち望むばかりです。
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