重荷を担うこと  02-6-3

 この世では様々の重荷がある。まず病気の重荷、体の痛みや異状による苦しみは忘れることができない重荷となる。痛みがひどくなるとき、ほかのことを考えることも十分にできなくなり、心も明るくならず、生活そのものが重荷となる。
 自分の体に関係した重荷は子供のときからある。私も中学一年のときに、左足の骨が炎症を起こし、固いギプスを入れたので歩くこともできなくなり、七ヶ月にわたって学校を休まねばならなくなった。その時の重荷は初めての経験で、今もなおはっきり覚えている。そしてその経験からはじめて私は他人の苦しみに少しなりとも共感することができるようになったのがわかった。
 私の場合は、一年足らずでだいたい元通りになったが、生涯にわたって歩くこともできない重荷を背負っている方々も多い。両足で歩くことを当然と思ってそのことに何にも感謝も喜びもないのが大多数であろうが、生まれて一度も自分の足で歩いたこともない人にとっては、両足で歩けるということは、夢のような喜びであるだろう。
 こうした体に関わる重荷以外にも、学校や家庭での重荷、職業上での重荷もある。自分の体は何とか大丈夫であっても、家族の介護ということで大変な重荷を背負う場合も多い。ことに痴呆状態がひどくなって家庭で介護するとなると、世話する人にとっては精神的にもたいへんな重荷となる場合がある。病気にしてもそばを離れられない状況となると、病気の本人と介護の家族もともに倒れてしまうほどに心身の重荷が降りかかってくることがある。
 母がかつて召される前には、夜も寝られないで付き添っていたがまだ私が若い頃であったのに、夜通し付き添って、さらに翌日もふつうに仕事に出かけるということになると、疲れ果ててしまったことを覚えている。健康なものでもあのように疲れたのだから、介護する人が老齢となれば、その疲労はたいへんなものとなるだろう。
 また、自分の心と一つに結びついていた者、愛する配偶者や肉親を突然にして失った場合にも、いやされがたい心の空白は重荷となり、心が晴れず、重い心となってしまうこともあるだろう。 
 現代の日本のように、いろいろの社会福祉の制度もかなりの程度整い、生活が相当ゆたかになっても、なおいくらでも重荷となることは生じてくる。それゆえ、社会保障などの制度もなかった時代には一般の人々の背負っていた重荷はいかばかりであっただろうか。
 病気になっても、医者にもかかれないでそのまま、苦しみや痛みの激しくなるにまかせて、苦しみもだえながら死んでいく、老人や障害者にとってもその苦しみを除いてくれる制度も何もなかった。健康な人も封建体制のゆえに、身分も固定され、居住移転の自由や職業選択の自由もなく、食べ物すら十分にないことが多かった。
 こうした時代においての苦しみ、重荷は現代の我々には理解できないほどである。繰り返し生じる戦争などで国土は荒廃して、他国に連れ去られることもあった。
 このように考えていくと、この世はたしかにいつまで経っても「重荷」はなくなることがないのがわかる。
 主イエスが来られたのはこうしたさまざまの重荷を根底から取り除くためであった。それゆえ、病を治し、ことに重荷となっていたハンセン病の人、盲人や耳の聞こえない人々に近づいてその重荷を取り去ることをされたのであった。
 しかし、主イエスが見いだされた本当の重荷は、病気や社会的な問題でなく、一人一人の人間の一番深いところにある重荷は、私たち人間や世界、宇宙をも創造された、真実な存在に背くことだということである。
 この魂の奥深いところでの背きがあったら、どんなに健康であっても、また家庭も幸いのように見えても決してその人の魂は深い平安を得ることはできない、心は深い心の自由を実感することはできないということであった。
 この世界に存在する真実な存在、完全な正しさや愛を持たれたお方が存在する、それに気付かない限り、私たちは自分がそうした存在に背いていることもわからず、心の重荷の深い理由も分からないことになる。
 キリストは、こうした人間すべての内に宿る、最も根源的な重荷の原因を取り除くために来られたのであった。この重荷の根源が除かれるとき、たとえ病気が直らなくとも、生涯にわたって寝たきりであってもなお、心は軽く自由にされ、その心の世界を他者にも伝えていくことすらできるようになる。この魂の奥深いところにある重荷の根源を、聖書では「罪」と言っている。それは表面的に悪いことを指していうのではない、逮捕されるような窃盗とかももちろん罪であるが、聖書では人間すべてのうちにひそむ、真実なる存在へ背く心を指して言っている。
 このような目には見えない重荷(罪)が取り除かれることを、イギリスの有名な物語はつぎのように描いている。

