はこ舟  2002年6月号

内容・もくじ
祈りの友
求めよ、探せよ、門をたたけ
重荷を担うこと
聖書における平和 その一
ことば
返舟だより


祈りの友  2002/6

 この世において、特に日本では最も取るに足らないものとして見なされているが、神の目には最も力あるものとみなされるものがある。
 それは祈りの力である。神など存在しない、個人的に心に祈ったからとて、そんなものを聞いてくれる神など存在しないというのがおおかたの日本人の気持ちである。そうした前提に立って万事がなされている。祈りが力あるもので実際にそれは大きな働きをするなどということは、日本においては、小学校から大学までの長い教育を受けたとしても、一度も耳にすることはないであろう。
 しかし、聖書はこの点でもそうした常識とまったく逆であって、随所に祈りがいかに大きい働きをするかを書いてある。聖書とは「祈りの書」とも言えるほどなのである。じっさい、創世記にしても、出エジプト記や、ヨシュア記などにしても、祈りに応える神が先だって進んで戦われるのであった。
 旧約聖書のハート(心臓)とも言われる詩編とは、まさに祈りの集大成なのである。
 今も活きて働いておられる神、しかも目には見えず、いかなる小さなよきことも見逃さず、悪も心の奥深いところまで見抜く方、そして天地創造の力をも持っておられる神がおられるなら、祈りとはその神に直接に訴えることであり、その神の万能の力を引き出すことになるのだから、最も力あるものとなる。
 主イエスも、つぎのように、祈りの力を驚くべき表現を用いて教えられた。

主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。」(ルカ福音書十七・6)

イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ福音書十七・20)

 この言葉は、私たちの心がまっすぐに神に向かい、ひとすじの心で祈るときには、人間的な予想では決して変わらないと思えるような事態も大きく変えられる、祈りが現実に働いてくるということを意味している。 
 神を信じるとは、祈りに応える神を信じることである。祈りの力を信じないことは、すなわち神を信じないことでもある。
 しかし、祈りの力に信頼するとは、自分の祈りの力を信頼することでない。私たちが自分のなにかにひそかに誇ったりするならば、そのようなところには神の力は働かない。
 それとは全く逆に、自分がいかに弱い者であるか、取るにたらない者であるかを思い知って、そこから自分のすべてをあげて神に委ね、神の万能に信頼すること、神の力に寄り頼むことこそ、聖書で言われている祈りである。
 私たちは、日々そうした祈りを捧げてともに連なり、互いに祈り合う「祈りの友」でありたい。

何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信である。(Tヨハネ五・14)

妨げる力の働くとき

 私たちが真理のため、神のために働こう、何らかのよいことをしようと始めるとき、必ずといってよいほどに思いがけない妨げが入る。それは自分や家族の病気や事故であったり、予期しない不都合な人物が現れたり、中傷や誤解、あるいは敵視する者の出現、また予想しなかった問題があるのが後から分かったり、信頼していた人が心変わりするとか…である。
 主イエスも伝道のはたらきの最初に、会堂で聖書を読んで真理を語り始めたが、その最初の活動のときに、はやくも、それを聞いた人たちが主イエスを会堂から追い出し、憎しみをもって、崖から突き落とそうとしたと記されている。

これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。(ルカ福音書四・28〜30)

 真理を語っていたらだれでも納得するだろう、感謝して受け入れるだろうといった甘い予想はこの世では成り立たない。それとは逆に、いかに私たちが真理と一つにされたからといってこの世で安全によい評価を受けていくなどという保証はない。この世にはそうした妨げる力が確かに働く。
 しかし、主イエスがその妨げる力のただ中を通って立ち去られたように、私たちもまた、そうした闇の力のただ中を通って御国へと進んでいくことができる。信じる者には主の大いなる御手が導くからである。

空からのメッセージ

 夏になると、時折、雨風の後など、空が真っ青に澄み渡り、そこに雄大な雲がむくむくと大空にわき起こるのが見られる。
 それは神が私たちへ与える大空からのメッセージである。
 その深みに満ちた青色と、立ち上がる純白の雲はいかなる芸術家も到底及ばない、大空というキャンバスに描かれた神の絵画である。
 そこに私は神の力を感じる。そして神のはかりしれないお心の一端を感じる。

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