リストボタン五〇〇号の感謝 02-9-8

「はこ舟」は今月号で五〇〇号となり、これまでの長い年月を主が守り、導いてきて下さったことを思います。「はこ舟」のために多くの協力者が与えられ、祈りや協力費が捧げられ、制作に必要なコンピュータや印刷ソフト、プリンタなども与えられて今日に至っています。
 それで、ここでは「はこ舟」誌の歩みの一端を記しておきます。

 「はこ舟」誌が発刊されることになったいきさつは、創刊号によれば次のようなことでした。
 今から四六年あまり前の一九五六年三月の第二日曜日の集会のときに、印刷物発刊の話が出て、そのとき現在も私たちの集会員である垣塚千代子姉が謄写刷りを奉仕したいからとの申し出があり、集会員の賛成も得られて早速有志が原稿を引き受けられ、徳島聖書研究会(徳島聖書キリスト集会の最初の名称)の同人誌として、月刊の印刷物が出されるということになりました。
 翌月四月八日に第一号が発刊されています。そのあと、当時本県の地方課長をしていたY氏から思いがけない献金があり、第二号からは活字印刷となったので、謄写版刷りは創刊号のみでした。
 その時に名称がいくつか考えられましたが、結局「はこ舟」となりました。それについて「はこ舟」の最初の編集者であった、太田米穂氏はつぎのように書いています。

「旧約聖書のノアのはこ舟の記事にあるように、私たちは罪深い悪の生活をしている以上、神の裁きを受けることによって滅びる他はないような存在です。
 しかし、ただ一つ幸いなことは、イエス・キリストを信じることによってのみ神さまの前に正しい人であると認められ、その救いのはこ舟に助け上げられることが約束され、この世の滅亡のときが来ても、キリストの恵みによって新天地に住まう資格が与えられるので、ノアのような正しい人でなくても、ただキリストの名を信じるだけで、正しい者と認められる。
 これがすなわち真の福音というものであります。現代の私たちもそのような救いの「はこ舟」に乗り込んで、滅びから免れるようにと、みなさんにお知らせする手紙の代わりのプリントの名としました。私どもはこの新天地に住まうべき望みを確信し、まだ見ぬその事実を確認して、一歩一歩聖書と日々の生活から体験しつつ前へ前へと進むのであります。」(「はこ舟」一九五六年四月創刊号より)

