アンクル・トムス・ケビン(その二)  2002-4

「アンクル・トムス・ケビン」の中から (その2)
 前回にごく一部を紹介したが、何人かの方々から感想などを頂いた。そして私の周囲の人たちも子供向けのものしか読んでいないし、そのためにこの本は子供のための物語だというように思っていたというのが多かった。またずっと以前に読んだが、もう一度読んでみたいという方々もおられた。
 それで、今回もこの本の内容の紹介を続けたい。
 これは小説である。しかし、すぐれた文学作品は単なる作り話ではない。それは人間の深いところをじっさいに流れる共通の感情を明らかにし、私たちが気付かなかった清らかさや美しさ、あるいは神の愛などをあざやかに浮かび上がらせてくれる特質がある。本来なら眠ったまま、あるいは耕されずにいたであろう、私たちの魂のある部分が耕され、深められ、そして清められるのである。そして固まりかけていた心がよみがえるような思いを与えてくれるものである。

 つぎにあげるのは、奴隷のトムが慣れ親しんだ主人のもとから、売られていくときの状況である。

トムの小屋の窓越しにその二月の朝は、灰色で、ぬか雨が降っていた。打ちしおれた人々の顔には、悲しみに閉ざされた心の影が映っていた。クローばあやはもう一枚のシャツをテーブルの自分の前にひろげていた。彼女は、ときどき顔に手をやって、頬に流れる涙を拭いた。
 トムはそのそばに聖書を膝の上にひろげて、頬杖をついて、すわっていた。しかし何も口をきかなかった。まだ早かったから、トムの子供たちは小さな粗末なベッドで一緒に寝ていた。
 優しい誠実な心を持ったトムは立ち上がって、静かに近寄って子供たちを見た。「これが見納めだ」と彼は言った。
 クローばあやは声をあげて泣き出した。
「あきらめなきゃならないなんて、おお、神様、どうしてそんなことができるでしょう?あんたがこれから行くところについて何かわかっていたら。どんなふうに扱われるかわかってたら。奥様は一、二年のうちに買い戻せるようにやってみるとおっしゃる。だけど、ああ、河下へ行って帰って来たものなんかありゃしない。あんたは殺されちゃうだろう。栽培地じゃひどくこき使うって話を聞いたことがあるよ」
「クロー、どこにだって、ここと同じ神様がいらっしゃるよ」
「そうかね」とクローばあやは言った。
「いるとしておこうよ。しかし神様もときどき恐ろしいことをなさるものだ。私にゃ安心できないよ」
「わしは神様の御手の中にいるのだ」とトムは言った。
「何ものも神様がなさる以上のことはできないよ。それが、わしが神様に感謝するただ一つのことなんだよ。それに、売られてミシシッピ川の下流へ行くのはこのわしで、おまえや子供たちではない。おまえたちはここにいれば無事だ。何か起るとしてもわしにだけ起るんだ。
 神様がわしをお助け下さるだろう。わしにはわかってる」。

「神はどこにでもおられる、そうしてどんなに悪がひどいことをしようとも、神はそれらすべての上におられて、最終的には救って下さる」、これが、家族と引き離され、激しい強制労働が待ち受けている南部へと売られていく絶望的な状況にある奴隷トムの唯一の希望であった。これは、使徒パウロが、つぎのように述べていることを思い出させるものがある。

 兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまった。
 わたしたちとしては死の宣告を受けた思いだった。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになった。
 神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけている。(コリント一・810

 そして、こうした困難にあっても、「神は必ず助けて下さるということを知っている」と確信している。この確信もパウロの持っていたものであった。それは本当に助けてくださるかどうかわからないが一応信じるというようなものでない。「知っている」のである。信仰は単なる根拠のない希望でなく、一種の知識となる。よく知られた著作家のつぎの文もそのことを述べている。