 さて私は夢のなかで、キリスト者がそこを通っていかなければならなかった大通りは両側がともに壁で垣をしてあった。その壁の名は「救い」であった。この道を重荷を背負ったキリスト者は走った。しかし、それはかなり大変なことであった。なぜかといえば、彼の背には、重荷があったからである。
 彼はこうして少し上り坂になっているところまで走った。その場所には十字架が立っていて、少し下のところには、石で作った墓があった。
 私はつぎのような情景を夢の中で見た。すなわち、キリスト者がその十字架のところにたどり着いたちょうどその時、彼の重荷は肩からゆるんで背中から落ちた。そしてそれはころがりながら墓の口まできて、その中に落ちて何も見えなくなった。
 そこでキリスト者は喜んで晴れやかな気持ちになり、喜ばしく言った。
「彼はその悲しみによって私に安らぎを与え、その死によって私に命を与えて下さった。」
 そして彼はしばらくの間じっとそこに立って、十字架を見つめ、不思議な驚きを感じていた。
 というのは、「十字架を見る」という単純なことがこのように重荷を軽くするということは、きわめて驚くべきことであったからである。
 彼は、それゆえに十字架を見つめた、そしてさらに見つめた。するとついに涙が頬に流れ落ちてきた。彼が涙を流しながら立っていると、見よ! 輝ける三人の者が彼のところにやってきて「平安があなた方にあるように」と言った。
 そのうちの第一の者が彼に言った。「あなたの罪は赦された」
 そして第二の者は彼の体から、汚れた服を脱がして「代わりの服」を着せた。
 第三の者は、彼の額にある印(しるし)を付けたうえで、封印した一つの書物を与え、それを走りながら読み、「天の門」に着いたらそれを差し出すようにと命じて去っていった。
 キリスト者は喜びのあまり三度飛び上がり、讃美しながら道を進んでいった。

ここに至るまでずっと、私は罪の重荷を負って来た。
ここに来るまでは、私がそのただなかでいた悲しみを和らげるものはなかった。
しかし、これは何という所なのだ!
この所でこそ、私の幸いが始まるのだろうか。
この所こそ、わが重荷が落ちた場所、
この所でこそ、私をしばっていたものが断たれたのだ。
何とありがたき十字架よ、(重荷を取り込んだ)墓よ、
さらにありがたきは、私のために恥に遭わされたあのお方(イエス)よ。

(ジョン・バニヤン著「天路歴程」より(*)。この本の題名の意味は、「御国を目指す人の歩み」というような意味である。)
(*)ジョン・バニヤン(一六二八〜一六八八) イギリスの説教者,寓意物語作者。読み書き以外にほとんど教育も受けず,家業につき鋳掛屋となった。鋳掛屋とは、なべ・かまなど銅・鉄器の穴をふさぐ仕事をする人。一六四四年ピューリタン革命において議会軍に従ったが,まもなく除隊し結婚する。妻の持参した宗教書を読んで感動し,遊びを絶って非国教徒の教会に入る。みずから説教を行い説教者として名をなした。しかし王政復古(一六六〇)とともに,法を犯して説教したというかどで捕らえられ、十二年にわたって監禁された。この監禁中に、霊的な自伝である《あふるる恩寵》を書いて出版した。その後釈放され,再び説教活動を盛んに行ったが,一六七五年再び投獄された。今度は六ヵ月で自由になったが,その投獄中に書かれたのが代表作《天路歴程》第一部である。このように、この作品は、獄中で書かれたという特別な背景を持っている。それは神がそのような困難なただなかで、力を与えて書かせたのではないかと思わせるものがある。この本はキリスト者の天の国を目指す歩みを、霊的に描き出しており、ヒルティもダンテの神曲とともに、導きの生を最も深く描いているものとして高く評価している。また、これは《ロビンソン・クルーソー》《ガリバー旅行記》と並んで,英文学の作品中最も多くの言語に翻訳されている。

