アンクル・トムス・ケビン(アンクル・トムの小屋)から  2002-3-3

 このアメリカのストー夫人(*)による小説は、世界で最も大きな影響を与えた小説の一つだろう。それはアメリカの奴隷解放に大きな影響を及ぼした。この小説は深いキリスト教信仰に基づいており、かつ著者自身が奴隷制の悲惨さをも見て、実際に逃亡奴隷を助けることにも関わったし、何とかしてこの悪の制度を変えねばという、信仰に基づく情熱的な心で書かれている。
 それゆえ、この小説は決してたんなる子供向けの物語でなく、社会的な悪に対してキリスト者はいかに対処するべきなのか、国家そのものが悪をなしているときに、その悪い法律に盲従していいのか、というきわめて社会的な、そして困難な問題をも同時に含んでいるのである。ここには、聖書に記されているように「人間に従うよりも、神に従うべきだ」(使徒行伝五・29)という、悪との戦いの精神がにじんでいる。
 しかし、残念なことに、日本では、子供向けに簡略にした物語としてしかほとんどの人は知らないし、大多数の人は、この物語の全体を(簡略版でなく)、大人になって読んだことがないと思われる。しかし、この小説には、単にアメリカの黒人奴隷の解放に関わる歴史的な重要性があっただけでなく、現代の私たちにとっても、キリスト者のあり方についても心に響く内容が多くみられる。
 その中には、その時代においてどうしても必要であったから、神が書かせたのではないかと思われるような雰囲気が流れている。
 これは、もともと奴隷制に反対する立場の新聞に連載されたもので、最初から現在のような形で書き始められたのでなく、彼女によると終わりの方の内容から浮かんできたという。
 この小説を書くきっかけは、義妹によって、「奴隷制がいかにいまわしい制度であるかを、国中が感じるようなものを何か書いて欲しい」と、熱心に頼まれたことであった。大きな影響を持つようになった書物とか仕事は、しばしば自分からの発意でなく、他人からのうながしや暗示によると言われるが、この小説の場合もそうであった。それは、神が義妹を用いて、ストー夫人にこの小説を書くように導いたと言える。
 この小説が出版されるとたちまち世界的に広がり、数多くの版が現れ、海外の訳も出た。出版されてから二十七年ほど経った一八七九年の時点で、イギリスの大英博物館には、アンクル・トムス・ケビンには、絵入り本なども含めて、四十三種類もの版が出版され、十九種類の翻訳が置かれてあったという。
 以前に販売されていた、角川文庫とか新潮文庫本などの入手しやすい全訳本が現在ではなくなっていて、新訳もあるが、かなり高価な本(**)となっているので、一般的ではない。それでこの本の中から印象的な内容を短いコメントを付けて抜粋してみる。なお、英語の原書は現在でも数多くの版が出版されていて、インターネットで簡単に入手できる。日本語訳を持っている人は、比べながら重要箇所を参照することで、ストー夫人の直接の表現に触れることができる。(***

*)ストー夫人 Harriet Elizabeth Beecher Stowe (1811―96) アメリカの女流小説家。牧師の家庭に生まれる。聖書に基づくキリスト者の立場から『アンクル・トムの小屋』(1852)を書き、奴隷制反対の感情を全米的に盛り上げ、南北戦争の気運を促進した。この小説は一八五二年刊。出版後一年で30万部以上を売り尽くし、十年たらずの間に三百万部が読まれるほどになって、世界的な名声を得た。ケンタッキーなどの農園を背景に、黒人奴隷トムがたどる悲惨な境涯が、トムの深いキリスト教信仰を軸にして語られている。一時はやさしい主人セント・クレアとその娘エバのもとで幸福に暮らすが、二人の死によりふたたび売られて悪魔のような奴隷商人レグリの手に落ち、鞭(むち)と責め苦で非業の死を遂げる。この小説に対してなされた、奴隷制を擁護する人たちの激しい攻撃に対し、作者は『アンクル・トムの小屋への手引』を著し、この物語の真実性を例証した。
**)「新訳 アンクル・トムの小屋」明石書店刊 628ページ 六五〇〇円
***)例えば、アメリカのSignet Classic シリーズの「Uncle Tom's Cabin」は1966年の初版以来、四十年近く経った現在も発行されていて、700円ほどで購入できる。

 アメリカで、黒人奴隷を持っていた人が、会社の倒産によって奴隷を売らねばならなくなった。そのジョージという名の奴隷はやはり黒人奴隷のエリザと結婚していた。自分たちが売られていくことを知った、ジョージはひそかに命がけの脱走を計画する。

