リストボタン苦しみの中から 旧約聖書・詩編五六編より  202/9

神よ、わたしを憐れんでください。
わたしは人に踏みにじられている。
私に敵対する者が絶えず私を苦しめ、
陥れようとする者が
絶えることなくわたしを踏みにじる。

恐れを心に感じるとき
わたしはあなたに依り頼む。

私は神の御言葉をたたえます。
神に依り頼めば恐れはない。
肉にすぎない者が私に何をなしえようか。

彼らは、たえず私の言葉をあざけり、
その計画はみな私を害することに向けられている。
待ち構えて争いを起こし
命を奪おうとして後をうかがう。

あなたはわたしの嘆きを数えられた。
あなたの記録にそれが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙をたくわえてください。

私が神を呼べば、敵は必ず退き
それによって神はわたしの味方だと知る。
私は神にあって御言葉をたたえる。
私は主にあって御言葉をたたえる。
神に依り頼めば恐れはない。

人が私に何をすることができようか。
神よ、あなたに誓ったとおり
感謝の献げ物をささげます。
あなたは死からわたしの魂を救い
突き落とされようとしたわたしの足を救い
命の光の中に
神の御前を歩かせて下さる。

 この詩には、嘆きと苦しみ、悲しみのただなかにおいて、神に必死に頼って悪の力から逃れ、新しい力を得ようとしている一人の魂の姿が浮かび上がってくる。
 この詩の冒頭は、「神よ、私を憐れんで下さい!」(*)という叫びから始まっている。
 「神よ、憐れんで下さい!」という言葉は、聖書のなかに多くの祈りの言葉があるにもかかわらず、この言葉が、ミサ曲でとくに繰り返し歌われる。(**)それは、この短い一言のなかに、キリスト者の心の願いのすべてを託すことができるからである。

(*)これは、ヘブル語の原文では、ホンネーニ エローヒーム という二語の表現である。ホンネーニとは、ハーナン(憐れむ)という動詞の命令形に、「ニ」という接尾辞がついたもので、「ニ」は、「私を」という意味を持つ。エローヒームは、「神」。これは、ギリシャ語では、エレエーソン メ キューリエとなる。(「神」を「主」と言い換える) エレエーソンとはエレエオー(憐れむ)という動詞の命令形、「メ」は「私を」という意味。これは、キリエ エレイソンという言葉で、ミサ曲ではよく知られた言葉である。キリエとは、ギリシャ語で「主よ」という意味なので、キリエ エレイソンとは、「主よ、憐れんで下さい!」という意味になる。
(**)通常のミサ曲は、キリエ、グローリア、クレド、サンクトゥス、アグヌス・デイ(アーニュス・デイ) という部分からなっている。キリエ(KYRIE)とは、「主よ!」という意味のギリシャ語、グローリアは、「栄光」、クレードー(CREDO)とは、「私は信じる」、サンクトゥス(SANCTUS)とは、「聖なるかな!」、アグヌス・デイ(AGNUS DEI)とは、「神の子羊」という意味である。
 最初の、キリエの部分だけが、ギリシャ語で、あとは、ラテン語。キリエの部分は、「主よ、憐れんで下さい!キリストよ、憐れんで下さい」という言葉の繰り返しである。グローリアの部分は、キリストが生まれたときに天使たちが歌った、神に栄光あれ、という讃美と共に、キリストに対して、罪を除いてくださることを待ち望んで、「憐れみたまえ」という言葉も含まれている。そして最後の、アグヌス・デイの部分も「私たちを憐れんで下さい!」という祈りが含まれている。
 このように、ミサ曲の五つの構成部分のうち、三つの部分に「主よ、憐れみたまえ!」が含まれていて、神への礼拝の中心に罪の赦しを願い、さまざまのこの世の苦しみや悩みからの救いを願って、主の憐れみを切実に求める心が反映している。

 私たちは罪の重さを考えるとき、裁かれてしまっても当然という存在でしかない。そのような人間にすぎない私たちが神に向かって祈る言葉は、「どうか、そのような無に等しいような存在である私を憐れんで下さい、赦しを与えて下さい」という祈りになる。人間のそうした最も深い心の願いに応えて、神はキリストを送って下さって、ただ信じるだけで、私たちの罪を赦し清めてくださるようになった。それは人類全体の切なる願いに神が応えて下さったのであった。
 しかしそのように赦しが十字架のキリストの死によって与えられても、なお私たちは日々に罪を犯してしまう存在である。それで、日々の私たちの願いは、やはり「私を憐れんで下さい!」という短い言葉に込められるのである。 パウロのような大使徒であっても、「自分の死のからだをだれが救ってくれるのか!」と苦しい叫びをあげざるを得なかったのである。このような自分をどうか憐れみたまえ!ということは万人の心の奥深くにある。ただそれが人間の根本的な願いであるということを自覚していない人も多い。罪に気付いていない人は、その叫びを本来持っていながら、まだ自分で気付いていない状態といえる。
 この詩の作者も、まず冒頭において「神よ、私を憐れんで下さい!」という簡潔な叫びから始めている。その短い叫びはそのまま彼の祈りが凝縮されたものであっただろう。私たちの内にある罪、あるいは病気の苦しみ、また、外にあるさまざまの悩みや問題、それらすべてにおいて、私たち自身の力はあまりにも小さい。その小さな自身を知らされるときには、立ちはだかる困難を前にしてたじろぎ、恐れてしまう。
 もし私たちが神とキリストを知らないなら、そこから心を暗くして引き返すしかないだろう。善や正義などということに向かっては歩いて行けないと感じるからである。
 しかし神はそうした叫びに応えて下さる。この詩の作者も同様であった。そのような恐れのただ中から、神にまなざしを向けて、
「私はあなたにより頼む。神により頼めば恐れはない。敵対するものが私に何をなしえようか。彼らももろい人間に過ぎないのだ。」
 という心へと変えられていく。
 しかし、そのような信頼もしばしば揺るがされ、再び恐れと神への真剣な叫びへと戻ることもある。命をねらおうとまでしている敵対者が、この作者のまえに立ちはだかっていた。
 そうした状況において詩の作者はあくまで神に頼り続ける。それは神は人のあらゆる悲しみや苦しみをすべて見て下さっているという確信からであった。