 この天路歴程に出てくるように、キリストの十字架を仰ぎ、みずからの罪の重荷を軽くしていただいた者は、その喜びはこの物語に出てくるようにほかでは代えがたいのを深く実感する。それゆえに、他者の重荷を見ても、それを見ると少しでも関わりたいと思うようになる。

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになる。(ガラテヤ書六・2)
 
 使徒パウロのこの戒めは、自分自身がまず重荷を軽くして頂いた人への戒めなのである。偽りの宗教者は、このように重荷をたがいに担い合うことをせず、かえって、組織が命令して物を高価な値段をつけて売らせたり、金を無理矢理にまたはだまして出させたり、さまざまのその宗教独自の規定を押しつけて、あらたの重荷を人々に負わせることすらやってしまう。これは現代の偽りの宗教によく見られるところである。
 そしてこうした態度は、キリストの時代からあったのがうかがえる。

律法学者やパリサイ派の人たちは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが自分ではそれを動かすために指一本も貸そうとはしない。(マタイ福音書二三・4)

 聖書に記されている警告は万人に対してのものであって、私たちと関係ないのではない。私たちも気をゆるめていると、このように互いに重荷を負うのでなく、互いに悪口を言ったり、重荷をほかの人に負わせて自分だけ楽をしようとしたりする方向に落ちていくことになるだろう。

 身動きできない重度の障害者は、だれが見てもその重荷は耐え難いと思われる。しかし、魂の根源的な重荷(罪)を取り除いてもらった人は、健康そうな人よりも深い魂の自由を実感しつつ生きている例も多くある。
 例えば、水野源三や星野冨弘などは有名な例であるが、そのようなよく知られるようになった人以外にも多数の人が重い病のただなかで、その重荷が除かれてその幸いを証言し続けていった。ハンセン病の療養所では多くの人たちがキリストによって、最大の重荷が取り除かれ、それによってハンセン病という地上では最も恐ろしい重荷を与える病気とされていたものすら、軽く感じられるようにした例もしばしばみられる。

 ハンセン病の治療のために生涯を尽くした一人の医師がいる。その夫人もまた医者であり夫君と同様にハンセン病という悲惨な病人のために日々を生きたのであった。その人たちは、林文雄、富美子夫妻である。文雄は新婚早々であったにもかかわらず、妻富美子との新婚の楽しさを味わうことをあえて退け、結婚して九日目に妻の富美子に遠い沖縄行きを命じて、手当を受けることもできずに各地に隠れるようにして生きていて、苦しみのさなかに置かれているハンセン病の患者たちを慰問させたのであった。その時の富美子の手紙はつぎのようである。

「山の上の隠れ家に一人住んでいる姉妹も、海岸の洞窟にいる兄弟にも、キリストの御名を讃美して祈ることを知っている者たちの割合に多いのに驚き、主の御足跡がいずこの僻地(へきち)にも刻印されていることを思って、いっそう主をあがめ奉る幸せを得ました。」(一九三六年四月二四日付の書簡より おかのゆきお著「林文雄の生涯」二四七P)

 ハンセン病の治療を受けることもできず、家族からも捨てられ、迫ってくる痛みの激しさや孤独と生活の苦しさ、食べるものもまともに得られないような恐るべき状態に置かれ、山の上、海岸などで死を待ちつつ生きているような人のなかにすら、キリストを信じて、なお讃美して祈ることを知っている人たちが多くいたという、そのことにキリストが今も活きて働いておられ、二千年前と同様に、最も苦しい人、重荷を背負う人のところに近づいておられることを知って驚かされる。
 そのような人の生活はどんなであったろうか、それはまさしく闇、自分の周囲を恐ろしい闇が取り囲んでいる状況であっただろう。しかし、そのような深い闇のただなかにてもキリストは光を与えることができた。キリストが、「星」(明けの明星)にたとえられているのもうなづける思いがする。
 このような恐ろしい孤独と痛みの伴う重荷は、私たちの想像をはるかに越えるものがある。そして、よほど愛のある人でもわずかにそこを訪問することしかできなかった。しかしキリストは、山の上の暗い粗末な家にも、波音近い海岸の洞窟にひそむ重い病人のところに毎日、いな、常時ともにいて支え、その重荷を担い続けておられるのであった。
 このようなことは、二千年の歴史のなかで、数限りなく生じたことであった。主イエスがつぎのように言われたことは、そうしたすべての預言であり、約束でもあったのである。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。(マタイ福音書十一・28)

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