「何をなさるつもり?ジョージ、悪いことはなさらないでね。あなたが神様を信じ、正しいことをするように努めていれば、神様があなたを救って下さるわ。」
「俺は、おまえのようなクリスチャンじゃないんだよ。エリザ。俺の心は苦しみであふれている。俺は神様なんぞ信じることはできない。なぜ、神様は世の中をこんなふうにしているんだ」
「ジョージ、私たちは信仰を持たなければならないわ。私たちに悪いことが起こっても、神様はできるだけのことをしておられるのだと、信じなければならないって、奥様も言っておられたわ。」………
「エリザ、俺のために祈っておくれ。おそらく、神様はお前の言うことは聞いてくださるだろう。」
「ジョージ、あなたも祈って。そして神様を信じていて下さい。そうすれば、悪いことはしたくならないはずよ。」

当時の黒人たちにはおよそ神などいないと思われるような理不尽なこと、暗黒の力に支配されているかのような悲惨なことがたくさんあった。しかし、不思議なことに、そうした苦しみと悲しみとそして重い労役のただなかにおいても、愛の神を信じる人がつぎつぎと生まれていった。
 ここに現れるエリザという女も同様であった。どんなに苦しみが生じてもなおかつ神の愛と導きを信じ続けていくところに、悪に打ち倒されない力が生まれてくるのであった。

奴隷トムを所有していたのは、やさしい主人(シェルビー氏)であったが、商売の仕事がうまくいかなくなって、どうしても所有している奴隷を売らねばならなくなったのである。その時にその夫人がつぎのように述べている。
 
「こんなふうに、愛するエリザたちを売ってしまわねばならないとは、これは奴隷制度に対する神様ののろいだわ。むごい、あんまり、むごい、ひどいこと。私たちの国の法律のもとに一人でも奴隷をおいておくことは、罪悪なのです。私はそれをいつも感じていました。子供のときからもそう感じていました。教会に行くようになってからは一層強く感じました。奴隷制度が正しいものだと考えたことがないこと、奴隷を持つのは気がすすまなかったということはご存じのはずよ。」(第五章より)

この物語の主人公である、奴隷トムの特徴はつぎのように述べられている。

 彼が特にすぐれていたのは、祈りであった。その祈りは、心を動かす率直さと幼な子のような熱心をもってなされ、聖書の言葉が豊かに息づいていた。
 彼の生命の中には、聖書の言葉がすっかり消化され、彼自身の一部となり、ひとりでに彼の口から、無意識のうちにしずくのようになって出てきたのであって、そのような祈りはなにものも及ぶところではなかった。
 彼の祈りは、聞く人の神へと向かう心に強く働きかけて、彼のまわりの至るところで、共感の祈りを呼び覚まし、トムの祈りの声がまったく消えてしまうほどであった。(第四章より)

祈りは、人を現す。いつも実際に祈っている人と、ふだんあまり祈っていない人の祈りは自ずから違ってくる。隠れたものは現れるものであって、隠れた祈りを日々続けているときには、その祈りは人前で祈るときにもその霊的な雰囲気が自ずからにじみ出るものである。
 祈りをたんに人間的な言葉をつらねて祈るのでなく、御心に従って祈るように聖書では記されている。
それゆえに、私たちの祈りのなかでもみ言葉に自然にうながされるように祈ること、み言葉をそのまま祈ることの重要性を知らされるのである。
 主イエスも、すでに祈りを多くしていたはずの弟子たちに、どんな祈りが最も深く、またすべてを包むものであるかを「主の祈り」によって示している。