あなたはわたしの嘆きを数えられた。
あなたの記録にそれが載っているではありませんか。
あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。

神は、私たちの苦しみや悲しみを決してなおざりにされることはない。この詩の作者の確信はここにあった。なおざりにするどころか、宇宙の創造主であるにもかかわらず、小さな私たちの苦しみや悲しみを一つ一つを数えてくださった、それほどに一つ一つと覚えていて下さるという実感がある。
 さらに、涙を神の革袋に貯えてくださるということも知っていた。それゆえにこのように、神に祈り願うことができた。
 私たちの悲しみが深いほど、それは人には言うことができないだろう。誰にもわかってはもらえない、当事者だけが知っている深い心の傷というのがある。そのような傷をかかえて一人苦しむとき、神はそのような悲しみや傷みのすべてを一つずつ覚え、その涙を、その悲しみを一つも失われないように持っていて下さる。そしてその悲しみを決して無駄にはなさらない。

ああ、幸いだ、悲しむ者たちは。
彼らは、(神によって)励まされるからである。(マタイ福音書五・4)

 悲しみの深い意味は、パウロもよく知っていた。

神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらす。(Uコリント七・10)

 こうした苦しい経験を通して、この詩の作者は、確信へと導かれる。

私が神を呼べば、敵は必ず退き
それによって神はわたしの味方だと知る。

 この作者の確信は、現代に生きる私たちにとっても、是非とも与えられたいものである。私たちに反対するもの、それは人間であったり、私たちの内にある罪の思い、狭い考えであったりする。またあるときは、病気であったり、将来の不安や心配であったりする。
 そうしたものは、私たちが神に従って歩んでいこうとするときに反対するもの、敵対するものとなるが、もし私たちが神に向かって、心を込めて祈るとき、そうした力は必ず後ろに退く。
 こうした経験を重ねたとき、この詩の作者は神をたたえ、神の言葉への讃美が生まれていく。

私は神にあって御言葉をたたえる。
私は主にあって御言葉をたたえる。
神に依り頼めば恐れはない。
 
 このような作者の人生の経験は、この詩の最後の言葉に結晶している。

あなたは死からわたしの魂を救い
突き落とされようとしたわたしの足を救い
命の光の中に
神の御前を歩かせて下さる。

 この詩の作者にとって、神とは単に宇宙の創造者であって、私たちの心の問題と無関係に存在しているのでなく、いかなる人間もできないような仕方でもって、私たちが苦しい問題に直面したときにも、そばに来て助けて下さり、その恐ろしい死の闇から救い出してくださるようなお方なのである。
 神など存在しないという根拠として、よく持ち出されるのは、神がいるのならどうしてこんなに世の中に悪が多いのか、ということである。
 しかし、そうした無神論の考えをいかなる議論よりも打ち砕くのが、この詩の作者が体験してきたような、死の淵から救い出された、まさに突き落とされようとしたところから助けられたという実感なのである。そうしてたんに危険から救われただけでなく、それまで知らなかった「命の光」というものを与えられて、新しい歩みができるようになっていく。
 この命の光ということは、旧約聖書ではこの箇所以外には、ヨブ記に一度しか現れない言葉である。(*)

(*)「しかし神はわたしの魂を滅亡から救い出された。わたしは命を得て光を仰ぐ」と。
まことに神はこのようになさる。人間のために、二度でも三度でも。
その魂を滅亡から呼び戻し命の光に輝かせてくださる。(ヨブ記三三・28〜30)
 なお、ヨブ記は旧約聖書のなかでも、新約聖書に近い時代(紀元前五世紀頃)に書かれたとされている。

 旧約聖書では命の光というのは、まだほとんど知られていなかったと言える。しかし、この詩の作者は特別に苦しみや悲しみの経験を通して、この世界には、そのような暗黒と死の世界から救い出され、新しい命を与えられつつ、神の光に歩むことができる世界があるということを啓示された。
 ふつうの自然の命や物理的な光とは全く異なる、命の光があるということは、このように死の蔭の谷から救われた者に初めて啓示されたといえる。その点ではヨブ記も、また旧約聖書では、神を信じて生きる正しい者になぜ恐ろしい苦難が降りかかるのかということをテーマにした詩的文書である。苦難のひどい状況からこうした新しい時代を先取りするような、深い経験が与えられるのがわかる。
 新約聖書ではこの「命の光」は、前面に現れてくる。

 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ福音書八・12)

 キリストこそは、闇に輝く光として来られたお方である。また、朽ちることのない神の命である、永遠の命を与えるために来られたのであって、キリストを信じる者には誰でもが命の光を与えられることになった。
 私たちのこの世での苦しみや悲しみは、命の光へ導こうとされる神の導きなのだと知らされる。


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