クローン人間   2002/5

 クローン人間とは、ある人と全く同じ遺伝情報を持っている人間をいう。このような人工的に同じ人間を体細胞から作るなどということは、以前では想像もつかなかったことで、科学者の間でも不可能とされていた。しかし、一九九七年に初めてイギリスで羊のクローンが作られてから、人間にもそのことが応用されるのではないかと案じられている。
 クローン人間を作るには、男性または女性の体細胞から核を取り出し、女性から卵細胞を取ってそこから核を取り除く。そうして体細胞から取り出した核を卵細胞中に入れる。そしてその細胞を女性の子宮に移植して出産させると、もとの体細胞の持ち主である親と全く同じ遺伝情報を持ったクローン人間が生まれる。 羊でできたのだから、人間にもできることになる。そして体細胞を女性からとると、女性だけからでも、クローン人間は生まれることになる。このような技術が使われると、人間を尊重しない風潮がますます甚だしくなると案じられる。そして生まれたクローン人間の親は誰なのかという問題も生じる。普通に生まれる子供は父と母とそれぞれから遺伝子を半分ずつ受け継いでいる。だから父母は科学的にみても、半分ずつ関わっている。しかし、クローン人間では、体細胞を持っていた人の遺伝子を生まれる子供もそのまま持っているのであって、卵細胞を提供した女性の遺伝子は関わっていない。
 こうした従来は考えたこともないような問題が生じるほかに、このような処置の過程で遺伝子に何らかの損傷を受けると、生まれる人間に悪影響を生じるという可能性もある。
 例えば、最近報道された内容でいえば、世界で最初の体細胞クローン羊を作ったイギリスのイアン・ウィルムット博士は、これまでに作られたクローン動物すべての遺伝子に何らかの異常があるとの調査結果を発表した。博士は世界のクローン動物を追跡調査した結果として、胎盤が四倍に肥大しているとか、心臓の欠陥、体が巨大化すること、発育障害、肺の異常、免疫機能不全などさまざまの異常があったという。それゆえ、博士は「果たして正常なクローン動物がいるのだろうかという疑問に行き着いた」という。(「毎日新聞四月二九日」)
 こんな状況を生み出すクローン人間の技術であるが、医学的にそれを利用して移植用の細胞や組織、臓器を作ることも考えられている。
 しかし、全体として見ればこうした技術は科学技術によって人間を操作する方向へと向かい、人間のいのちが軽んじられる方向になるだろう。自然のままの川や野山が本来の姿であり、それが全体としてみれば最も人の心をも潤すのであり、人工的に公園を作っても、雄大な流れの大河や海、自然の広々とした海岸風景などには到底及ばない。
 それと同様に、全体として考えるとき、女性一人だけでも子供を作ることができるなどというきわめて自然に反したことを実行するということからは、さまざまの予期しない難問が生じることが考えられる。
 医学に用いられるといっても人間の心において重大な悪影響が予想される状況であればそうした方向は決して好ましいことではない。科学技術は概して自然に反したものを生み出していく。自動車にしても人間の体は時速百キロで激突することなどには到底耐えられないように作られている。だから自動車が衝突することで、深刻な傷を人間は受けてしまうか死んでしまう。科学技術が生み出した原子力エネルギーにつきまとう、放射線にはもともと人間は感知することもできないから、防御もできないように作られている。放射線を多く受けると、癒しがたい深刻な病気となって苦しまねばならなくなる。
 現在の深刻な問題となっている地球温暖化、大気汚染なども同様で、自然に反したことを大規模にやっていくのが科学技術であり、(言うまでもなく科学技術からさまざまな利益も受けているのであるが)どうしても人間に害悪をも与えていく。
 クローン人間の問題が、ほかの科学技術のことと大きく異なっているのは、新しい生命が誕生することとその生まれた生命はずっと後々まで子孫を産み、永久的な影響をもたらすということである。もし、遺伝子的に障害を受けるなら、それはずっと将来もついてまわることになるし、新しい命がそのような誕生のゆえに精神的にも不安定となる可能性もある。
 クローン人間ができるとどうなるのか、詳しいことを知らなくても、同じ人間を作ることは大変な混乱が生じるのではないのか、人間を動物のように勝手にどんどん作っていくのではないか、などなど、いろいろと案じられている。
 こうした問題においてキリスト教ではどう考えるのか。神だけが新しい生命を誕生をさせることができるのであって、クローン人間についても、受精卵が増殖していき、生物として成長していくのは人間がするのでなく、もとからそなわっていた力によってそうなっていくのであり、その成長させる力や遺伝子そのもの、遺伝子を構成している化学物質などは人間が作ったのでない。天地創造の主である神が造ったのである。人間が科学技術の力で作り出したものも、みな、もとはといえば人間が存在するまえから、そうした物質は神によって創造され、物質世界のさまざまの法則も人間の存在のはるか以前から、神によって創造されていたのである。科学技術の産物はそうした神のつくった科学法則を用い、神の創造された物質を用いているにすぎない。それらを工場や研究室で、造りかえるときに使う法則も人間が作ったのでなく、天地創造のときから存在している法則をある時に誰かが見いだしたということである。
 このように考えると、科学技術のさまざまのことも、いわば神の手のひらの上で行われていることだといえよう。この神の手の上にいながら、あたかも人間がすべてを握っているかのような傲慢に陥るなら、必ず罰を受けるだろうし、神の手の上にあることを自覚してそこから神のために用い、神にひざまづく謙虚な心をもっているときには、神はそのような人間を必ずいかなる科学技術の悪影響にもかかわらず、救い出されることであろう。
 多くの人間が自然を求めても、この世の力が押し流していく傾向にある。クローン人間というものもそのうちにどこかで作り出され、だんだん広がっていくことも可能性としてはある。こうしたことに漠然と不安を感じる人も多い。そしてその不安は相当現実的に起こりうることである。
 もし私たちが人間の力だけしか信じないとすれば、こうした人類の未来はまことに暗雲のたれ込めた状態といえる。
 しかし、キリスト者はこのような状況を知った上でも、希望が与えられている。クローン人間は遺伝子的にまったく同じ人間だからといって、悩みとか悲しみは同じではない。置かれた状況が
それぞれに異なってくるからである。生後の環境によっても大きく人間の心は変わっていく。
 環境すらそのように変えていくのだから、万能の神の力が働くことによってどのようにでも変えることができる。私たちが信じる神は何でもできる神である。天地創造をされ、いまも万物を支え導いておられるからである。
 クローン人間が、いかに遺伝子的に同じであっても、神は新しい霊を注ぐことができる。新しい創造と言っているほどである。キリスト教の最も重要な弟子となったパウロも、キリスト者を迫害し
、殺すことさえしたというのに、キリストに出会って、主の力を受けて、全く新しく造りかえられた。
 遺伝子が同じであっても、神はその人間を霊的にはまったく異なるように造り変えることができる。
 殺人のような重大犯罪を犯してもなお、心からなる悔い改めによって、そうした悪事とはずっと縁がなかった者のように変えられるのと同様である。死んだ者すら、死して三日にもなる人間すら造りかえて新しい命を吹き込むことができることを考えればそのこともうなずける。
 
 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださる。(ピリピ書三・21

 私たちの世界には、クローン人間のようなさまざまの不可解なこと、あってはならないようなことが生じていく。その先はどうなるのかという漠然とした不安が生じてくる。しかし、聖書に記され
ている神は、万能の神であっていかなるそうした思いがけないような事態が生じてもなお、私たちに希望の光を与え続ける神なのである。


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