 だれでも信仰の一時的な動揺を完全に免れるわけにはいかない。さもなければ、「信ずる」とはいえないであろう。しかし、信仰上の経験を重ねるうちに、信仰がしだいに一種の「知識」となる。(ヒルティ著 眠れぬ夜のために・上 四月四日の項より)
………………
 自分自身の悲しみに耐えて、自分が愛している者を慰めようとする健気(けなげ)な男らしい心!
 トムは、こみ上げてくるものをこらえていた。しかし彼は勇気を出して強く語った。
「神様のお恵みのことを考えようよ!」トムは体を震わせて、そうつけ加えた。
「お恵みだって!」とクローばあやは言った。
「そんなもの私にゃ見えないよ。これは間違ってる!こんなことになるなんて間違っているよ!だんな様は借金のためにあんたを売っちまうようなことをしてはならなかったんだ。だんな様はあんたのおかげで二回以上も助かったんだ。あんたを自由にしなければならないのだ。何年も前にそうすべきだった。今だんな様は困っていなさるのは確かだ。でもそれは違うと思うよ。なんと言われても私の考えを変えることはできないよ。あんたは忠実だった。あんたは自分のことをする前にだんな様のことをして、自分の女房や子供のことよりも、だんな様のことの方を考えた。
 それなのにあの人たちは自分の苦しみから逃れるために、心にある愛や心の血を売り飛ばすあの人たちはいまに神様のお裁きを受けるんだ!」
「クロー、もしおまえがわしを愛していてくれるなら、おそらくわしたちが一緒に過す最後の時に、そんなふうに言わないものだ。なあ、クロー、だんな様の悪口は一言だって聞くのはわしは辛いよ。
 天におられる主を仰がなければいけない。主はすべての上におられるんだ。雀一羽も御心なくば、落ちないんだ。」

神からの恵みのことを考える、そのことは、キリスト者に与えられた特権でもある。聖歌のなかにも、つぎのような歌詞のものがある。

望みも消え行くまでに 世の嵐に悩むとき
数えてみよ主の恵み 汝(な)が心は安きを得ん
数えよ主の恵み 数えよ主の恵み
数えよ一つずつ 数えてみよ主の恵み(聖歌六〇四番、新聖歌一七二番)

 苦難のときには災いや苦しみのみが心に浮かんでくる。それらをつぎつぎと数えてしまう。そのような時にこそ、過去に受けた主からの恵みに思いを注ぎ、そこからいまの苦しみや困難からもきっと助け出して下さると信じる心を強められる。
 パウロのつぎのような言葉もこうした状況を知った上で言われた言葉だと考えられる。

そして、いつも、すべてのことについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。(エペソ人への手紙五・20
 
 いつも神に感謝せよ、と言われてもいま困難と苦しみのただなかにあるときにはどうして感謝できようか。それができるのは、ここで言われているようにかつての神からの恵みを冷静に思い起こすことによってのみ可能なのである。

 奴隷をどうしても売らざるを得なかったシェルビー氏の夫人はそのような悲しむべきことになってしまうのを、どうすることもできなかった。彼女ができることはただ、心からの愛と祈りの心をもって、奴隷たちの前に出ること、そうして将来、買い戻すと約束することであった。つぎはそうした場面である。
………