親しかった仲間の奴隷が売られることに対して、残された奴隷たちは怒った。そして奴隷を買うために来た商人が、その奴隷に逃げられていらいらしているのを見た。

「いい気味だ!」クローばあやは憤然として言った。あいつは心を改めないなら、いつかひどい目に会うだろう。神様があいつを呼びつけてお裁きになるよ。」
「あいつは、地獄に行くね、きっと」小さいジェークが言った。
「当たり前だよ。あいつはたくさんの、たくさんの、人の心を引き裂いた。」クローばあやは厳しく言った。
「悪いことをしたやつらは永遠に焼かれるのだろう、きっと。」子供のアンディーが言った。
「それが見られたら嬉しいんだがなあ」と小さいジェークが言った。
その時、一つの声が響いた。
「子供たち!」みんなはぎくりとした。トムであった。彼はそこに来て戸口のところでそうした会話を聞いていたのであった。
「子供たち」と彼は言った。
「あんた方は自分が言っていることの意味がわからないのじゃないか心配だ。子供たち、恐ろしい言葉はいつまでも消えないものだよ。考えただけでも恐ろしいことを言っている。どんな人間に対してでも、幸いを願わなければらないよ。」
「あいつらのために祈ることなんかできるものか。あいつらはとても悪いんだから」
「草や木だってあいつらを非難するだろうよ。」とクローばあやが言った。
「迫害するもののために祈れ、と聖書には書いてある」とトムは言った。
「あいつらのために祈れって?」クローばあやは言った。「ああ、それはあんまりひどいじゃないか。私にゃできない」
「そう思うのは当たり前だ。クロー、そしてそういう感情は強いもんだ。」トムは言った。
「しかし、神様の恵みはもっと強いんだ。それにあんなことをするような人間の哀れな魂はどんなに気の毒なものか、考えなくちゃならないよ。おまえは自分がそんな人間じゃないことを神様に感謝しなきゃならないよ。そういう気の毒な魂が、どんな目に会わされるかということを考えたら、私は本当に何万回でも売られたほうがましだ。」

このトムの言葉のように、キリスト教の迫害の時にはいつも敵対する者のためにどうするかが問われていった。そしてキリストの霊に導かれた少数の者たちは、最初の殉教者ステパノのように、いかなる迫害のときでも敵を憎むことなく、その敵のために祈り、幸いをすら祈ったのであった。そしてそうした祈りの心は、ただ生きたキリストだけが与えることのできるものであって、彼らの祈りの背後にあったキリストが、その福音を広げていくように導いたのである。

 つぎにアメリカ上院議員のバード氏夫妻が現れ、夫人のメアリーが言う。

「この地方に逃げてくる哀れな黒人奴隷たちに飲食物を与えることを禁じる法律が通りそうだというのは本当でしょうか。そんな法律が討議されていると聞いたんですけれど、キリスト者の議員だったらそんな法律は通過させないと思いますわ。そういう法律はあまりに残酷でキリスト教的じゃないと思いますわ。ねえ、あなた、そんな法律は通過しなかったのでしょうね。」
「ケンタッキー(アメリカ合衆国中央東部の州)から逃げてきた奴隷を助けることを禁じる法律は通過したのだよ。あの向こう見ずな奴隷廃止論者があまりやりすぎたものだから、ケンタッキー州の連中はひどく神経質になって、それをしずめるには何とかしなければならなくなったようなのだ。もうキリスト教的とか、親切とかいってはいられないのだ」
「それで、その法律ってどんな法律ですの? 逃げてきた哀れな奴隷の人たちに一夜の宿を与えることまで、禁じやしないでしょうね。温かい食物や、古い着る物を少しやったり、静かに仕事をやらせることまで禁じるというのじゃないでしょうね。」
「いや、そうなったんだよ。おまえ。
バード夫人は穏やかな青い眼と血色のよい顔色と、特別にやさしい声をもったはにかみやの小柄な女性であった。しかし今、彼女は、顔を赤くしてすばやく立ち上がった。それはいつもの様子とは全く違っていた。そして断固とした態度で夫に歩み寄り、きっぱりと言った。
「ねえ、ジョーン。あなたがそういう法律はキリスト教的であると思っているのか知りたいの。」
「残念ながら、そう考えたのだ」
「ジョーン、あなたは恥ずべきですわ。かわいそうな、家庭も住むところもない人たち!恥ずべき汚らわしい法律ですわ。私は機会があり次第、そんな法律は一人で破ってしまいます。機会が与えられるとよいと思います。女として、そのような人たち、哀れな飢えている人たちに、かわいそうに一生の間、虐待され、圧迫されてきた奴隷であるという理由で、温かい服やベッドを与えてやることができないとしたら、世の中はどんなにか悪くなることでしょう。
 ジョーン、私は政治については何もしりません。でも、私は、私の聖書を読みます。そうすると、飢えた人に食物を与え、着る物のない人には着せてやり、頼りのない人は慰めなければならないということがわかります。私はそういう聖書の教えに従いたいのです。」
「しかし、おまえが法律に反して奴隷にそんなことをしたら、大きな社会的な災いを引き起こすだろう。」
「神様に従うことは決して社会に災いを引き起こすものではありません。そんなことあり得ないということはわかっています。神様がお命じになることは、いつだって一番安全で間違いのないものなのです。」

