新しいことを  02-7-5

 神は万物を創造されたお方であり、周囲の自然の風物を見てもわかるが、無限の多様性をもっておられる。道ばたの雑草といわれる野草たちの一つ一つを手に取って観察すれば、それがいかに複雑な仕組みを持っているかに驚かされる。また、毎日見られる雲の形や動き一つとっても、無数の変化ある形が日々に大空に現れる。
 神はたえず新しいものを創造される。その神からのインスピレーションによって、無数の作曲家たちが次々と起こされ、新しい音楽が生み出されてきた。絵画や文学などの方面も同様であり、科学技術で生み出されたものも同様に実に変化に富んでいる。そうしたすべての源が神であるから、神はいくらでも新しいものを生み出す力を持っておられるのが実感できる。
 実際、聖書にはそのような神のわざが随所に書かれてあるが、どのような事態になってもそこから新しいことをなされ、人々に絶望や悲嘆、意気消沈のただなかから、その新しく開かれた道を指し示し、実際に救いを与えてこられた。
 旧約聖書にはすでにそのような神のわざが数多く記されている。

見よ、新しいことをわたしは行う!
今や、それは芽生えている。
あなたたちはそれを悟らないのか。
わたしは荒れ野に道をつくり、砂漠に川を流れさせる。(イザヤ書四三・19)

 かつて、モーセは神の指示により、神の力によって海のなかに水を作って民を導いたことがあった。そのようにいかに道がないところであっても、神は新しい道を開かれる。
 神に背き続けた結果、国は滅ぼされ、その中心であった神殿も破壊され、焼き払われた。そのとき、多くの人々は遠いバビロン(現在のイラク地方にあたる)に捕囚として連行された。
 それから半世紀を経て、バビロンにて捕囚となっていた人々が、イスラエルの地に帰ってくることができるようになった。それは、モーセの出エジプト記から、八〇〇年ほども後のことである。ここに引用したのは、その時に告げられた神からの言葉の一節である。
 砂漠を越えてはるかな遠い所へと多数の人が五〇年ぶりに帰っていく。そこには不安があり、恐れがあり、途中の生活や目的地に着いたとしてもそこでの生活に大きな心配がつきまとっていた。
 そうした状況のなかで、神は新しいことをなされるというメッセージが告げられたのである。人間的な判断によっては、いかなる道もない、ただ絶望的な状況しかなく不安あるのみという事態のなかであっても神はつねに新しいことをなされる。その新しいこととは、本来道もなく、水もない砂漠に道を造り、川を流れさせるということであった。
 このことは、この書物が書かれて二五〇〇年ほども歳月が過ぎ去った現在の私たちに対してもそのままあてはまる内容だとわかる。神が新しいことをされるというのは、単に珍しいことではない。ニュースのように時間的に新しいというのでない。それは、乾ききった私たちの心のただなかにいのちの水を流し、前途に向かって歩むべき道があることに目覚めさせるものである。
 誰でも水がなかったら渇きで死んでしまう。そうした「死」によって人間は、感動する心を失い、良きものへの憧憬をなくし、清いものに喜びを感じる心が消えて、逆に汚れたものに快楽を求めようとするほどになる。しかし、そこに神が新しいわざをなされるとき、私たちはよみがえり、永遠の道そのものである主イエスが内に住んでくださる。 人間の心は砂漠のように、いのちの水がなく、道もない。それは、真理を愛することができず、人への真実な愛もなく、少しのことで腹を立てたり、憎んだりねたんだりしてしまうことからもわかる。そして大多数の人が生涯を通じて見つめるべき道も分からないままとなっている。
 しかし神はそこに、泉をつくり、命の水を流し、川のように流れさせる。そのことを少しでも体験した者は、そのことに永続的な驚きと感謝を覚えるようになり、そのような不思議をされる神への讃美がおのずから生まれる。