 ちょうど「はこ舟」が創刊されたのと同じ月に(一九五六年四月十九日)、当時東京大学総長であった、矢内原忠雄(やないはら ただお)が徳島での全国学長会議に参加のため、徳島を訪れました。矢内原(やないはら)は、無教会のキリスト者の有力な指導者として全国的に広く知られていた人であり、徳島聖書研究会にも矢内原忠雄が参加されて特別集会となりました。それで「はこ舟」の第二号は、「矢内原忠雄先生来徳記念特集」と題されています。また、「はこ舟」のレイアウトなどについては、次のように記されています。
「ちょうど、矢内原忠雄先生が来徳された記念にもと、同先生発行の『嘉信』型を模倣して活字印刷発行した次第である。…」
 以来、四六年という歳月が過ぎていきました。その間、最初の編集責任者であった、太田米穂氏が一九六五年に召されて、杣友(そまとも)豊市氏が次の編集を担当することになります。
 杣友さんは、当初「はこ舟」といった印刷物を出していくことには反対の立場でした。
 編集者であった太田氏が高齢の上、交通事故で入院したため、「はこ舟」編集ができなくなったとき、杣友さんは、一九六五年の日記には、「はこ舟百十三号にて休刊と決した。」と書いています。この時点では、杣友さんは「はこ舟」を継続する意思がなかったのです。
 しかし、その少し後の日記には、「太田様から、「はこ舟」を休刊せぬようと言ってきたので、次の段取りを始めた。政池 仁(まさいけ じん)先生からも、太田兄から電話があって休刊になると知ったが、休刊するなと言ってきた」
 と記しています。このように、最初の編集者の太田さんや、当時無教会のキリスト者の指導的人物の一人であった政池 仁氏からの励ましによって、休刊にしようという考えを変えて、続けることになったのがうかがえます。
 こうした初期の経過を経て、数年後には、つぎに述べるように杣友さんにとって「はこ舟」の編集は神から自分に委ねられた仕事なのだと示されていったのがわかります。
 初めて私が徳島聖書集会(杣友さんが代表者となってから、徳島聖書研究会という集会名は、徳島聖書集会となった)に参加して、二回目の集会で、杣友さんがつぎのように言われたのを今もはっきりと覚えています。
「私は、かつては『はこ舟』を出そうと言う提案には反対であった。矢内原忠雄、塚本虎二(つかもと とらじ)、黒崎幸吉(くろさき こうきち)、政池 仁(まさいけ じん)…など、立派な無教会の先生方の月刊の印刷物がたくさんあるのだから、これ以上くず箱のゴミを増やさないほうがよいと言って反対した。しかし、現在(一九六八年)では、定期的な発行はなかなか困難だから止めようかと思うこともあったが、神様から、発行を止めるな、と言われて続けています。」
 穏やかな表情で独り言のように静かに言われたのです。当時の私は信仰を与えられて、一年半ほどでしたから、神様が「発行を止めるな」などとはっきり言うのだろうか、とふと思いつつも、いかにもさりげなく言われる杣友さんの姿を見るとそれは事実なのだと直感したものでした。
 そしてそれ以後、「はこ舟」発行に関して杣友さんがいかに力を注いでおられるかもつぶさに知ることになりました。
 一九六五年に杣友さんが「はこ舟」の編集を太田さんから引き継いだとき、すでに七〇歳でした。それから二八年間ほど続けられ、九八歳になる直前まで、編集を続けてこられました。このような高齢になるまで、月刊の印刷物の編集を実際に続けてきたというのは、ほかにはほとんど例がないのではないかと思われます。神からの励ましと支えによって、それを神から自分に任された大切な仕事だと知っていたからそのように情熱を傾けられたのだと思われます。
 引き受けて数年後の日記には、
「…『はこ舟』編集を辞退しようかと考えたが、これは自分の信仰不足のためにこんな考えになったのである。大いに反省。私がまず先頭に立とう。そしたら孫も子も友人も動くであろう。」
と書かれています。
 杣友さんにとって、「はこ舟」を書くということは、決して老人の余暇を使う趣味的なものでなく、それは神の国のための戦いという象徴的意味があったのです。「はこ舟」を伝道のために用いるわけですが、神の言葉に関して書き続け、それをこの世に提供していくということのなかに、サタンの力に対抗していく、戦いの旗印なのだという気持ちであったのがわかります。
 九八歳が近づき、いよいよ限界に来たことがわかり、私(吉村 孝雄)が編集責任者として続けていくことになりました。一九九三年四月のことです。
 なお、個人的なことですが、私(吉村)は、大学四年の初夏に、京都の古書店で、その矢内原忠雄の一冊の本を読んでキリスト教信仰を知らされた者です。当時私が在学していた大学の理学部には冨田 和久(とみた かずひさ)氏という、矢内原の信仰上の弟子がおられて、私もその冨田氏が主催している無教会のキリスト集会に参加することになり、キリスト者としての一歩を踏み出すことになったのです。
「はこ舟」が創刊されたちょうどその時に矢内原忠雄が徳島に来て、記念集会をされたこと、私が信仰を与えられたのも矢内原の本であり、初めてのキリスト集会に参加したのも矢内原の信仰上の弟子が主催している京都の集会であったことなど、ふしぎな導きを感じています。
 そしてその一年後に徳島にかえって高校の理科教員となりましたが、そこで当時は隔月発行となっていた「はこ舟」に出会ったわけです。そのときには、杣友(そまとも)豊市氏が編集者でした。そしてその少し後から私も「はこ舟」に時々投稿するようになり、一九七五年秋に、杣友さんと話し合って隔月発行を毎月発行に変えること、毎月の原稿と出版のための費用を杣友さんと私とで半分ずつ受け持つことにして、それから私も毎月定期的に書くようになりました。 
「はこ舟」は、現在は、原稿は吉村個人が書いて、レイアウトなども一九九六年からは、私のパソコンで仕上げて、それを印刷所に持っていき、増刷とのり付けをしてもらっています。これはパソコンがなかったらずっと費用も時間もかかって多くの人に気軽に用いて頂けなかったと思います。こうした印刷物の制作にはパソコンはとくに有益なものとなっています。
 「はこ舟」のような月刊の印刷物を続けていくのはなかなか大変で、毎日のように県内各地での集会を持っていることもあって、時間的に執筆するのが困難なことも多くあります。そうしたなかでともかくも今日まで続けられてきたのは、神の支えと導きによって書き続けることができたこと、集会員や読者の方々の祈りと支えによって今日があると感じます。
 この「はこ舟」はいろいろの人によって、聖書の学びの一つの手段として、また知人にキリスト教を知らせるためにも用いられてきました。今日まで、主がそれを用いて下さっていることを知らされて感謝です。
 この「はこ舟」が神の国のため、神の言葉を告げる器として継続され、用いられるように、今後ともご加祷下されば幸いです。区切り線音声ページトップへ戻る前へ戻るボタントップページへ戻るボタン次のページへ進むボタン。