主の山に備えあり  02-8-2

 旧約聖書で最も重要な人物の一人がアブラハムである。アブラハムは旧約聖書を教典とするユダヤ教においても、モーセとともに最も重要な人物であるが、イスラム教にとっても、彼らの信仰の模範がアブラハムなのであって、そういう点からみると、現在も全世界にその影響を及ぼしているほどに重要な人物なのである。
 そのような特別に神に召された人物であるアブラハムについては旧約聖書に詳しく記されていて、後世の人間がどのようにアブラハムの信仰から学ぶべきかが浮かび上がってくるようになっている。
 ここでは彼に生じた出来事のうち、とくに備えをされる神ということについて見てみよう。 
 アブラハムの生涯にはさまざまのことが生じた。それらはつねに何らかの試練でもあった。まず、生まれ故郷を離れて、遠い未知の国、神が指し示す国に行けという神の言葉に従うことがそうしたさまざまの試練の出発点となっている。
 ようやくたどり着いた目的地において生活していたが、食料がなくなり、その地では生きていけない状態となった。そのために、遠いエジプトまで行き、そこでは自分の命の安全が保証されないという恐れのために、妻を妹と欺いて、エジプト王に妻を差し出して、窮地を逃れようとした。そのようなことをすれば、神の約束などすべて無にしてしまうことであったので、神みずからがアブラハムの弱さを顧みてその困難から救い出したのであった。
 また、他のところから攻めてきた連合軍に自分の甥であったロトとその親族が連れ去られてしまったが、その連合軍を追跡して戦いとなり、彼らを取り戻したこともあった。
 しかし、そのロトの住むソドムとゴモラの町が滅びることを知り、その町のために必死でとりなしの祈りをささげた。
 さらに、家庭の問題で悩み、ハガルを追い出したこともあった。
 自分たちが老年になるまで、子供が与えられず、神がかつてあなたの子孫は空の星のようになるとの約束がいくら待っても実現されないため、全くあきらめてしまっていた。
 しかし、驚くべきことに神の約束は実現してすでに老年になっていたアブラハム夫妻に一人子が与えられた。
 これは、神の御計画が実現するまでに、待つということがいかに重要であるかを示している出来事であった。そうした過程を通じて、アブラハムは、自分の弱さと限界、神の大いなる導きを学んできた。
 アブラハムが受ける神からの祝福は、彼ら自身が祝福の基となり、生まれる子供も星のように増え広がるということであった。
 しかしその一人子を神に捧げよとの命令が神からあった。老年になってやっと与えられた子供を神に犠牲の動物のように捧げるなどということがどうして神からの命令なのか、アブラハムは驚き、神からの命令をどうすべきか夜通し苦しみ続けたであろう。
 しかしそうした長い苦しみののちに、まぎれもない神の言葉であることを思い、アブラハムはその神の言葉に従って、一人息子のイサクを連れて、神から示された土地へと旅立っていった。
 しかし、それほど大きな出来事であって、妻のサラも自分の子供が犠牲の動物のように捧げられようとしていることに対してどのように言ったのか、あるいは、アブラハムは妻にはこのことを話さなかったのか、それは全く記されてはいない。
 妻には、愛する一人息子であるイサクを連れ、従者も連れて遠い旅に出ることをどのように話したのだろうか。途中、三日もかかるような遠いところであった。そこまでの行程でアブラハムと子供との会話も記されていない。ただ、神の謎のような言葉の意味を深く思いつつ、祈りつつ歩いて行ったのであろう。
 神はこのように、全く人間には不可解なこと、しかも最も大切なものを奪うというようなことをされることがある。
 神が示した土地にようやく着いて、アブラハムがいよいよイサクを捧げようとしたそのときに、神が天使を通して備えられた羊が与えられた。
 この大いなる出来事のゆえに、アブラハムはそのことを場所に名前を付けることによって、記念した。

アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり」と言っている。(創世記二十二・14

 これは単にアブラハムに生じたことでなく、以後の無数の神を信じて生きる人々に対しての大きな約束となったのであった。
 アブラハムの場合はぎりぎりのところで神の奇跡がなされて、備えがあったのがわかる。しかし実際には、そのような大事なものを神が取り去ることも多くある。そのようなことを通して、神は祝福を与えられる。その大切なものが取り去られることがあっても、その場合には必ず別のものが「備え」として与えられる。
 「悲しむ者は幸だ、その者は神からの励まし、慰めを受ける」(マタイ福音書五章)と、約束され、心の貧しい者は天の国がその人のものとなると約束されている通りである。それは愛するものが奪い去られることがあろうとも、何よりもよい、天の国が与えられる(備えられる)という約束なのである。
 大切なものが失われるとき、私たちの心は自分の力がいかに無力であったかを思い知らされ、それまでの心の高ぶりとか誇りなどは打ち砕かれる。そこに「心の貧しさ」が訪れる。そうしてそのような心の貧しい者に神は、最大のよいものである天の国がその人のものであると言われたのであった。
 神は備えたもう、聖書に記されている神はたとえ大切なものが失われても、それにかわる必要なものを必ず備えてくださる神なのである。
 ここでは、信仰がどこまでも深まっていくとはどういうことか、また、その信仰の歩みに応じて与えられる神の備えとは何かが言われている。
 それは決して自分が人間的な気持ちから求めるものが与えられるということでなく、かえってそれを差し出さねばならないことが生じること、しかしそのようにして大切なものをお返しして初めて本当に重要なものを知らされ、与えられるということが示されている。
 キリストも命すら神にお返しした。そこから復活の命を与えられ、それが全人類に祝福の源となった。私たちが大切なものをお返しせねばならない事態になったとき、それは神がいっそう私たちを祝福の源にしようとされる前触れなのである。 
「ヤハウエ・イルエ」とは「ヤハウエは備えたもう」という意味である。
「神は備えたもう」ということは、実は旧約聖書の最初から見られる。聖書の最初の書物である、創世記にはエデンの園というのがある。そこには見てよく、食べてよいあらゆる果実が備わっていた。神は本来そのように人間に必要なものをすべてを備えていてくださるのである。しかし、アダムとエバが自分たちの罪によって神の戒めを破り、そこから追放された。そのようになるまでは神はすべてを備えておられたのであった。
 神の備えを人間の方から断ってしまったというのがわかる。
 ということは、人間が神の備えを心から感謝して受けようとするときには、神はエデンの園に見られたような豊富な備えをもって私たちを養ってくださるということになる。
 聖書においては、アブラハムの記事から始まって「備えてくださる神」のことは随所で見られる。
 モーセはアブラハム以上に重んじられている人物であろう。そのモーセは自分の力では同胞を救うことも全くできず、かえって自分の命が失われる危険に落ち込むことがわかった。その経験からだいぶ経て、結婚し、平和な生活を送っていたがそのモーセに、エジプトにいる同胞を救い出せとの命令が与えられた。そのような状況にあって、モーセは一人の羊飼いにすぎないのであって、いかにして大国のエジプトに行ってそこでたくさんの同胞を救い出せるのか、武力もない、部下となる人間もいない、たった一人でどうやって何万もの人々を救い出せるだろうか。まったくこのように何一つない状況のなかで、神はモーセを呼び出したのであった。
 しかし、神はまことに備えをされる神である。まず、モーセがエジプトに行っても、エジプト人や王に対して、口が重く語ることができないと言えば、モーセの兄のアロンをモーセの口のかわりにと備えられた。そして、それ以後も、何一つ持たないモーセにたいして、驚くべき奇跡を行う力を与え、荒野を四〇年もの間、導くだけの力を与えたのであった。エジプトを出てもシナイ半島は全くの砂漠であって、そこには水も食料もなかった。そのような何一つない状況にあって、神が食物を備え、水を備えて人々は命をつなぐことができたのであった。
 このモーセの召命と砂漠での危険に満ちた長い旅は、何一つなくとも、神への信仰のみで神が備えられるという信じがたいようなことを後世の人々に証言することになった。
 こうした備えをされる神は、現代の私たちには驚くべきことである。人間の判断で備えをするのだ、それには金が何より必要だという発想に浸(ひた)されて育ったのが現代人なのである。
 こうした神の備えをしてくださる本質は、新約聖書の時代、キリストに至っていっそう明確となった。それは、主イエスの教えの根本はつぎのようなことであったからである。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。
そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
だから、明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である。(マタイ福音書六・3334

 「これらのもの」とは、衣食住の必要なものということである。人間はまず真実な神のこと、神のご意志を求めて生きることが根本だ、その精神があれば、必ず必要なものは備えられるという約束である。
 明日のことも、神に委ねて思い悩むことはない、それよりもまず神の国と神の義を求めて生きることこそが大切なのだと言われている。
 この主イエスによる明確な備えの約束は、どこまでも及ぶ。それは死んだら何もなくなるという日本人の大多数の持っている考え方にも真っ向から挑戦するものといえよう。
 死んだ後は、人間がいろいろの供養とかをして、カミになっていく道を備えるというのが、伝統的な宗教の言うところである。しかし、そのような備えの仕方は、古代の迷信的な宗教が、本来ならば消えていくべきであったにもかかわらず、宗教に関わる人間の根深い金への欲望(戒名に高額の金を要求するなど)と、そうしたことをしないとたたってくるなどという周囲の人間の思惑によって造られてきたものである。
 主イエスはこうした備えでなく、神ご自身が、神を信じて召された者には、天の国に備えをしてくださっていることを告げられた。
 それは復活ということであり、霊のからだである。こうしていかなる貧しい者も、事故や思いがけない病気などで死んでいくものも、孤独のうちに死する者もみんな、完全な備えがなされていることになった。
 そしてさらに、この世の終わりにも、キリストの再臨と新しい天と地が備えられるという、壮大な備えが約束されている。
 人間が生きるとは、生まれてからすべては何らかの意味で将来のための備えをしていると言えよう。国家的にも政治とはそのような将来の備えをいかにしていくか、経済や軍事防衛、人口問題、環境問題、教育問題、医療等などすべてはそうしたことのためである。
 しかしそうしたことがかえって備えにならず、危険を生み出すことになる場合すらある。軍事や防衛のために巨額の費用を使って武力の増強に努めることを、将来の備えと称し、備えあれば憂いなしというような日本の首相のような人間が多い。そのようなことをするから世界的にかえって軍事的緊張が増して、莫大な費用を使って武力を増大させ、紛争が生じるのである。それは備えどころか、足もとを揺るがすようなことであるのに、そのことが見えないのである。
 このような政治的、社会的な備えの仕方の間違いを洞察するためにも、一人一人の人間がまず、神による備えを実感することが求められている。私たちは日々の生活でまさにそうした備えを切実に求めているのである。それに気が付いていない人もあるが、その人間的な備えのために日々心配し、苦しんでいるというのが多数の人間の現状である。
 私たちの一番身近な備え、それは苦しみのとき、無気力になるようなとき、他人からの誤解や中傷、差別、あるいは病気などのときに、それにうち勝つ力である。私たちの心が萎えてしまうようなときに、私たちを立ち上がらせる力こそ、私たちにとって日々の備えなのである。
 備えられる神、それは私たちの日々の祈りによってそのことが実感される。キリスト者とはその心のかたわらに「祈り」といういわば万能の備えを持っている者といえよう。
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