新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
海に漕ぎ出す者、海に満ちるもの、島々とそこに住む者よ。
荒れ野とその町々よ。…村々よ、呼ばわれ。岩山に住む者よ、喜び歌え。山々の頂か
ら叫び声をあげよ。
主に栄光を帰し、主の栄誉を島々に告げ知らせよ。
(イザヤ書四二・10〜12より)
 
 地の果てにいる人たち、さらに島々に住み、また各地の町や村そして、山々からも神の栄光をたたえ、神がなされることへの新しい歌を歌おうと呼びかけられている。ここには海と陸、砂漠とオアシスなどが言及され、それは全世界の人々に呼びかけられていることを示している。それほどこの真理は特定の民族とか場所に限られることでなく、あらゆる地方のどんな人にも実現していく真理であるからだ。
 神の本当のはたらき、その御業を知らされるときには、どのような存在も新しい心にされ、神への感謝と讃美がおのずからわき起こるのである。
 このような霊的な新しさは、このイザヤ書では預言的に言われており、その実現ははるか未来のこととして言われている。
 そしてイザヤの預言が実現するのは、数百年も後のキリストの時代であった。
それゆえ新約聖書には、キリストによる新しい創造、魂が新しくされるということが多く記されている。

キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのである。
古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。(Uコリント五・17)

 このように、聖書は旧約聖書から新約聖書の双方にわたって、一貫して新しい世界がもたらされることを強調している。まだ、神を知らない者をもアブラハムのように、神ご自身が招き、そこに数々の新しいことを起こしていっそう神への信仰が深まるように導かれる。キリストの十二弟子たちも、主イエスご自身が神の国のことなどに無関心であった漁師や取税人のような人たちを招かれた。さらに、パウロのように背いているものをも直接に呼びかけ、招いてみずからの弟子とされた。
 共通しているのは、そのようにして招かれた者には、神(主イエス)ご自身がさらに新しいことをなされるということである。その人に神の言葉を与え、聖なる霊を注ぎ、新しく創造される。新しく造られた者は、さらに真理の世界へと限りなく歩みを続けていくので、絶えず学びを愛するようになる。新しく聖霊が注がれるときには、つねにどのような単調な生活といえども、そこに大きな意味を感じるようなる。
 はじめに引用したように、神は私たちに対してたえず新しいことを創造されているのである。

もう以前のことは考えるな。
過ぎ去ったことを顧みるな。
見よ、私は新しいことを行う!  
それはすでに芽生えているのだ。
あなた方もそれに気付くであろう。 

 この箇所についてある注解書はつぎのように述べている。
「教義的に固まった信仰がある。それは、新しいことを今も神は、本当に実現されるのだと信じて希望を持つことが全くできなくなっているような信仰である。そのような信仰は、何であれ非常に危険なのである。」(ATD「ドイツ旧約聖書注解」イザヤ書) 
 神への信仰があるといっても、たんに機械的に信仰箇条を唱えて信じているだけであるような信仰はかえって危険であるというのである。なぜなら聖書に現れる神とは本質的にたえず新しいことをなす神、創造の神、導く神であるからだ。信じる一人一人の中に住み、その一人一人に霊的に新しいことをされる神なのである。それは新しい感動であり、新しい道であり、新しい発想であり、新しい意味の発見であり、新しく働きかける相手を見いだすことであり、新しい人との出会い…等などである。主イエスからのいのちの水を注がれた者は、内部に一種の泉を頂いたようなものであり、そこから絶えずそうした新しいものがわき出てくる。

わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。
更にわたしは、聖なる都が…神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。(黙示録二十一章1〜2より)

 地上にある間からすでに私たち一人一人に働いて新しい世界へと導く神は、究極的には万物を新しくされるという約束が聖書の最後の部分で記されている。このようにキリスト者の歩みは、地上においてまたその死後も含めてどこまでも、神による新しい創造の道を歩んでいくと約束されているのである。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。