キリストの愛・聖霊・平和   2002/5

 私たちがキリストを信じ、愛しているとき、互いに信じる者同士も主にある愛をもって関わることができる。主イエスは「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ福音書十四・15)と言われたが、その掟と訳されている言葉の内容とは、互いに愛しあうということであった。すなわち、神(主イエス)を愛することが原点であり、そこから互いに愛し合うこと、仕え合うことが生まれる。
 主イエスも、一番重要なこととして、神を愛し、隣人を愛することと教えて、まず神を愛することをあげられた。
 しかし、私たちが神を愛する前に、すでに主は私たちを愛されたのであって、最初の出発点は、私たちが神を愛したことでなく、神がまず私たちが気付かないうちから愛して下さっていたことである。キリストが最後の夕食を迎えるときにも、わざわざ弟子たちの足を洗うということをされた。それは主イエスの弟子たちへの深い愛の象徴的行動であった。

イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 (ヨハネ十三・1

 このように私たちがまず神を愛したのでなく、まず神の方から、主イエスの方から私たちを愛して下さったということは、聖書で繰り返し言われている。

わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。(ヨハネ第一の手紙・四・19
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。( ヨハネ第一の手紙四・10

 パウロも同様にこのことを強調している。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示された。(ローマの信徒への手紙五・8

 このように、まず私たちへの神の愛があった。そのことを知ると、私たちにもおのずから神を愛し、主イエスを愛する心が生まれる。そこからキリストの戒めである、互いに主にあって愛し合うということが生まれてくる。
 私たちは単に信じているだけなのか、主イエスを愛しているのかが問われている。主イエスへの愛がなければ、戒めも守れない。自分を愛してくれるものだけに好意を示そうとする、それは聖書の愛でなく、人間の好き嫌いの感情であり、それは特定の人のみに注がれる差別的な感情である。そこからは決して真実なものは生まれず、分裂や混乱、ねたみなどが生じる。
 キリストへの愛を持つことができるのは、神からの多くの愛を頂いたゆえであり、その愛によって無差別的な愛が初めて生まれる。

 まず神を愛し、キリストを愛するときに与えられるのは、真理の霊、すなわち聖霊であると言われている。この聖霊のことを、新共同訳聖書では「弁護者」と訳している。 この原語は、パラクレートス(*)というギリシャ語である。これは、「そばに呼ばれた者」の意である。そこで、「助け主」(口語訳、新改訳)「慰め主」「励ます者」」 など、いろいろに訳されている。(**
これらの訳語のすべてをもっているのが、原語なのである。

*para は「側に」、kletos とは、kaleo(呼ぶ)から生まれた言葉で、「呼ばれた」という意味。それで、parakletos とは、「側に呼ばれた者」という意味になる。
**)英語でも、Comforter(慰め主)、 Helper(助け主) , Advocate(弁護する者), Counselor(助言者)、 Paraklete (原語のギリシャ語の音写)などといろいろに訳されている。

 弁護者とは、私たちが罪あると指摘され、裁かれるときでも、そばに立って私たちはあがなわれた者だと弁護してくれるお方だからである。私たちの生活のなかで、繰り返す失敗や罪をとがめられる、そうした責めから守り、いやしてくださるお方だからである。罪を赦されることが一番の慰めであり、励ましであり、力づけであり、助けることでもある。罪に沈んでいくこと、滅びゆくことから助けて下さるから「助け主」(Helper)なのである。
 この弁護者(助け主)とも言われる聖霊が与えられると、「主の平和」が与えられることにつながっている。主イエスは、聖霊が弟子たちとともにいつまでもいると言われると共に、神とキリストがその人の弟子のところに行ってともに住むともいわれ、さらに、主の平和を弟子たちのところに残し、平和を弟子たちに与えると言われた。
 このように、神、キリスト、聖霊が信じる人のもとに共にいると言われ、主の「平和」がそのことと深く結びついているのがわかる。神や復活のキリスト、あるいは聖霊が人のところに住んで下さることによって、主の平和を与えられるというのである。

しかし、弁護者(慰め主)、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。
わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。
心を騒がせるな。おびえるな。
『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。(ヨハネ福音書十四・2628より)

 このように平和を強調しているのは、このヨハネ福音書が書かれた頃は、ローマ帝国がますますその領土を拡大しつつあったときで、時のローマ皇帝ドミティアヌ (在位AD八六~九一年)は自分のことを「主」とか「神」と呼ばせて崇拝させることを強化していた時であった。
 他方、ローマ帝国はこの時代には、広大な地方を平定し、地中海世界の覇者となった古代ローマの支配下に保たれた平和の時代が訪れた。これを、パックス・ロマーナ(PAX ROMANA ラテン語で 「ローマの平和」の意味)という。しかし、この平和は武力と支配、搾取のうえに成り立っていた平和にすぎなかった。
 これに対してキリストは、こうした剣や人間の欲望によるによるみせかけの「平和」でなく、ゆるがない神からの平和を与えると約束されたのであった。
 聖霊が戻ってくるとき、私たちはこの世の平和とは本質的に異なる平和を与えられる。それは神が与える平和。現在の世界においてもこの問題が新たな重要性をもって迫っている。武力による平和か、キリストが約束する武力とは関係のない平和の方向を目指すのかである。

 この箇所で私たちは、主イエスが平和といって何も困難が生じないようなことだけを言っているように受け取るならそれは重要なことを見落としていることになる。
 なぜなら主イエスは私の平和を与えると言われたが、それはその平和を受けて自分だけがそこに安住するためでないことは、この平和という言葉のがどういう状況を見つめつつ言われたかを考えればわかる。
 さきほどの箇所をもう一度注意して見てみよう。主の平和を与えると約束されたがそのすぐ後で、

心を騒がせるな。おびえるな。
 と言われている。このことは、当時の弟子たちが、恐れを感じる状況にあったことを暗示している。もし恐れがないようなのんびりした状況ならば、このような言葉を伝える必要がない。
 私たちが平和とか平安という言葉で思い浮かべがちなのは、ゆったりとして家族そろって健康であって、社会的にも穏やかな状態などである。そのような平和も感謝すべきものであろう。
 しかし、ここで主イエスが言われたのは、おそれ、おびえるような状況のただなかにおいて与えられる平和である。キリスト者たちは以後長い迫害の時代を耐えて行かねばならない。それはまさしく恐れとおびえがある状況である。しかしそのような状況にあってもひるむことなく、信仰を守り、み言葉を伝えていくためには、神からの特別な賜物がぜひとも必要であった。それが主からの平安、主の平和なのであった。
 キリストが地上からいなくなった後には、聖霊が弟子たちのところに来ることが詳しく説明されているのが、ヨハネ福音書の十四章であるが、その章の最後に、「立て、さあ、ここから出て行くのだ。」という言葉がある。しかし、実際には主イエスの教えはその後の十五章もずっと続いている。そのため、この言葉は、象徴的な意味が込められていると考えられている。主の平和を受けた者は、おのずから主のこの呼びかけを心に聞き取るというのである。自分だけでその平和を持っているのでなく、主の平和を与えられた者は、立ち上がって、各自の場から出ていき、この世のただ中で証しをするために、主の平和が与えられているという意味が背後にある。
 それほどに、主の平和というものは力あるものであり、自然とそとにあふれ出ていく本質を持っているということが暗示されている。
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