「私、あなたがそういうことをなさるのを見たいわ、ジョーン。本当に。例えば、吹雪の中に、一人の黒人奴隷を追い出すようなことを。」
「残念だがそうする。非常につらい義務だろうが。」
「義務ですって。そんな言葉を使わないで。それは義務などでないことはわかっています。奴隷が逃げるのは、寒さや飢え、恐怖にあまりにも苦しめられ、しかも誰にも助けてもらえない時なんですよ。
 法律があろうとなかろうと私はやります。そうすれば神様は私を助けて下さるでしょうよ。」

 上院議員のジョーンとメアリ夫妻が、このような議論があった後で、逃げてきた黒人奴隷のエリザが子供とともに、寒さのために衰弱しきってジョーンの家にたどり着いた。追跡してくる奴隷商人たちの手から逃げるために、川を流れる氷の上を命がけで飛び歩いて逃げてきたのであった。
 意識不明になっていたが、正気になったとき、バード夫人は言った。

「どこから来たの?」
「ケンタッキーからきました。」と女は答えた。
「いつ?」今度はバード氏が言った。
「今夜」
「どうやって来たのです?」
「氷の上を渡って」
「氷の上を渡って来たって!」
「そうです。神様がお助け下さったから私は氷の上を渡ってくることができました。私を追いかけてくる人たちがすぐ後ろに迫っていたからです。他に方法がなかったのです。やれるとは思いませんでした。ああしなければ、死ぬだけでした。
 やってみなければ、神様がどんなに大きな力で助けて下さるか誰にもわからないのです。」

このエリザの言葉には、作者のストー夫人自身が、逃げてきた奴隷を助けることに関わったこと、そしてその際の困難や危険をも、神の助けを与えられて導かれたという経験が感じられる。実際、ここでエリザに言わせている言葉は、現在でも生じることなのである。
 困難や苦しみのとき、どちらを選ぶかという難しい選択をせねばならない状況に置かれたととき、本気で神を信じて、決断したときにだれも予想しないことが生じた、例えば、助けとなる人が現れたり、必要な物や金が与えられたり、状況が変わって危険を逃れたりということである。
 私自身もそのようなことをいくつか思い出す。こうしたことを経験すると、この不可解な、謎に満ちた世界、偶然と悪が満ちているだけの世界のようであっても、その背後に驚くべき真実な神の御手が働いていることを知らされるのである。

トムが奴隷として売られて行ったのは、セント・クレア家であった。その家では、愛する娘(エヴァ)が病気がちであった。彼女の病がだんだん重くなってきたある日のことがつぎのように記されている。死を前にして、恐怖とか不安でなく、逆に主の平安を与えられていた魂のすがたがつぎのように心に残る表現で記されている。

エヴァは心の中で天国が近づいたという静かな喜ばしい予感に確信を持っていた。
夕日のように静かな、しかも秋の明るい静けさのように美しい境地にあって、
彼女の小さな心は安らかであった。

it rested in the heart of Eva,
a calm,sweet,prophetic certainty that heaven was near;
calm as the light of sunset,
sweet as the bright stillness of autumn,
there her little heart reposed,…
(アンクル・トムズ・ケビン第二十四章より)

 そしてさらに、このエヴァが自分の行くところは主イエスのもとであるということを言うが、それはつぎのように表現されている。

私たちの救い主キリストの家へ。
そこはそれは喜ばしく平和なところなのだわ。
そこでは、すべてがとても愛すべきところなの!

To our Saviour's home;
it's so sweet and peaceful there,…
it is all so loving there


このような、深い信仰を持っていたエヴァは、この後まもなく、天のふるさとへと帰っていく。後に残されたのは、愛する娘を失って悲嘆にくれるその家の主人(セント・クレア)であった。しかし彼は娘が深い信仰を持っていたにもかかわらず、どうしても神を信じることができない。

「トム、私は信じない、信じられない。私はなんでも疑うくせがついてしまっているのだ。聖書を信じたい、しかしだめだ。」
「ご主人様、愛の深い主にお祈りなさいませ。主よ、信じます。私の不信を救って下さい、と。」
……私にとっては、エヴァも、天国も、キリストも、何もない。」
「ああ、旦那様、あります!私は知っているのです。本当です。」トムはひざまづいて言った。
「信じて下さい、旦那様、どうか信じて下さい!」
「どうしてキリストがいるっていうことがわかるんだ。トム? お前、見たことなんかないじゃないか。」「私の魂で感じるのです。旦那様、今だって感じています!
 ああ、旦那様、私は年取った女房や子供たちから引き離されて売られた時には、悲しみのあまりほんとにもう少しで死んでしまうところでした。何もかも奪われたように思ったからです。
 そのとき、恵み深い主が私のそばに立って言われたのです。『恐れるな、トム!』
 主は、哀れな者の魂に光と喜びを与えて下さいます。あらゆるものを平和にして下さいます。 … …私は哀れな人間ですから、自分からこんな考えがでてくるはずはないのです。主から出た考えなのです。」
 トムは涙をぽろぽろ流しながら声を詰まらせて話した。
……
セント・クレアは頭をトムの肩にもたせかけ、その堅い、忠実な黒い手をしっかりと握った。「トム、お前は私を愛してくれるんだね」と彼は言った。「私はお前のように、心の善い正直な心をもった人間の愛などを受ける値打ちなどないのだよ。」
「旦那様、私よりもずっと旦那様を愛しているお方がいますよ。恵み深いイエス様は、旦那様を愛しておられます。」
「どうしてそれがわかるんだ、トム?」
「私の魂の中でそれを感じるのです。『キリストの愛は人知を超えるもの』なのです。」
(「アンクル・トムズ・ケビン」第二七章より)

