リストボタン神のさばき 02-9-4

 現代では、神の裁きなどということは、日本においては全く言われない。小学校から大学までの長い学校教育においてもそのようなことは、私自身もただの一度も耳にしたことはない。
 しかし、これはきわめて重要なことであり、現代も古代からずっと変わることなく存在している事実である。
 例えば、神は真実で愛のお方であるゆえ、そうした神の本質に反することを続けるならば、必ず裁きがある。例えば、嘘は明らかな神への背きである。だから嘘をやったり、嘘を言えば裁きがある。先頃から大きな問題となっている、日本の代表的な会社がつぎつぎとその社長などが辞職していったのも、要するに嘘をやっていたからである。日本の代表的企業の社長や会長であっても、何十年もの経験と経営手腕があり、経済界や政治の世界にも幅広い人脈を持っていて、金もありあまるほどあってもなお、嘘をやっていたことが明らかにされると、たちまちその地位から崩れ落ちる。雪印食品のように会社そのものまで、崩壊してしまうこともある。
 こうした事実は、神の真実に反すると、神はひとたびその御手を伸ばすならいとも簡単に、会社などつぶされてしまうということである。
 しかし、多くの人は考えている。それは偶然なのだ。同様な嘘をやっている会社はいくらでもあるではないか。それなのに裁かれない。それは神がいるからでなく、偶然見付かっただけではないかと。
 たしかに雪印食品のように、虚偽をやっているのは、多くの会社も同様であろう。しかし、それが摘発されないからといって、神の裁きがないというのはまったくの間違いである。
 そのような考えをもってやっている人間の心に裁きが下されているからである。私たちの心が嘘を言っても平気になっていけば、真実ということに対しての感動がなくなっていることであり、それは真実そのもののお方である神からの喜びや平安を感じることができなくなっていることを示している。そこに裁きがある。 
 そうした神の国の喜びというものに全く感じなくなってしまった魂は、だんだんと表情や声、まなざしにまで、変化が生じてくる。それは若い時にすでに現れている場合もよくある。最近の高校生などの表情が、ゆるんでいて、目にも輝きがなくなってどこかよどんでいる者が多いということは、それを現している。また、だれでも中年以降になってくると、そうした神の国の真実や清さに対して背を向けてきた者は、やはり目がよどみ、声もどこか濁ってくることが多いし表情も変質してくる。
 こうしたことは実に不思議なことである。 
 裁きとは、決してこのように、世の終わりだけにあるのでなく、今も現に行われており、それは変わることがない。
 しかしそうした裁きは、じつは神の大いなる恵みやそのもとになっている愛を現しているのである。神は愛であるからこそ、間違った道を歩む者に警告を発して、それを見るものもそれが間違っているということを知らされていくようにされている。
 神の国に反することを続けるなら、必ず裁きがあり、神の国からの水路は断たれる。しかしそれを気付いて、神に赦しを求めるとき、必ずふたたびその水路は開かれて、御国からのいのちの水は流れはじめる。
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