その時男の子の一人が「奥様がいらっしゃるよ」と叫んだ。「奥様だって何もできやしない。何しにいらっしゃるんだか」とクローばあやは言った。シェルビー夫人がはいって来た。クローばあやは明らかに不機嫌な様子で椅子を勧めた。夫人はそういうことは気づかないようだった。彼女は青ざめて、憂わしげだった。
「トム」と彼女は言った。「私
 そして急に口をつぐみ、黙りこくっている一家の者を見て、椅子に腰を下ろし、ハンカチーフを顔に当てて、涙を流し始めた。
「まあ、奥様、もう何も、何も」
 今度はクローの泣く番だった。しばらくの間彼らは皆一緒に泣いていた。
 そして身分の高い者も低い者も、みんな一緒になって流すこうした涙のなかに、虐げられた者の悲しみと怒りはすべて溶け去っていったのであった。
 ああ、苦しみにあえぐ人たちを訪ねたことがある人たちよ、あなたは冷たい心で与えた、金で買うことができるどんなものも、真実な同情の心から流した一滴の涙ほどの価値もないことを知っているだろうか。
 「トム!」とシェルビー夫人は言った。「私はおまえの役に立つようなものを何も上げることができない。お金を上げたら、取られてしまうだろう。
 でも、本当に心から、神様の前で、私はおまえのことは忘れない、お金が自由にできるようになったら、お前の行き先をつきとめて、必ず、すぐにおまえを連れ戻しますからね。その時まで、どうか神様を信じていておくれ!」

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売られていくトムはただ、神にのみ望みを託していた。そして今後の過酷な生活をもそれによって耐えていくことができると信じていた。神は信仰を持つからといって困難や苦しみに会わせないという保証はない。しかしそうしたあらゆる困難からも、必ず共にいて助け出してくださるということを確信していたのであった。
 そして、自らの力ではどうすることもできない夫の事業の状況のゆえに、夫の手によって所有している奴隷が売られていくことに耐え難い思いをもっていたシェルビー夫人もまた、神に望みを託していた。この物語に現れるキリスト者たちは、奴隷を所有していた立場にいた者も、売られていく奴隷も、そして逃亡奴隷を危険を犯してかくまって、逃がしてやる人たちも、真剣なキリストへの心、信仰を持っていて、その信仰が生きて働いているのが感じられる。

 トムの売られていく状況と並行して描かれているのは、やはり売られることに決まった若い女奴隷と子供のことである。この女奴隷はエリザという。彼女がシェルビー氏の家から売られる寸前に命がけで逃げ出して氷の流れる危険な川を渡り、迫り来る追っ手から逃れて、倒れたところを救い出されたことは前回に少し記した。つぎはその助けられた家での出来事である。

 エリザは自分を介抱してくれる、その家の夫人をじっと見つめた。
「奥様」と彼女は突然言った。「奥様はお子さまを亡くしたことがおありでしょうか?」
この問は思いがけなかったし、まだ生々しい彼女の心の傷に深く触れた。それはこの家の一人の愛らしいヘンリーという子供が葬られてから、やっと一ヶ月がたったきりであったからである。
「では、私の気持ちをおわかり下さるでしょう。私は二人の子供をつぎつぎに亡くしました。この子だけが残りました。しかし、この子が売られようとしたのです。もしそんなことになれば私は生きていけないと思いました。それでこの子を連れて夜逃げたのです。追いかけてきた人たちにもう少しで捕まるところでした。私は冷たい水を流れる氷の上を跳んで川をかろうじて渡ったのです。最初に気がついたときに一人の人が私を助けて岸にひきあげてくれたことです。」
 エリザを助けた人の家は、上院議員のバード氏の家であった。彼は逃亡奴隷をきびしく扱うようにという法案を通過させるのに力を入れた人物であるが、その夫人のメアリは奴隷の苦しみに深く感じる人であった。そうしたところにエリザが運ばれてきたのであった。
 そしてエリザの苦しみと非常な命がけの逃亡の旅を聞いて、バード氏も心を動かされた。そしてエリザを自分の地位が危なくなるようなことをしてでも、逃がしてやろうとするのであった。
 そしてこの死ぬかも知れないと覚悟しつつ、幼い子供とともに逃げていこうとするエリザへの思いやりが生まれてきた。