 奴隷トムの主人であった、セントクレアは「今も、キリストがいるということがどうしてわかるのか?見たことがないではないか。」とトムに問いかけた。これは現在もほとんど誰もが問いかけることであり、これと同様に語るキリスト者に対して不思議に思うことであろう。
 キリストは確かにおられる、それはなぜか。トムは「魂で感じる」と言っている。これも現代のキリスト者も共感する言葉であるだろう。
 信じるとは全くいるかどうかわからないのを、いるとすることである。しかし、キリスト者は単にどちらかわからないのを信じるのでなく、キリストがおられるのを、魂において実感するのであって、そこから本当の力も励ましも感じるようになる。

 「アンクル・トムズ・ケビン」という書物は、小さい字で書かれた文庫本で上下2冊、七四〇ページにもなる分量であるが、あちこちにこのようなキリストの心と聖書の精神が見られる。
 いかなる書物も、アメリカの歴史において「アンクル・トムズ・ケビン」ほどに直接的で、しかも力ある影響を及ぼしたものはない言われている。奴隷たちの受けた苦しみや弾圧を、生き生きと描いて、この本は特に北部アメリカの人々の奴隷制への反対の感情に火を付け、奴隷解放へと導く大きな力となったと言われる。
 作者のストー夫人と同時代のトルストイやヒルティなどもこの作品を高く評価したのであった。
 このストー夫人の名作は、ロシアを代表する大作家トルストイが、その芸術論で、「神と隣人に対する愛から流れ出る、高い、宗教的、かつ積極的な芸術の模範として、シラーの「群盗」、ユーゴーの「レ・ミゼラブル」、ディッケンズの「二都物語」、ドストエフスキーの「死の家の記録」などとともにあげている。(「芸術とは何か」第十六章)
 また、ストー夫人やトルストイとも同時代であった、スイスのキリスト教思想家ヒルティも、この作品については、こう言っている。

 あなたはどんな本を一番書いてもらいたいと思うか。この場合、聖書の各篇は問題外としよう、同じくダンテも競争外におこう。 … …
 わたしの答えは、ストー夫人の「アンクル・トムズ・ケビン」、デ・アミチスの「クオレ」、テニソンの「国王牧歌」である。 そのあとに、ゲーテ、シラー、カーライルなどの幾冊かの本がつづき、ずっとあとに、たとえばカントやスベンサーがやって来る。(「眠れぬ夜のために下」七月十六日の項より」)
 
 書店で販売されている、世に文学作品といわれるものの中で、小説、物語などのたぐいは無数にある。しかしそれらのうちのきわめて多くのものが、たんに罪を描くのが内容となっていると言えるだろう。すぐれた人間を描く伝記文学にしても、その人間の良い点ばかりを書いて英雄視したりして、現実の人間の罪をもったすがたを正しく描かれていないことが多い。人間を偶像化して描くことはそれ自体が罪なのであって、真理にかなった書物とは言い難い。
 どうしてこのようになるのか、それは当然である。真の光、いのちの光というべきキリストを信じず、生きているキリストを実際に感じていないならば、光を指し示す内容を書くことはできないからである。
 そのようななかで、このストー夫人の作品は、この世の闇のただなかにおける、神の愛が主題となっている貴重な作品である上に、当時の社会的な大問題に正面から取り組むという広い視野をも同時に持っている内容となった。
 ヒルティがどんな作品を書いて欲しいかとの問に、この「アンクル・トムス・ケビン」を第一に上げているのも、この世で最も大切な神の愛についてこの小説が強い印象を与える内容となっているからであり、それはまさに永遠の神の言葉たる聖書そのものの主題にほかならない。

区切り線
音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。