2002年4月号

内容・もくじ
落ちた者
繰り返しということ
アンクル・トムス・ケビン
どこへ行くのか
ことば
休憩室
返舟だより


落ちた者  2002-4-1

 社民党の次の代表者になるのではと思われていた女性代議士が秘書の報酬に関する流用問題で、辞職する羽目になった。社民党は現在の平和憲法を守ろうとする政党であり、憲法の平和主義を変えようとする方向へとその道が整えられつつある現在の政治状況においては貴重な存在といえる。しかしそのホープとされていた人が見る見るうちに落とされていくのを国民は目の当たりにした。
 ある女性タレントが、新聞で彼女のことについて、「自民党の狸おやじにかみついたら、反撃を受けて一撃で倒されてしまった」というようなことを言っていた。彼女は、心身ともに相当な痛手を受けているようだ。
 政治の世界に限らず、この世では、こうしたことはよく起こる。絶えず権力や金の力などが渦巻いているのが政治や現実の社会の状況である。そこでは油断しているとすぐに倒されるし、また自分が原因で倒れることもある。
 雪印の問題も同様である。それまで好調であった企業も一部の社員の正義感の欠如や油断から、してはならないことをやりだし、それが止まらなくなる。それを外部に漏らされるとたちまち、突き落とされてしまう。プロ野球のようなはなやかな世界も数年前までたぐいまれな監督として有名であった者でも、不都合な出来事が生じるとたちまち落ちていく。そして今回の雪印のように、企業などではひとたび落ちてしまうと、もう二度と立ち上がれないということもしばしばみられる。
 聖書の世界ではどうだろうか。
 この世の世界では、裁判になるような罪とか失敗、不正によって落ちていく。そしてそれは一部のものと考えられていて、落ちこぼれとにならないようにと巧みに罪をも隠し、弱者を押しのけようとする傾向がある。
 しかし、聖書の世界では、そのような一部の者だけが落ちていくのでなく、人間がだれしも持っている自分中心の考え方、不信実、愛のないことなど、はじめから罪深い存在であって、楽園から追放された存在であり、人間はみなあるべき正しい所から落ちている者である、とみられている。滅びのなかに突き落とされた存在、それが人間なのである。この世でどんなに成功しようとも、もてはやされていてもそれでもやはり突き落とされた存在であり、滅び行くものでしかない。人間はみんなそうした自分中心の罪というなかにあり、死ぬとたしかに闇のなかに落ちていくことになる。
 こうしたすべてが落ちていく状況にあって根本的な救いの道、落ちている者を引き上げるために来て下さったのが、キリストであった。キリストは一人高いところにあったのでなく、人間と同じところに立たれて、みずからも人々から捨てられるという道を歩まれたのであった。 
 キリストは最初に故郷に近い町で、神の言葉を宣べ伝えたとき、ただちに人々の怒りを買った。

人々は皆怒って、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。(ルカ福音書四・29)

 主イエスはこうした危険な状況からその伝道の生涯を始めることになった。そしてそれから三年後、ついに裏切り者によって売り渡され、十字架にかけられて重罪人として処刑されることになる。この世から突き落とされてしまったのである。
 福音宣教に関わる者は以後の長い歴史においてこのような危険に遭遇することがたびたび起こる状態となったのである。イエスが直面した危険は、以後の歴史においてキリスト者たちが真理を伝えようとするとき、繰り返し経験されていくことの預言となった。
 主イエスを崖から突き落とそうとするこの世の力は、ずっと主イエスの生涯のあいだ続いた。
そしてイエスという存在は闇に葬られたと思われただろう。十二人の弟子たちですら逃げてしまい、筆頭の弟子すらも三度も主イエスを否定したほどなのだから。
 しかし、どのように突き落とそうとする力が強くとも、神はそうしたあらゆる闇の力にまして強い。
 殺されてこの世から抹殺されたと思われたにもかかわらず、キリストは三日目にはよみがえった。そしてその復活の力をもって弟子たちに新しい力を注ぎ、命をかけて福音伝道をする者と変えていった。
 復活とは、突き落とそうとするいかなる力にも勝利するという力である。
 キリスト教そのものが、国家権力の総力をあげて突き落とされようとしたのであった。じっさい、紀元六十四年には、当時の皇帝ネロによってローマの大火の原因がキリスト教徒にあるとされ、多数が逮捕された。それ以来、三百年近い年月にわたって、ローマ帝国の武力によってキリスト教はこの世から突き落とされようとしたのであった。
 日本の江戸時代においても同様である。やはり同じように数百年という長い間にわたって、キリスト教は突き落とされる状況に置かれていた。
 しかし、それにもかかわらず、キリスト教は落ちたままではいなかった。不死鳥のようによみがえってきた。それはキリストご自身が闇に突き落とされて三日目によみがえったからであった。キリストと結びつくものはなんでもそのような不滅の力を与えられてきたのである。
 すでにキリストはつぎのように約束している。

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ福音書十一・25〜26)

 もしも、復活がなかったら、私たちはすべてこの世から得体の知れない闇の世界、死の世界へと突き落とされていくものでしかない。どんな権力者も、王者もみな同様である。
 しかしキリストの復活があり、信じる者には、その復活の力が与えられるゆえに、私たちはどのような所に落ちていったとしても、ふたたび新しい力を与えられて立ち上がることができると約束されている。

しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。(イザヤ書四十・31)

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