 彼は扉の所で、ちょっと立ち止って、少しためらいながら言った。「メアリ、おまえがどう思うか知らないが、あのタンスには、亡くなったヘンリーのものが、いっぱいはいっていたはずだね」そして彼はそれだけ言うと、扉をしめて出て行った。
 妻は彼女の部屋に続いた小さな寝室をあけて、ローソクを手に取り、タンスの上に置いた。それから鍵を取出してそっとタンスの鍵穴にあてて、突然手を止めた。バード夫人はそうっとタンスをあけた。
 そこにはいろいろな形の小さな服やエプロンや、靴下などがはいっていた。爪先がすり切れた一足の小さな靴さえ中からのぞいていた。おもちゃの馬やこまやまりもあった。
 それはバード夫人が、愛児が亡くなったとき、涙をながしながら張り裂けるばかりの心で集めた形見の品であった。彼女はタンスのそばに腰を下ろし、頭を抱え、涙が指を伝ってタンスに流れるまで泣いた。
 そして突然頭を上げると、急いでなるべくきれいで役に立ちそうな品を選んで、それを集めてひとまとめにした。
「お母さん」とそれを見ていた、彼女の子供が、やさしく彼女の腕に手を触れて言った。
「誰かにおやりになるの?」
「可愛い子供たち」彼女は優しくしかも真剣に言った。
「もしあの可愛いヘンリーが天国から見ているとしたら、私たちがこんなことをするのを喜んでくれますよ。普通の人にこれをあげようとは思いません。でもね、母さんは、私よりももっと苦しみ悲しんでいる一人のお母さんにあげるのですよ。神様がこの品物と一緒にお恵みを下さるように」
 自分の悲しみをすべて他の人の喜びへと実らせていく清らかな魂がこの世にあるものである。そういう魂をもっている人のこの世の望み(子供)は、多くの涙とともに土に埋められても、それは種のようにやがて花を咲かせ、芳香を放って、よるべなき人々や悩める人々の心の傷をいやしてくれるものなのである。
 今、明かりのそばにすわって、そっと涙を流しながら、頼るもののない放浪者(逃げている奴隷のエリザ)に与えるために自分の亡き子供の形見を揃えている、思いやり深い婦人はそうした人間の一人なのである。 バード夫人は大急ぎで小さいきれいなトランクにいろいろなものを入れて、それを馬車に乗せるようにと夫に言ってから、エリザを呼びに行った。彼女は子供を抱いて現れた。急いで馬車に乗せると、エリザは馬車から手を差し出した。それにこたえて出されたバード夫人の手と同じように柔らかく、美しい手であった。
 エリザは大きな黒い瞳に、はかりしれない真剣な意味をこめてバード夫人を見つめて、なにか言おうとした。彼女の唇が動いた、一、二度言おうと繰り返した、が、声にはならなかった。 そして決して忘れることのできない表情で天を指さして、崩れるように座席に腰をおろして顔を覆った。戸が閉められ、馬車は動き出した。

She fixed her large, dark eyes, full of eanest meaning, on 'Mrs. Bird's face, and seemed going to speak. Her lips moved,--she tried once or twice but there was no sound,--and pointing upward with a look never to be forgotten, she fell back in the seat, and covered her face. The door was shut, and the carriage drove on.

エリザはバード夫妻からの特別な愛情を受け、逃げていくことができた。このような追いつめられた弱い女奴隷の心には万感胸に迫るものがあっただろう。そして彼女ができたことはただ、無量の思いをこめて恩人を見つめ、天にいます主を指し示して、神からの祝福を祈って別れることなのであった。

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 南北戦争という悲惨な戦争も引き起こすことになった奴隷差別問題、そのあとで、奴隷解放令が出されたが、このような歴史的な状況から生み出された小説はおそらく二度と書かれることはないであろう。それゆえに、少しでもこうした小説の内容に触れていただきたいと思った
 前回述べたように、トルストイが特別にこの本を高く評価し、またスイスのキリスト教著作家のヒルティが、最も書いてもらいたかった書物としてあげているのは、この本の内容にある。この世の悪や罪などを描くことだけにおわっている通常の小説などと根本的に違うのは、この本が、そうした現実の悪のただなかにおけるキリストの愛と光が示されている点である。

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