味わい、見よ! 詩編三四編より  02-5-2

どのようなときも、わたしは主をたたえ、
わたしの口は絶えることなく賛美を歌う。
わが魂は主を賛美する。
苦しむ人よ、それを聞いて喜び祝え
わたしと共に主をたたえよ。
ひとつになって御名をあがめよう。

わたしは主に求め、主は答えてくださった。
あらゆる恐れから救い出してくださった。
主を仰ぎ見よ、そうすればその人の顔は輝く…
苦しむ人の呼び求める声を主は聞き、苦難から救ってくださった。
主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった。

 神を讃美するということは、よほど神からのよきものを与えられた経験をしないとできないことです。それが五節から十一節に記されています。
 この詩の作者は、個人的な深い経験があったのがうかがえます。それは「わたしは主に求め、主は答えてくださった。
 あらゆる恐れから救い出してくださった。」

との表現からわかるのです。信仰とは、つねに個人的な経験がその基礎にあります。他人の経験や意見でなく、自分自身の苦しみや孤独、なやみのなかで神がして下さったこと、それが原点にあるのです。
 そうした苦しみのとき、その叫びを神は聞いて下さった、という体験がなければいくら書物で研究しても、議論しても唯一の神のことはわからない。
 この作者は、苦しむ人をいかに神が愛をもって助けて下さるかの実感を、「神が天使を送り、その天使が苦しむ人の周りを取り囲んで、助けて下さった」という言葉で表しています。
 神は私たちの切実な願いや叫びに対してそのままで放置しておくことはなさらない。答えて下さる神である、そして私たちがただ仰ぐだけで、神の光を私たちにも注いで下さるお方であると言っています。これは生きている神、いまも私たちの苦しみやなやみを知ってくださっているということなのです。

 こうした個人的に神の助けと答えを深く体験したゆえに、つぎのような勧めと結論がなされるのです。

味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、主に信頼する人は!
主の聖徒たちよ、主をおそれよ。
主をおそれる人には何も欠けることがない。…
主に求める人には良いものの欠けることがない。

 神はいかに良きお方であるか、その恵み深さ、愛の深さは味わうことができる、霊の目で見ることができるというのです。主に信頼することの中にこそ、真に永続的な幸いがある、祝福がある。そしてこの詩の作者が経験したところでは、私たちが真剣に神を信じて、畏れをもって神を仰ぐとき、何も欠けることがないと言えるほどに満たされるという経験を与えられることになりました。
 これは神と心が結びついた人の共通した経験なのです。
 詩編のなかで最も有名な詩編二三編にはそのことが心に残る表現で記されています。

主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
魂を生き返らせてくださる。

この世は、欠けていると思わせることが実に多い。新聞を見てもいろいろの悲しむべき事件が生じています。そうした状況は自分自身についても同様で、いろいろと自分の仕事の問題、健康上のこと、将来の心配、家族の問題などなど、「欠けることがない」などと心から言える人はほとんどいないと思われます。
 しかし、この詩の作者は、現実に存在する敵対する者がまわりにいても、そこから主に求め、祈って神の驚くべきよき力が与えられたのです。


主は、正しい人(神に従う人)に目を注ぎ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださる。…
主は助けを求める人の叫びを聞き、苦難から常に彼らを助け出される。
主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。
主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し
骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。…

主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。(詩編三四編より)

 この詩の終わりの部分で、再び苦しむ者の叫びを聞いて下さる神として強調されています。繰り返し、弱く苦しめられている者の叫びには必ず耳を傾けて助けて下さると言います。これがこの詩の作者の確信となっているのがわかります。
 そして自我のうち砕かれた人、生まれながらの自分を高しとする心が砕かれた人に近く、そのような心は自然に悔い改めて神へと向かうようになりますが、そのような心にこそ近くにいて下さ り、救って下さる。 ここには、主イエスがこの詩の書かれた時代からはるか後の時代に、つぎのように述べたことを思い出させてくれます。

ああ、幸だ。心の貧しい者は!
天の国はそういう人たちのものだから。(マタイ福音書五・3)

 この言葉にある、「心の貧しい」とは、この詩でいわれている、心砕かれた人、悔い改めた人ということです。

 なお、「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。」という箇所は、英語訳のなかには、つぎのように訳しているのもあります。

主は落胆している者に近くおられる
主は、あらゆる希望を失った人たちを救われる。

The Lord is near to those who are discouraged;
He saves those who have lost all hope.(Today's English Version )

 さらにこの詩の作者は、
「主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる。」

 と述べて、ふつうの人の考えることとは大きく異なって、主に従って生きる正しい人ですらも、災いが重なるとまで言っています。神を信じること、神から愛されるとは、決して何も苦しいことが 生じないのではない、かえって苦しみや悲しみが多くなることすらある。
 しかし私たちには大きな希望があります。それはここで言われているように、いかなる災いが次々生じて来ようとも、神は必ず守って下さる。その魂が神の国の味わいを感じるようにしてくださ るということなのです。
 そしてこの詩の最後に、最も深い問題、すなわち罪のあがないと赦しのことが置かれています。それはこの詩の作者が罪の問題の深さと重大さを知っていたことがうかがえます。

主はその僕の魂を贖ってくださる。
主を避けどころとする人は、罪に定められることがない。

 私たちの魂をあがなうお方、それは神です。新約聖書にはその神からあらゆる力を受けていた主イエスが十字架で処刑されることによって、信じる人たちの魂をあがなって下さったという事 実があります。
 こうしてこの詩は新約聖書の最も重要な真理、十字架上で神の子キリストが私たちの罪をあがなって下さったことを指し示しているのがわかります。

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